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薬屋のひとりごと  作者: 日向夏
壬氏編2
209/391

五、禁忌

 

 禁書、と聞くと何がいけないのだろうか。


 猫猫マオマオは歪な本を見ながら、内容を確認する。


 外科手術そのものは、茘では認められている。そうでなければ、皇太后は皇帝を無事出産できなかったはずだ。


 では、何がいけないのか。


 羊皮紙には人体を事細かく描いている。皮膚に刃物を入れ、内臓を明確に表している。目の前に解体した人間がいなければ描けず、解体された人間は生きているはずもない。


「死体を切り刻むなんて」


 ヤオはまだ青ざめていた。燕燕エンエンが水を持ってきて、姚に差し出す。


(死体を弄んではならない)


 猫猫がおやじから言われたことだ。触れるな、という極端な話に至っている。


 人は死んでもそこで終わりではない。多くの人はそう信じている。特に、衝撃の大きいのは姚だ。八卦に詳しい彼女なら、より深く思うことがあるのだろう。


 人間の解剖は基本的に禁じられている。


「人として生まれ変われないじゃない」


 遺体を損壊させてはならない。再び人になれないから――。


 多くの宦官は落とした一物を大切に保管して持っている。一物をなくすと、来世は人ではなく驢馬ロバに生まれ変わるというのだ。


 罪人を火葬にする理由も、人として生まれ変わらせないためと言われている。罪人などの場合、特殊な事情によって解剖することもあるが、それでも道徳観から避けられることが多い。


 一方で、最も重い刑罰の一つとして、人間を生きながら細切れに解体していくものもあるのだ。


 莫迦莫迦しい、来世などあるものか。


 と一蹴できればいいが、いかんせん猫猫には前世がないとは言い切れない。猫猫もまた誰かの生まれ変わりなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。


(死んで確かめようにも確かめられない)


 たとえ生まれ変わったとしても記憶など持ち合わせていない。もしかしたら、今の生が過去の誰かの生まれ変わりなのかもしれないが、とんと前世の記憶などないのである。


 猫猫は唸りつつ、本の頁をめくろうとした。しかし、姚が本を掴んだ。猫猫は慌てて姚の手を掴む。


「放して」

「どうするんですか?」

「焼かないと、こんなもの表に出ていい物ではないわ」


 もっともな意見だ。しかし、猫猫はうずうずとした気持ちを抑えることが出来ない。


「姚さん。あなたは外科手術の立ち会いをしたことがありますか?」


 猫猫は声を落として、気持ちが高ぶらないように話しかける。


「……傷口を縫うのなら」

「ではなく、もし刃が腹を突き刺していたら? 適切な手当さえすれば、死ぬことがないとすれば」

「……」


 姚は唇を噛む。彼女はまだ十五の娘だ。精神的に幼さが残るが、頭は良い。それに、物事を客観的に受け取ろうとする聡明さがある。


「どの臓腑に傷がついているのか、初見でわかりますか?」

「わかるようになる……わ」

「それまでに何人が手遅れになるんでしょうか?」

「……」


 猫猫は姚の手から本を奪う。


 姚の言いたいことはわかる。猫猫も、一般常識として、禁書であることはわかる。


 本来、死刑執行人である刑吏けいりでもなければ、人間を損壊することは許されない。


 もちろん、戦という事態であれば別だが。


 一方で、医術は人体の構造を知る必要が不可欠だ。おやじである羅門はともかく、他の医官たちはどうだろうか。


「姚さんは医官が刑吏のように、人を切り刻むことが許せないと思うのはわかります。ましてや、こうして記録を取ることなどもっての他ですよね」

「ええ、そうよ」

「でも、解剖された遺体が罪人であった場合はどうでしょうか?」

「……」


 人間の道徳観など、曖昧なものだ。これはやってはいけない定義があれば、それに反することを許さない。だが、例外とする教えを用意してやれば納得する。


 時に政治と呼ばれ、時に宗教と呼ばれる。


 猫猫は、医局勤めを始めてから疑問に思うことがあった。外科における医官の水準が高いことだ。市井の町医者なら、簡単に手足を切除してしまう大怪我でも治してしまう。


 一度見たのはリュウ医官の手術だ。猫猫は、姚たちよりも違う仕事を任されるようになり、手術の手伝いも行うようになっている。


 医者嫌いの武官が傷を放置し化膿させた。暴れる武官を拘束して痛みを緩和させる薬を飲ませた。


 化膿した部位は広く、もう切り落とすしかないかと猫猫は見ていたが、劉医官は必要最低限の化膿部位だけを取り除き、切断することはなかった。後遺症は残るが、術後の経過は良いそうだ。


 腕の筋肉の形をしっかり理解していなければ、あれだけ無駄のない手術はできないだろう。


(ここで疑問を姚には聞かせないほうがいいだろう)


 今は、この本をどうするかについてだ。


「姚さんにとってはこの本は禁書であることは間違いないと思います。しかし、他所の家にあったものを勝手に家探しして、挙句、勝手に処分するのはどうでしょうか?」

「で、でも」

「紙と使っている筆記用具からして、西方で書かれた物をまとめています。茘と西方では常識が違います。向こうでは当たり前に行われている医療行為が、こちらでは異常なだけでは?」

