十、医官の資格
数日後、医局の一画ががらんとしていた。見習い医官が使っていた物置で、以前は薬研やら学術書やら置いていたのに綺麗に片付けられていた。
「大掃除でもしましたか?」
ふと猫猫が口にすると。
「そいつは異動になった」
劉医官が答えてくれた。
「研修期間が終わったのですか?」
「んなとこだ」
帳面をつける劉医官。
実は軍部に近い医局は、医官にとっては花形の勤務地だ。怪我人が多い場所ほど医官の実力がつく。
見習い医官たちはまず、花形というべきここに配属される。数か月の研修期間を終えると、別の部署に配属される。実力がある者ほど、忙しい勤務地に置かれることが多い。
ちなみにおやじこと羅門が軍部の医局に配属されない理由としては、変人軍師が入り浸るせいだ。
猫猫が医局に配属されてから毎日のように入り浸っていた片眼鏡のおっさんだが、壬氏との碁の勝負のおかげかあまり来なくて嬉しい。
(ありがたやありがたや)
こういう時くらいは感謝したい。
彼もまた猫猫が医官手伝いとして配属されてから、猫猫の元にやってくることはめっきり減った。仕事が忙しいのだろうし、あんまり近寄りたくない場所には違いない。変人軍師とはまた違った意味で相性が悪い。
今日は洗濯物が少ないので燕燕が一人で洗濯をし、姚が倉庫の整理をしている。心配性の燕燕は「誰かに襲われそうになったらこれを」と大きな音が鳴る鈴を渡していた。
猫猫はと言えば、今日は劉医官とともに医局の留守番である。もっともただ留守番というわけではなく、寝台の敷布を取り換えたり、掃除をしたり、日誌を書いたりやることがある。怪我人が来たら、まず手当をするのは猫猫の仕事だ。見習い医官や医官手伝いができない仕事だけ、上の医官が手を出すことになっている。
今日はやることも少なく、訓練で切り傷を作ってきた武官に傷薬を塗ったり、打ち身の武官に湿布をはったりするくらいだった。たまに風邪薬を貰いに来る官もいて、あらかじめ渡しやすいように包んでいた薬が無くなりかけていたが、劉医官が追加でごりごり作っている。偉い人でも、暇だったら薬の一つくらい作るらしい。
手も空いたので酒精を濃縮させるために竈を使ってよいかと聞いたら劉医官が呆れた顔をした。
「昔、羅門もそう言って作っていたことあったんだが……」
表情が苦々しい。
「あいつが厠に行っているときに、煙管をふかしたまま部屋に入ってきたやつがいて」
「うわあ。莫迦な人いたもんですね」
普通に考えると、どっかんである。
「いや、羅門が特に何も注意事項言ってなかったんだ」
慌てようから誰が煙管をふかしていたのか丸わかりだ。黙ってやるだけ猫猫は空気が読める。
劉医官はおやじとは古い付き合いみたいなので、たまにこうして話を聞けるのは嬉しい。
「竈は使わないほうがいい。仕事さぼっている莫迦が煙管ふかして近づくかもしれねえ。そうだな、火鉢使って隣の部屋でやってこい」
「火力が少ないのですが」
「あんまり大量にはいらねえよ。どうせ暇つぶしで何か作れねえか考えているだけだろ」
(図星だ)
「あと、酒を一杯くらい飲んでもばれねえとか思っていたりしてな」
なぜこんなに勘がいいのだろう。
猫猫は大きめの火鉢と薬缶に管が生えたような蒸留器、消毒用の酒、それから冷たい水を桶に貯めて持ってくる。
「あっ、そうそう。これも持って行きな」
どどんと置かれたのは、はさみと薬包紙と調合を終えた薬だった。
「全部で百、包んどいてくれ」
「……わかりました」
基本、暇な時間は作らせないらしい。
猫猫は火鉢に炭を増やして、蒸留器をかける。前に翡翠宮で猫猫があり合わせの材料で作った蒸留器とは違い、立派な物だ。鍋に薬缶の口を逆さまに付けたようなものが、二つ上下についている。一番下の鍋に酒を入れ、火をかけて蒸発させると、上で冷やされ口から蒸留した酒精が出てくる仕組みである。
(宿舎にも一つ欲しいなあ)
特殊すぎる形ゆえ、作るとすればかなり費用がかかる。今使っている物は陶器製だが、金属製にしても値段は相当するだろう。
(古くなってお役御免になったらくれないかな?)
