十三、姚と包丁
「荷物が届いてますよ」
猫猫は宿舎の小母さんから荷を受け取る。仕事が遅くなって夕食を済ませたあとだ。わざわざ渡すために待っていてくれたのだろうか。
小母さんは、ちょっとにやにや笑っている。差出人を見ると、誰かと思いきや高順だ。
(絶対勘違いしているんだろうな)
高順の名前を使うが送り付ける相手は決まっている。壬氏しかいない。馬閃の名前を使うという手もあるが、ばれたら面倒くさそうなので高順にしているのだろう。
「一体、なんでしょうね?」
くすくすと笑う小母さんを横目に猫猫は部屋に戻る。文と共に渡されたのは布包み。かすかに香の匂いがする。
「相変わらず雅なことで」
そっと包みを開けると、陶製の器が入っている。中には香が入っていた。
猫猫は顔を近づけくんくんと嗅ぐ。
(白檀を元にいくつか混ぜ合わせている)
良いものだとわかるが、どうにも組み合わせが雑で安っぽく感じる。何事も最高級品を扱う壬氏が贈るものにしてはお粗末すぎた。
(いや、もしかして)
猫猫用にあえて質を落としたものを贈ったのだろうか。以前、散々香の匂いで相手の位がわかると言ったような気がする。
そう考えると、医官手伝いの官女としてはちょっと背伸びしたくらいの香だ。
なぜ壬氏が香なんて贈ってきたのか考える。心当たりがあった。
猫猫は、今度は自分の服の袖を嗅ぐ。かすかに血の匂いが残っていた。
(匂いはきっちり落としてきたと思ったんだけど)
最近は外回りと称して、家畜の解体を続けている。もちろん、解体した家畜の内臓は薬の材料にも使い、肉も処置する。
今日は、運よく猟師が熊を狩ったと聞きつけて、解体に参加させてもらった。すぐに血抜きして解体しないと臭みが残るため滅多に出くわせないと劉医官が大喜びだった。
解体するために着替えて、さらに革の前掛けをつける。仕事が終わったら、宮廷に戻る前に風呂に入る。
(街の風呂屋もたまにはいい)
宿舎では湯舟がないので嬉しい。贅沢なことに、花街で育った猫猫にとって風呂はほぼ毎日入るものだった。後宮暮らしでも数日に一度は入れてもらえた。
風呂が好きか嫌いかと言えば、もちろん嫌いではない。
風呂代は出してもらえるし、昼間から入る風呂も悪くない。
(あっ、髪か)
さすがに髪を乾かす暇はないので、髪は洗わずに上がっている。
壬氏は本物の医官になるために何が必要になるか理解しているのだろうか。
(遺体の解剖まで知っているかはわからないけど)
妙な気配りをする男だ。
猫猫はそう思いつつ、香を一匙小皿に盛るとそっと火をつけた。上に籠をのせて明日着て行く服を被せる。
(こんなもんかな?)
ほんの少しだけ。
猫猫が寝間着に着替えようとすると、戸を叩く音がした。
「どうぞ」
入ってきたのは燕燕だ。手には春巻きを持っている。
「今日の夕飯の残りですが、食べますか?」
「食べます」
猫猫が、燕燕の料理を食べないわけがない。今はそれほどお腹が空いてないが、明日の朝食べても問題なかろう。
春巻きをのせた皿を卓の上にのせる燕燕。目ざとく香を見ている。
「珍しいですね。香を焚きしめるなんて」
「月の忌なもので。今回、ちょっと出血が多いんですよ」
半分嘘ではない。ちょうど月に数日の物憂げになる日だ。
「姚さんもやっているので真似しました」
実際やっているのは燕燕だろうが。
「そうですか」
燕燕から何か突っ込まれるかと思いきや、何も言われなかった。最近、猫猫の外回りが多いことに気が付いているのかもしれない。
(知らないふりができる人だから大丈夫かな?)