「……それでも、私は、受け入れられない……わ。でも……」

「姚さま」


 ずっと黙っていた燕燕が口を開いた。


「この本はとりあえず元の場所に戻しておきましょう。元々、見なかったことにすることも時に賢明なのかもしれません」

「でも……」


 姚はまっすぐな性格だ。聞こえはいいが、融通がきかない。


 しかし、頭を冷やす時間くらいはとれそうだ。


「食事にしましょう。今日は、姚さまの好きな点心をたくさんご用意しました」

「食欲はあまりないんだけど」

雪蛤はすももありますよ」

「……ちょっと食べる」 


 材料が何か知らないが姚の好物には違いない。


 燕燕が姚の背中を押し、居間へと連れていく。


 猫猫はため息をつきながら、歪な本が見えないように布に包み、元の隠し棚に戻した。






 昼間は冷えるが夜はさらに冷える。


 猫猫は上掛けに包まったまま、本の書き写しを続けていた。結局、昼間のことで手一杯で全然、写し終わっていない。


 かつかつと足音が聞こえてきた。


「夜は寝てください」


 燕燕がやってきた。


「終わらないんです」

「終わるわけがないですよ」


 猫猫の横に座る燕燕。この様子だと姚はすやすや眠っているのだろう。


「どうするんです? 例の本は」

「どうすると言われても、一応元に戻しました」


 何事もなかったかのように元の位置に戻す、のが一番穏便なのかもしれない。ただ、正解とも言い切れない。


 姚のことを考えると所在をはっきりさせないと落ち着かないだろう。


 と、同時に猫猫は姚が医局勤めに向かないことを確信する。


「燕燕、姚さんがこのまま医局勤めをしていていいと思いますか?」

「何を今さら聞くんですか?」


 燕燕は、猫猫とは違う本を書き写し始めている。手伝ってくれるのはありがたい。


「毒見のこともあるけど、色々向いてない性格なのではと。姚さんほどの人材なら、他の部署でも引く手あまたでしょうに。八卦のこともずいぶん詳しかったですし」


 燕燕はすらすらと写し続ける。


「八卦や五行については、元々受けようとした部署の必須科目だったんです」

「ほうほう」

「医局配属が女性でも許されると聞いて、転向したのですよ。五行なども出てきますから」


 五行は医局でも使われる。薬膳は五行の考えを取り入れることも多い。


「猫猫が八卦に疎いのが意外だったんですが」

「五行なら多少はかじってますけど、八卦ともなるとまじないの要素が強すぎて合わないんです」


 呪いや占いなど勉強する気にはならない。


「なるほど」


 燕燕が深々と頷く。


「私みたいな他に特技がない人間ならともかく、姚さんに燕燕ならもっと別の場所で能力が発揮されると思いますよ」


 ちょっと話がずれたので元に戻すとする。


 燕燕は筆を止めた。


「姚さまは医局勤めをやめることはないと思います」

「どうしても?」

「どうしても。――たとえ、医局が禁忌に手を出していたとしても」

「……」


 やはり燕燕は鋭い。猫猫と同じことに気が付いていたようだ。


「いつ、気が付きました?」

「今日の本を見つけたことですね」


 人間を解剖した図を記した本。


 この国では外科手術は許されているが、人間の遺体を切り刻むことは許されていない。


 しかし、人体の構造をよく知っている劉医官。


 罪人であれば切り刻むことは許される。罪人の遺体は、人として生まれ変わることを許されず火葬される。


 時に、皇族もまた外科手術を行うことがあり、それは決して失敗できるようなものではない。


 つまり何が言いたいかといえば、医官は罪人の死体を使って医療技術を研磨しているということ。刻んだ遺体は火葬してしまえば証拠が残らない。


 医者は尊敬される人間でなければならない。だからこそ、血生臭く残酷な行為は極力隠したいのだろう。


(おやじが私を医者にさせたくなかったわけだ)


「羅門医官と劉医官、あと数名はかなり人体の構造に詳しいですね。新人や不器用そうな医官は最初から知らされていないのかと」

「私も同意見です」


 才能ある人材のみ知らされるのかもしれない。そこには、性格もまた適性に含まれるはずだ。


「姚さまは医局勤めを辞めたら、他の部署へと移ることはできないでしょう。圧力をかけてどこにも入れない可能性が高いんです。医局は、姚さまの叔父が手出しできない領分だったんです」


 医官の頂点トップは劉医官だ。あの人に逆らえる人はそうそういないだろう。


「私は姚さまにふさわしい旦那様が見つかるまで、好きなことをさせてあげたいんです」

「……旦那様」

「どうしたんです、猫猫? 意外そうな顔をして」


 燕燕が首を傾げる。


「いや、燕燕のことだから、姚さんに近づく殿方はすべて排除してそうだから」

「そんなことありませんよ。家柄、容姿、性格など一定基準をこえて、なおかつ姚さまの意向があれば始末なんてしません」


(始末……)


 やる気満々だ。


 そんな理想の殿方が見つかるのだろうか、と猫猫は遠い目をする。


「なので、医局では何事もないように仕事をしていただければと思います。特別な勉強が必要なのは優秀な医官だけなので、私たち官女には声などかけられることはないでしょうから」


(つまり黙っておけということね)


 猫猫は指先で自分の唇を押さえる。


「目下問題があるとすれば、見つけた本のことですね」

「……姚さんは黙って見なかったことに出来ないでしょうね」


 少なくとも、おやじに対して普通に接することは出来ないだろう。


「おや、羅門医官に対してぼろをださないといいけど」


 おやじは敏感なのですぐ察してしまうだろう。


「羅門医官については、姚さまも尊敬していただけに衝撃も大きいかと思います。でも、西方の留学先のことだと話していれば、いくらかは納得してもらえると思います」

「……だといいけど」


 猫猫は筆を動かして、本を写す続きを始めた。



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ワイ医学生、解剖を禁忌扱いされ気持ち悪がられて泣く
[一言] 薬学だって同じ様なもんさ
[気になる点] 解剖学は外科的なアプローチにだけ関わるものではありません。 解剖学が存在しないのなら作中の「この毒はこの臓器を痛める」なんて台詞は全部ありえない、ということになってきます。 解剖の禁忌…
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