十六、選抜
(案外平気だった)
という感想が口にでそうになり、猫猫はそっと口を閉じた。
手を入念に洗い、衣服を着替える。
あとは上司のおごりで風呂屋に行く。それだけだ。
初めて人間の体を解体した。絞首刑になった強盗犯の男の遺体で、体の各所に切り傷の痕があった。まさか死んで切り刻まれるとわかれば、もっと違う人生を歩もうと思ったかもしれない。
(体も念入りに洗わないとな)
臭いが残っていないか手を嗅ぐ。着替えにもちゃんとほのかに香を焚いているので問題ないとは思うが――。
そんな時。
「娘娘」
これは呼び止められたと考えていいのだろうか。こういう呼び方をするのは一人しかいない。振り向くと天祐がいた。
「……」
返事をすると名前が違うのに肯定したことになる。だからと言って、無視するのもどうかと思う。
(これでくだらない話だったらさっさと帰ろう)
しかし、呼び留めるだけの理由はあった。
「今から劉医官から話があるとよ」
「湯浴みは?」
「あ・と・ま・わ・し」
どっか勿体ぶる言い方をする天祐だが、当人も風呂に入れないことを不満に思っているようだ。手の甲を鼻にすりつけてくんくん嗅いでいる。
自分一人ではないのだから、文句言えるわけもなく、猫猫は天祐についていくことにした。
しかし、他の見習い医官たちはさっさと帰っていく。
「他のかたたちは?」
「わかんないかな? 追試だよ」
追試という言葉を聞いて納得した。他の見習い医官たちは動物の解体は上手くできていたが人間になると、やはり手が震えていた。
普通に切っていたのは猫猫と天祐くらいだったろうか。
(つまりこいつもか、あと何回か実地を見るかと思っていたのに)
猫猫はまた手の匂いを嗅ぐ。
連れて来られた先の部屋では、劉医官および、おやじこと羅門とその他数名の医官たちがいた。会議用の大きな長卓に椅子が並べられ、上座を中心に座っている。
(みんな上級医官ばかりだな)
皆、腕は確かで学ぶことも多い人たちばかりだ。
医官にも位があるが、ざっと上級、中級、見習いと呼ばれることが多い。
その中に、明らかに浮いた人物を見つけてしまい、猫猫は思わず目をこすってしまった。
ぱたぱたと手を振っている。ふくよかな輪郭に優し気な瞳。宦官なのになぜかどじょうのような髭がある男。
「医官さま……」
もちろん、ここで言う医官というのは『後宮』という頭文字がつく。
やぶ医者だった。
(なぜ、こんなところに。いや、人選的には間違いないんだけど)
仮にも後宮の医療を一人でやっているのなら、位だけでも上級医官になっていなければおかしい。
しかし、どうにも浮いている。
他の医官たちが何かしら突出した能力を持った人たちの中、ぼんやりした子豚のようなやぶ医者がちょこんと座っているのだ。
(そういえば……)
やぶ医者は死体ですら触れるのを怖がる性格だ。
(どうやって見習い医官から医官に昇格したのか)
謎すぎる。
猫猫が考えているうちにぱんぱんと手を叩く音がした。
「集まったみたいだな」
劉医官がざわついていた部屋を静かにする。
周りにはいつのまにか数人の中級医官もいた。実はやぶ医者以上に場違いな猫猫を見ている。
容貌は優れていなくても、男ばかりの医官の中に女が一人混じっていれば嫌でも目に付く。
「じゃあ、話を始める。空いている椅子に好きなように座れ」
(座れと言われても)
上級医官は座っている。
中級医官が動き始めた。
見習いの天祐はまだ立ったまま。
猫猫も皆が座るのを待つ。
好きなようにと言われても、結局は序列順だ。緊急事態ならともかく、こういう場面では流れにそって座ったほうが軋轢を生まずにすむ。
天祐が一番下座を取り、猫猫は空いた席に座る。
(また微妙なところだわ)
上級医官の隣に座ろうと思う者がいなかったようで、一つだけ空いた席はやぶ医者の隣だった。にこにこのやぶ医者の横に座る。
「いやあ、久しぶりだね。食べるかい?」
そっと卓の下に飴を隠していた。
「今はちょっと」
口の中でころころ飴を転がして話を聞くわけにもいかない。何より劉医官が睨んでいる。やぶは気付かれていることに気付いていない。
さて、ところでなんで呼び出されたかと言えば、劉医官が話をすすめてくれた。とりあえずほっぺをころころさせているやぶは置いておくことにしたらしい。
「呼び出した理由は、この中でちょいと西都に行く者を決めようと思う」
前に壬氏が劉医官と話していたことだ。
遠征をするために医官を連れていきたい。あと二人は欲しい、とのことだった。
猫猫はあの場にいて、乗り気で立候補した。果たして選ばれるかは、わからない。
「西都に行きたいと思う者はいるか?」
猫猫はすかさず手を挙げようとしたが、その前に勢いよく手を挙げる者がいた。
「その前に質問です」
質問と言われると、猫猫は手を挙げるわけにもいかず、すごすごと引っ込める。
「前提条件が曖昧すぎます。何のために西都へ行けというのですか? すなわち左遷ということでしょうか?」
中級医官の中で出来ると言われる若手だ。名前は憶えていない。
(あー、そうだよな)
前提として壬氏が西都へ行くと言っていたので、猫猫はおのずと遠征と思っていた。しかし、事情を知らない相手からしてみれば、左遷と言われても変わりなかろう。
(いや、もしかして本当に左遷?)
