八、休暇明け
翌日、猫猫は昨日の水桶を見に行く。茶色かった桶の水は、ほぼ黒に近いほど濁っていた。
「おら、これを見ろ」
猫猫は桶をゆっくり傾けた。上澄みの黒い水を流していくと底に白いどろっとした物が沈殿している。
「なんだこりゃ?」
のぞき込む左膳。横には暇なのか趙迂もいる。
「この底に沈んだ物がくず粉になるんだよ。水よりも重いから時間を置けば底に溜まる。上澄みは汚れてるから捨てて、何度も水にさらしては上澄みを捨ててを繰り返して綺麗なくず粉を取るんだ」
「これが昨日の餅になるのかー」
「こら、指を突っ込むな! 混ざるだろうが」
猫猫は、邪魔をする趙迂を押しのける。
「何度もやっていくと、沈殿物がどんどん白くなっていく。木くずがまだ混ざっているから取りながら水は捨てる」
「ああ」
「四、五回くらいやれば水の量を減らして別の器に入れる。その上澄みを捨てたら一度乾燥させる」
「ま、待ってくれ。記帳するから」
慌てて左膳は筆記用具を取りに行く。別に書かなくてもやり方はまとめておいたのだが、自分で書いたほうが覚えるだろう。
「ここにいても面白くないから、どっかで遊んで来い」
猫猫は残っている趙迂を犬でも追い払うかのように扱う。
「俺も手伝ってやるんだ。ありがたく思えそばかす」
「猫の手のほうがましだな」
「にゃー」
毛毛を持ってきて肉球で拳する趙迂。
「毛が入る」
猫猫は毛毛を解放してやる。
「手伝うならまた水を持ってきてくれ。昨日、右叫の分のくず餅奪ってただろ」
子ども好きな男衆頭の右叫は、いつも趙迂を甘やかす。
「えー、また力仕事かよ」
とか言いつつ、桶を持って井戸に向かう。
「そーだ、そばかす」
「なんだ?」
猫猫は上澄みを捨てながら返事した。
「今日、帰るんだろ? 次はいつ戻ってくんだ?」
「んー」
役人の休みは十日に一度与えられている。官女はそれに合わせて休みを取るが、役人よりも重要な仕事が少ないため休みが多い。さらに加えて、季節によって祝日などの休みが加算されるが、年明けの休みのあと祝日は少ない。
(次の休みは十日後かな? 日帰りで戻るのも大変だし)
左膳が思ったよりしっかりしている以上、猫猫が頻繁に顔を出すのは逆に良くないだろう。何かあれば文を送ってもらうようになっているし、問題はないはずだ。
猫猫も休みの日には、勤務日に出来なかった洗濯や薬作り、それから習ったことの復習がある。最近では、姚たちが買い物に誘うこともあるので、暇というわけでもない。
(忘れちゃいけない、姚たちのこと)
変人軍師の家で見つけた書について、何かよからぬことが起きなければよいが。
「一か月後くらいかな」
「なんだよ。ずいぶん先じゃねえか」
「色々忙しいんだよ」
ぶすくれる趙迂。桶を持って井戸に向かい、入れ替わりに左膳が戻って来る。
「おい、また趙迂いじけさせたのか?」
以前は趙迂のことを『坊ちゃん』扱いしていた左膳だが、今は問題なく扱っているらしい。数少ない子の一族の秘密を知る男であるが、今のところ秘密裏に消されることはなかろう。
「別に。忙しいから帰らないと言っただけだ」
「あー。もう可哀そうだろうが」
左膳は呆れながら、木簡に教えたことを書き連ねる。元は子北州の農民だった男だが、読み書きができる程度には優秀だ。
「子どもっつうもんは、強がっていてもまだまだ甘えたいもんなんだよ。特に、趙迂は、ちと……、家族なんてものはいねえし、その頃のことも覚えていないんだ」
「家族は知らんが、妓女たちに甘えまくってるだろ」
「それでも、記憶がない最初の頃に世話してくれた人間に懐くもんだよ。家鴨の雛みたいなもんだ」
「家鴨の雛」
生まれて間もない雛は最初に見た者を親と思い込む。
「あいつの親じゃねえんだけど」
「それくらい趙迂もわかってんよ。でもな、まだまだ子どもなんだよ」
木簡に書き終えた左膳は、桶の水をゆっくり捨て始める。
「私があいつの年の頃には、自分の食い扶持くらい稼いでたぞ」
「……できる人間はできない人間の気持ちにはなれないってやつだな、それ。でも、すごくできる人間はできない人間がどこまでできないのかわかってくれるぞ」
なんだか諭されたような言葉だ。いつも慌てている左膳らしくない。
「……左膳、それ右叫あたりからの受け売りじゃないのか?」
「なんでわかった⁉」
図星だったらしい。どこか達観した男衆は、小さい頃から猫猫に似たような説教をすることが多かった。
「わーったよ。じゃあ、次の工程言うから書き留めろよ」