燕燕は姚さえ何もなかったら、猫猫の素行について細かに突っ込むことはないだろう。
猫猫は春巻きの上にそっと布をかけると、着替えの続きをした。
翌日、医局につくなり姚が不機嫌な顔をして劉医官と話していた。最近、勤務が彼女とずれてばかりで、顔を合わせることが少ないが、どうやらご機嫌斜めらしい。
(変なこと言わないといいけど)
猫猫は不安になりつつ、生薬の棚の整理を始める。
「私には、外回りはないのでしょうか?」
「ないな」
劉医官はきっぱり言うと、日誌をぺらぺらめくっている。昨日の業務にはあたりさわりないことが書かれている。
「猫猫。最近、あなたは外回りが多くない?」
姚は猫猫にも話を振ってきた。
「多いですね」
下手な誤魔化しはしない。
「昨日はどこで何をやっていたの?」
「熊の胆をとりました」
今、猫猫が片付けているのは昨日手に入れた熊胆だ。すでに加工したものを猟師から譲り受けてきた。
劉医官が一瞬睨んだ気がしたが、止める様子はない。この内容なら口にしても問題ないと理解する。
「熊胆は貴重な生薬ですので、その加工法も見せてもらいました。他にも牛を解体して胆石があるか確認しました。残念ながら、今のところ見つかっておりませんが」
「牛の胆石、牛黄だったら、千に一頭しか見つからないと聞くわよ。ほとんどないとわかっているものをわざわざ見に行く必要があるの?」
「はい。胆石症の症状がある牛ならかなり胆石を持っている確率がぐっと上がります。牛黄は市場に出ると、数十倍と値が上がることがあるので、怪しい牛を見つけたら解体の現場に居合わせるのは別におかしいことではないですよ」
姚の顔がぐぬぬと歪む。劉医官は日誌をまた眺めている。答えとしては及第点のようだ。
(わかる、わかるぞ)
姚が本当に言いたいことが。
(なぜ私も連れて行ってくれないのか)
ということだろう。
そして、対する答えを教えてくれるのは劉医官だ。
「おまえも外回りがしたいなら、まずは食堂にでも行け」
「ど、どうして食堂ですか?」
「鶏の一羽も潰してばらしたことがないだろ? 熊の解体を見るだけと思うか。そういうことだ。猫猫は手慣れたもんだぞ」
珍しく劉医官に褒められたがなんだか嬉しくない。
「じゃあ、燕燕はどうなんですか? 猫猫よりも鶏のさばき方は上手いはずです」
「最初からやる気がない奴は連れて行くだけ無駄だ。燕燕がおまえを置いて一人で行くと思うか? 向上心がない奴を無理やり連れていくつもりはねえ。猫猫だけ連れていくのがずるいと思うのなら、自分が周りの足を引っ張らねえようにしろ」
相変わらず厳しい言葉をかける劉医官。
姚は裳をぎゅっと握り、悔しい顔をしつつも我慢している。台所で包丁を持ったことがないのは事実だからだ。
(それよりも)
姚の背後で歯をかちかち鳴らしながら、消毒用の酒瓶に手をかけようとしている燕燕が怖い。怖い……。
「燕燕」
姚がそっと手を添えて制止している。
いつも燕燕にいいように扱われているような姚だが、ここぞという時には過保護な侍女の扱いを心得ている。
「わかりました。包丁の扱い位すぐに覚えてきますので」
「ほうほう。じゃあ、生きた鶏潰すところからな」
「つ、つぶす」
確かにそれくらいやらないとついていけないだろう。解体される豚を殺すところで、鼻水流して泣き喚いた見習い医官もいたのだから。
家畜でそれなら人間を相手に出来ない。麻酔も何もない状態で、手足を切り落とすことも医官ならありえよう。
(もし戦場となれば、当たり前にある光景だ)
おやじが隠していた解体図などなくとも、人の内臓など見放題の現場だ。解体図で禁書などと言えるのはある意味平和ということには違いない。
(あれから姚はどう思っているのだろう?)
おやじ、羅門について色々不信感を持っていたはずだ。
もし、動物の解体について額面通りに受け取っているのなら、いくら包丁の扱いを覚えたところでやらないにこしたことはなかろう。
もし姚が叔父への反抗だけで医療の道に進んでいるのであれば、さっさと諦めさせてしまったほうがいい。
毒見で内臓を悪くしたとはいえ、姚はまだ若く綺麗で賢い娘だ。嫁の貰い手などいくらでもいよう。
(いや、これではまるっきり姚の叔父さんと同じだな)
姚と燕燕は叔父を毛嫌っているが、ある意味幸せになる側面も残っている。茘という国では基本、女だけでは生きづらい風習がたくさんあるのだ。
猫猫は昨日仕入れてきた生薬を帳面に書きながら棚に入れた。
その日の夜、姚は早速厨房に立っていた。はらはらする燕燕が姚のおぼつかない手つきを見ている。
「これを、こう!」
「お、お嬢さま」
まるで薪を割るような振りおろし方だ。肉だけでなく骨まで断ちそうだ。
「あ、危ないですから、まずはもっと小さなものから」
「いいのよ。肉、肉を切るの!」
燕燕が慌てている。冷静な彼女ならもっと上手く姚に教えていると思うのだが、これは駄目だ。
猫猫は素知らぬ振りをして部屋に行こうとしたが、しっかり燕燕と目が合ってしまった。燕燕はものすごい眼光で猫猫を見ながら、そっと人差し指で卓の上を指した。もう作り終えた料理だ。しかも乾焼蝦仁である。