左遷、いやあの口ぶりだと壬氏が直接出かけるようだったし、そんなことはないと思うが。
「えー、左遷なの?」
やぶ医者が狼狽え、小声で猫猫をつつく。
(聞いてないの?)
上級医官なら説明を受けていそうなのに。いや、やぶだから省かれた。それとも、飴玉を舐めていて聞き逃したのだろうか。
劉医官がわざとらしく咳払いする。猫猫はやぶ医者が話しかけるのを無視するしかない。
「左遷ではない。が、場所が場所だけに長期になる。どう短く見積もっても、三か月は都を離れることになる」
「……戦が始まるということでしょうか?」
頭は切れるが、歯に衣着せぬ言い方しかしない。
そのためか周りがざわつく。やぶ医者も怯えてくっついてくる。猫猫は周りの視線が痛い。
「虞淵さんや。ちょっと」
おやじがやぶ医者をつつく。
(やぶ医者、虞淵って言う名前だったのか)
後宮にいた間は『医官』としか呼ばれていなかったので、名前を聞く機会がなかった。もしかしたら聞いたかもしれないが、正直猫猫は人の名前を覚えるのは得意ではないので仕方ない。
(あの武官なら忘れないんだろうけど)
変人軍師の部下だった陸孫だ。確か西都に行っていると聞いたので、彼こそまさに左遷された側だろう。
猫猫はやぶ医者から解放され、かわりにおやじが捕まった。
もう劉医官は呆れてやぶ医者のほうを見なくなった。空気が読めないというのはある種の才能だと思わざるを得ない。
(なんで解雇されないんだろう?)
本当に不思議すぎる。
「戦かどうかは知らん。我々の仕事は病人・怪我人を治療することだ。それに、今回の遠征は大掛かりなものとなる」
周りの反応はあまり良くない。ここで立候補する者なんていないだろう。
(ここで誰が中心となって行くか聞いたら態度変えるかもなあ)
壬氏であれば皇族だ。医官になれば直接話ができる機会もあるかもしれない。
(しかし、壬氏が行くとしてまだ発表は……)
身分を考えるとぎりぎりまで黙っておくものだろう。
となれば、自分から手を挙げる者はいない。
猫猫は安心しつつ手を挙げようとしたが、劉医官に睨まれた。
(どういうことだ?)