甘い考えを浮かべつつ、薬を薬包紙に包む。季節柄、風邪をひく官が多いため、薬を持たせるのだ。薬も食べ物と同じですぐ使わないと悪くなるが、すぐなくなるだろう。
猫猫がせっせと薬を包んでいる間に、隣の部屋に誰かが来たようだ。怪我人かな、と劉医官がいる部屋に戻ろうとすると。
「そのまま仕事していろ」
劉医官が猫猫を止めるように戸の前に立っていた。
「客人だが、茶はいらねえ。用意しないほうが無難だろう」
(無難とな?)
猫猫は不思議に思いつつ、言われるがまま元の包む作業に戻る……わけがない。
そっと、戸に耳をたてた。
『無理を言わないでもらいたい。もう一人使える医官を増やすようにですか』
劉医官にしては相手を敬う言葉遣いだ。ということは相手は目上の相手ということになるが。
(誰だろ?)
と、猫猫の疑問は一瞬で解決された。
『無理を承知で頼んでいる。あと二人は欲しいところだ』
戸一枚越しでもわかる美声。後宮時代に比べ、甘さは減ったものの代わりに人をひきつける何かが備わっている。
(天女ではなく天仙に変わったか)
言わずもがな壬氏の声だった。
『言われた通り見習い医官たちを鍛えている最中です。しかし物になるのは半分といったところでしょうか。身はあっても技が足らず、技はあっても心が足りない。心も技も育てるのには時間が必要です』
(心技体? 医官になるために必要な物か?)
『実技で覚えさせることは不可能か?』
『実験で死人を作る気はありません。少なくとも心が強い者でなければ、すぐに折れてしまうでしょう』
(死人……)
どこか引っかかる物言いだ。
猫猫がここ数日引っかかっていることが、考えに導き出される。今すぐ聞きたいことであるが、今は我慢して聞き耳を立てるのに専念する。
『心が強い者ならいそうだがな』
『選ぶのでしたら、しがらみが少ない者がいいでしょうな。変に過保護な親がいるなら、面倒なことになりますから。それに誰しも好き好んで遠い地に向かおうとは思いますまい』
含みのある物言いだ。
壬氏は医官を欲しがっている。遠い地に向かうとすれば、遠征に連れて行きたいということか。
(戦の準備か?)
いや、まだそこまで進んでいないかもしれないが、壬氏はけっこう根回しする性格だ。今後のことを考えて、防衛の要となる場所に人員を増やしたいのかもしれない。
(となると、北か西か)
西には砂欧。北には北亜連。茘と北亜連の間には大きな山脈がある。数里の高さがあると言われる山々を超えるのは不可能に近く、北からやってくる軍勢の多くは北西の山脈が切れている場所から現れる――と官女試験のときの問題文にあった。
(やり手婆のおかげでまだ覚えている)
さすが一夜漬けなんて生ぬるい物を許さない人だけのことはある。
北西に何があると言えば、玉葉后の故郷である西都。
(そういえば白鈴小姐が妙なこと言ってたな)
西の商人が妙な動きがあるとかないとか。
それとも関係しているかもしれない。
猫猫は聞き耳をたてるのでいっぱいになっていた。ゆえに、蒸留器の中身が空になり変な煙が出始めていることに気が付くのに遅れた。
鼻をひくつかせ、恐る恐る後ろを見ると上がった煙に驚いた。慌てて水をぶっかけて火鉢の火を消す。
対応としては迅速だったが、隣の部屋の者たちが大きな水音を聞き逃すわけがなかった。
「何やっているんだ?」
呆れた声の主は壬氏だった。
猫猫は気まずそうに手ぬぐいを持ち、零した水を拭く。
「ええっと、ちょっと火の番に居眠りをしてしまい」
「ほおっ。頬にべったり戸の跡がついているがな」
劉医官の言葉に猫猫は、はっと右頬をおさえる。
「……」
「……」
聞き耳を立てていたことがばればれだった。
猫猫は目をそらすが劉医官の視線は離れない。猫猫の頭は劉医官に掴まれ、そのまま締め付けられた。
(いでででで!)