ごくんと猫猫は唾を飲み込む。なぜ先に作ってしまったのだろうか。ほかほかの湯気がどんどん逃げていく。ぷりぷりした大きめの海老に、数種の野菜。醤を使っているので辛いはずだが、少々果汁を加えて口当たりのよいまろやかな味に仕上げてあるはずだ。
あれを米と一緒に食べたらどんなに美味かろう。弾力ある身が口の中ではじけるはずだ。
つまり燕燕が何を言いたいかと言えば。
(食べたいなら手伝えかよ)
猫猫は半眼になりつつも手を洗う。結局、海老の魅力には勝てないのだ。
とりあえず猫猫は姚が持っている包丁より一回り小さい包丁を取り出す。そして、人参を一本まな板の上に置いた。
「姚さん、まずこれを切ってください」
「人参を? 私は肉を切りたいんだけど」
「棒槌も切れないのか、と劉医官が言うかもしれませんけど」
棒槌、薬用人参のことだ。
「……わかったわ」
「じゃあ、包丁はこちらに持ち替えてください。包丁も種類によって切り方があります。姚さんの今持っている包丁は骨を叩き切るためのもので柔らかい肉にも野菜を切るのにも適していません。患者の腕を切り落とす練習であれば問題ありませんけど」
「……」
姚は唇を噛みながら包丁を替えた。燕燕がほっとしている。
勉強熱心な姚のことだから医食同源の知識は持っているはずだ。しかし、包丁の種類まではわかるまい。
「包丁の持ち方が違います。こう持ってください。また、人参を添えるのはこう」
姚の手をいちいち移動させながら指示する。
「人参が動かないように固定できたら……、振り下ろさずにゆっくり刃を入れます。燕燕がちゃんと手入れしているので切れ味はいいんです。力はいりません。化膿した肌や肉を切り取るとき、生きた血管まで切断してしまいます」
姚はとんっ、と人参のへたを切り落とす。
「そのまま輪切りに、太さは五分ほどで」
とん、とん、とん。こつさえわかればちゃんとできる子なのだ。見た目はもう大人の女性だが、実際は数え十六の娘である。
「できたわ」
人参が全部切り終わった。
「じゃあこちらを」
猫猫は大根を出す。
「野菜はもういいわ」
「輪切りができただけでしょう? 肉を切るのは大根の皮を綺麗に剥くことができてからにしましょう」
どっちの難易度が高いのかといえば、皮むきのほうだろうがここは野菜で慣らしておきたい。肉がさばけるようになって、劉医官のところへ突撃されても困る。いやその前に鶏を潰さないといけないが。
姚は不満そうだが大人しく大根を持つ。
「いきなり丸ごと皮を剥こうとは思わないでください。まず、剥きやすい大きさに切ってからです」
「わかっているわよ」
姚が大根の皮を剥いている間に、猫猫は人参をどうしようかと眺める。
「猫猫」
燕燕は姚が叩き切った豚肉と、干した椎茸を示す。椎茸は高級品なので、どうやって手に入れたのかはあえて聞かない。
あと周りにあるものといえば、調味料くらい。
(古老肉作れとな)
ちょうど猫猫が芋から作り出していた粉もある。まぶして肉を油で揚げるとよいかもしれない。
海老が冷えてしまうと思いつつも、燕燕は姚が怪我をしないようにじっと見ている。しかたなく猫猫が作ることにした。
「猫猫」
今度は姚が話しかけてきた。
「私、医官の道諦めないからね」
「女性は医官になれませんよ」
猫猫はあくまで嘘は言わない。
「でも、あなたは医官になるために必要なことを教えられているんでしょ?」
「……」
答えない、嘘を言わないとなれば無言しかない。
「私、あれから色々考えたの。羅漢さまの家で見つけた書物について」
あまり聞きたくない名前が出たがここで変な顔をしても仕方ないので静かに聞く。
「思想として受け入れがたいけど、おそらく医術に携わる者としては必要なことだって理解できるわ。そして、人体の構造を知る上での練習として、まず家畜から始めるのでしょう?」
敏い子というのは、同時に面倒くさい。おそらく知らなければ、知らないふりをしていればもっと平穏な道を選べるだろう。
猫猫が思う位なら、燕燕なら尚更だ。姚に幸せになってほしいと思っているはずだ。
しかし、医官と同じことを学ぶとなれば、彼女の道に平穏な幸せは遠ざかってしまう。
「……姚さん。医者というのは、時に人を切り刻むことがある仕事です。妊婦の母体と子が危ないと言われて、子を優先させるとなれば妊婦の胎を裂くこともあります。切らないでくれと懇願する患者の手足を麻酔無しに切り落とすこともあるでしょう。飛び出たはらわたを押し込み、腹の皮を縫い付けることだってありますよ」
「わかっているわ」
「血なまぐさい職につくことで、一生誰とも添い遂げられないかもしれませんよ。血は不浄として、嫌われます。余程、物好きでないと近寄ってこないですよ」
「たかだか血に怯えるような肝の小さい男ならこちらから願い下げよ。そうよね、燕燕」
「お、お嬢さま」
普段、あれほど姚に男を近づけないようにしている燕燕だが複雑な顔をしている。
「あっ、切れた。大根の皮むきって実は難しい?」
「難しいですよ」
「燕燕は牡丹の花を作って飾っているのに」
「燕燕さんは特別だと思います」
猫猫は正直に答えると、芋粉をまぶした肉をたっぷりの油で揚げるように炒めた。
姚は千切れ千切れの大根に唇を尖らせながら、果敢に挑戦している。
海老を口にできるのはもう少し後のようである。