ここで猫猫は立候補するなということだろうか。やはり猫猫では分不相応だと言いたいのか。
「誰も手を挙げる者はいないか。そう思って、すでに候補は三人決まっている。もう一人欲しいのでその立候補を募ったのだ。あと一つの席、欲しくないのか?」
煽っているが、皆、無反応だ。上級医官たちはすでに話を聞いているのか、やれやれという顔をしている。
「はーい」
一人手を挙げた者がいた。誰かと思えば、天祐だ。
「誰もいないんでしたら、いいですか? まだ見習いですけど」
どこか軽薄そうな声だ。普段と変わらない。動物を解体するときも、人間を解体するときも変わらなかった。
燕燕にあれだけ冷たくされてもへこたれないので、精神がかなり図太い人間なのだろうなと思っていたがどうやら違うらしい。
天祐は感情の振れ幅が他人より著しく小さいのだろう。傍から見れば口が達者で話し上手なので感情的と思われるが。
燕燕に対して声をかけるのも、一番冷たく興味深い反応を示してくれるからかもしれない。
「他には?」
誰も手を挙げない。
ふうっと息を吐く上級医官たち。
(壬氏が来る以上、あの中の誰かが入るんだろうな)
劉医官は責任者なのでありえない。西方へと向かうなら知識が深く西方の言葉も理解しているおやじがいいと思うけれど、猫猫は首を振る。
(年齢的に、体力的にきついだろうな)
宦官になったことで、ただでさえ実年齢より老けて見える。さらに片膝の骨を抜かれている以上、長旅は不向きだ。
すでに三人が選ばれているとしたら、猫猫はどうなるのだろうか。
西都を辺境だと思う人間は多いが、そんなことはない。実際は西方の文化が流れ込んでくるのでかなり発展した都市であろう。さらに、医術の面でも新しい技術が入ってきやすい。
おやじの留学ほどではないが猫猫にとって勉強になる。
(おやじ行かないだろうか)
無理だろうな、駄目だよなと思いつつ考えてしまう。おやじはまだやぶ医者にくっつかれて迷惑そうだけど離せないでいる。
「他に誰もいないな?」
劉医官が確認するとまた例の優等生中級医官が手を挙げた。
「行きたいのか?」
「質問です」
そして、中級医官は猫猫を見る。
「なぜそこに医官手伝いの官女がいるのでしょうか?」
誰しも聞きたかったことだろう。しかし、ここで言うのは空気が読めていない気もする。
「この場に特別にいると言うことは、まさか医官枠に入れているのでしょうか?」
(入っているといいねえ)
ここで答えを聞けるなら願ったり叶ったりだが、周りの空気が重い。すでに上級医官は話を聞いているのか特に何もないが、中級医官の視線が痛い。天祐は特に表情が変わらず、周りを見ている。
「医官枠には入っていないが、ついてくることになっている」
(まあそんなもんだろうな)
妥当な扱いだと考える。ともかくついていけるのであれば良かった。
「長旅と言うのであれば、官女を連れていくのには不向きかと思います」
食ってかかる中級医官。
「たしかに体力は男に比べるとねえが、こいつはさっき実技試験に合格した。少なくとも医官の技術は持っている。また、薬の知識に関してはおそらくおまえよりは優れている。旅先で薬が切れたとき、その場の材料で対処できるかというのは大きい」
劉医官は厳しいが見ているところは見てくれている。
中級医官たちはまだ不満そうだ。中には「あの試験をか?」と信じられない目で見る者もいる。
「それでも女を医官と同じような扱いにして連れていくところは気に食わないのか? 今回は大所帯だ。他の職務で官女もついていくことになるぞ。手伝いが増える分は問題ないだろう?」
「それでも医官専用の官女が付いたのは今回が初めてです。何より、実技試験を受けさせるなどと、いくら劉医官でも……」
(ふむ)
これは天祐とは反対の性格だ。多少やっかみはあるものの、一応猫猫のことを気遣ってくれているらしい。空気が読めない発言も、猫猫のことを考えてだったら、ありがたいが迷惑だ。
「私が決めたことじゃない」
劉医官はちょっとだけ不貞腐れた言い方をした。そして、次で恐るべき発言をする。
「漢太尉が今回行くのだ」
中級医官たちがざわつく。
猫猫は全身の毛が逆立ってしまった。おやじの方を見ると、なんとも悲しそうに見つめている。
燕燕ではないが、歯をかちかち鳴らしそうになる。
「おまえら、面倒見切れるか?」
諦めにも似た声で劉医官が言うものだから、誰も反論しなかった。機密情報を口にしていいのか悪いのか困るところだが、人選的にどうとでも取れる相手だ。
しかし、猫猫はそこまで深く考える余裕はなく、瞬間的に頭が沸騰していた。
(あの野郎‼)
猫猫は、久方ぶりに壬氏を水たまりの中でふやけた蚯蚓でも見るような気分になった。
さらに追加で。
「出発は五日後。準備のために休暇をやるので、周りに挨拶するなりしておけ」
猫猫は開いた口がふさがらなくなっていた。