猫猫は桶に残った木くずを摘まんで捨てながら言った。
連休明けの出勤日はだるい。
猫猫は朝食を食べながら寝ぼけ眼をこする。
「行儀が悪いわよ」
姚は少し機嫌が悪そうに言った。食べているのは鮑の入った粥だ。ちょっと不思議な緑色をしている。猫猫がいる都、華央州では珍しい食べ方だ。
(鮑には美肌効果があるからな)
すまして食べている燕燕が作った物だ。ちゃんと効能を考えているのだろう。
ちなみに猫猫も燕燕が作った粥を食べているが、鮑ではなくただの白粥で黒酢をかけている。鮑は高級食材なので、姚の分しかないらしい。
姚は自分だけ違う物を食べているのを気にしてか、たまに同じ物を用意するように言う。けれど、猫猫は別にご相伴させてもらっているだけなので同じ物はいらない。燕燕もそこのところはわかっているので、猫猫が遠慮しない程度の物を用意してくれる。
朝食を食べ終えて食器を洗いに行くと、燕燕も隣にやってきた。
「ありがとうございます。おかげさまで、休暇中は変な輩と会わずに済みました」
「むしろ変な輩の家にいたんだと思うけど」
猫猫はあれ以上変な家はそうそうないと思いつつ返す。
「猫猫と入れ替わりで屋敷のご主人が戻ってきましたが、ご主人なりに丁重な扱いを受けましたよ」
『ご主人なりに』というからには普通とは違った奇妙な歓待だったのだろう。
「お土産もいただきましたし」
そっと燕燕が取り出すのは、壊滅的な品性の無さを感じられる形状をした棒だった。猫猫は何度か似たような物を持ってこられたことがあるのでわかるが、一応簪である。売っていたのか作られたのか知らないが、これなら落ちている枯れ枝を頭に突き刺したほうがましである。
「捨てたらどうですか?」
「はい。到底、姚さまには似合わぬ代物なのですが、材料自体はいい物を使っているのでばらして再利用するか、売ろうかと」
「うん。それがいいと思う」
猫猫も大体似たような処分方法を取っている。
「猫猫にもと預かっているのですが」
もう一本簪を取り出す。燕燕がもらった物に比べて、さらに派手に珍妙になっている。
「そっちで処分してくれる」
「わかりました」
燕燕は割り切っているので素直に懐に戻す。
二人はかちゃかちゃと食器を洗う。
「姚さまのことでしたら、私が責任を持ちますのでご安心ください」
「すごく助かる」
緑青館ではあまり考えないようにしていたが、実際仕事を始めるとなると姚がどう動くか心配になる。
ただ、姚が何事もなかったかのように医官手伝いの仕事をやったとしても、今後気になることができた。
そこは勘のいい燕燕が気づいていないわけがない。
「……猫猫、一つ質問です」
「なんですか?」
「この国の医官と見習い医官の差はなんでしょうか?」
燕燕の質問に、猫猫は少し考える。
「……見習い医官は、試験を受けて合格した後、医官に師事してから昇格すると聞きましたけど」
「はい。それで見習い医官になるためにはどんな試験を受けるのか、調べました。すると、私たちが受けた試験とほぼ同等の問題が出たのです」
「同等の内容ですか?」
猫猫としては初歩的な医療の知識しか入ってなかったと思ったのだが。
「ええ、それに見習い医官と医官手伝い。私たちの仕事は多少雑用が多いですけど、基本は同じ仕事をしています。もし表向き名前を変えているだけで、同等の物であれば」
「今後、私たちが医官になれる道もあるとでも言うんですか?」
「ええ」
突飛、と言えるほどおかしな発想ではない。法という一つの壁さえなければ。
(燕燕が医官になりたいと思っているわけがない)
あるとすれば、その主人姚だ。
そして、医官と見習い医官の間にある何かを合格すれば、医官になれるとすれば……。
(その何かというと)
「医官になる条件として、例の禁書が関係している気がしてなりません」
おやじの隠し持っていた禁書。なにかしら関係があるに違いない。
燕燕はそこまで推測に至っている。
そして、姚に聞こえないところで猫猫に言う理由があるとしたら。
「私は姚さまを、お嬢さまを。医官にしたくありません」
倫理的にまず受け入れられないと猫猫は思っている。でも、姚は見た目よりも柔軟に物事を受け入れようとする。受け入れる努力をする性格だ。
燕燕の言葉はあくまで念のためだろう。
「……わかりました」
猫猫は茶碗の水滴を振って切った。
「私は姚さんに何も言いません」
ただ……。
「姚さんが自分で選んだのであれば、私にもあなたにも何もできないかと思います」
これだけは伝えた。