頭を押さえてしゃがみこむ猫猫。
正直、聞かれても問題ないと思って猫猫を隣の部屋に置いたのだろうと考えるが、それでも聞き耳は駄目らしい。
壬氏は噴き出しそうな顔をこらえている。横には馬閃の他に護衛らしき武官が二人ついている。外面がいいというのも大変だ。
笑いがおさまったようで、壬氏はやけに真面目そうな咳をする。
「劉医官、一つ質問していいか?」
「なんでしょうか?」
「見習い医官の出来は半々と言ったが、医官手伝いのほうはどうなのか?」
「……何をいうのでしょうか。医官手伝いは所詮手伝いでしょう」
「しかし、見習い医官と医官手伝いの仕事内容はほとんど変わりないと聞いた。つまり、心技体が揃っていれば、医官に昇格できるのではなかろうか?」
燕燕と猫猫がどうやったら医官になれるかと話していたことは壬氏も考えていたのだろう。
(問題はその心技体ですけど)
壬氏は何をもって医官になれると考えているのだろうか。しかし、ここでそのことを追及したところで猫猫には都合が悪くなるだけだ。
これまでの壬氏との付き合いで彼がどのようなことを考えているかだいぶわかるようになってきた。もちろん、読めないこともあるが今から言おうとしていることはわかる。
「その医官手伝いは心の強さはいかほどか?」
にいっと猫猫に向けて笑いかけられたような気がした。微笑むのではなく悪戯っぽい笑みだ。
「この猫猫はやたら図太いだけです。何より女です。医官になれるわけがありません」
劉医官ははっきり言った。
(確かにそうだけどね)
もし医官になれたらと猫猫は思わないわけがない。
(おやじは嫌がりそうだなあ)
羅門は猫猫を薬師として育てた。花街で生きるためには十分な技術職であったが、より高い収入が見込める医者にしようとはしなかった。それどころか、『遺体に触れるな』と教えた。
『人間も薬にしようとするかもしれない』
そんな言葉だったが、本当は別の意味があったのだろう。
「この際、医官でなくともよい。医官と同じ技術を持った者であれば、町医者でも薬屋でもいい。特別に許可を与える。だから、あと少なくとも二人、用意できないか?」
壬氏の言葉は含みを持っていた。後宮時代に何度も面倒ごとを持ってきた空気に似ている。
でも同時に猫猫は全身がぞくぞくする気持ちになっていた。
悪いほうのぞくぞくではない。すこしぴりぴりするような緊張の中に気持ちの高ぶりが現れる、まるで初めて使う薬草を自分の手で実験するときのような気持ちだ。
ここで壬氏が猫猫に何をさせたいのか考える。たぶん、いや必ず面倒くさいことだ。しかし同時に、猫猫が本来受けることができない何かを受けるまたとない機会でもある。
面倒くさいことを後悔するのか、それともまたとない機会を逃すことを後悔するのか。
猫猫の答えは決まっていた。
劉医官がじっと猫猫を見ている。断れ、と言わんばかりの表情だ。
(それは出来ない)
猫猫は壬氏の前で片膝をつく。
「ここに一人薬屋がいますが、いかがでしょうか?」
壬氏の口角が微妙に上がった。
「ということだが、どうかな。劉医官?」
「……」
劉医官は猫猫を睨みつけている。仕事の評価については、見習いも手伝いも平等に見てくれると思っていたのに。やはり、猫猫が女なのが問題なのだろうか。
「……私の一存ではお答えできません。何より、この医官手伝いの養父は羅門ですので」
おやじの名が出た。
(おやじに配慮してたわけか)
猫猫は人がいい人畜無害、ごくたまに生態系を壊してしまう元宦官のおやじの顔を思い浮かべる。
悲しそうな顔で猫猫を見てくるとしたら。
(すごいやりにくい)
猫猫の最大の弱点というべき人だ。
「猫猫が羅門の許可を取れるのであれば、私は何もいうことはありません」
劉医官は、「どうだ、やれるか?」と言わんばかりに猫猫を見た。