二十一、白湯汁
「猫猫、なにやってるの!」
「何を、と言われても」
猫猫は左手に傷をつけた小刀を置く。
部屋で新しい薬を試していた。猫猫としては日常風景だが、姚にしてみれば異常な光景に違いない。
「問題ありません。ここに薬がありますので」
ただし、効くかどうかはわからない。新しい薬を作るというのは、試行錯誤の繰り返しだ。
(他に実験出来る人間がいればいいけど)
おやじから、渋い顔をされる。たまに丈夫そうな武官を相手に薬を使っているのだが、そういうちょうどいい人材に限って、一度治療したら次来ないことが多い。
ねずみを使ってやるのも怒られるし、前に毛毛の毛を剃って髪の生え薬を試そうかと思ったら、緑青館の皆から非難轟々だったので実行できなかった。ちゃんとそり落とした毛は筆として利用するというのに。
だから、猫猫は自分の体を使うしかないのだが。
「莫迦!」
怒られた。
「どうしました?」
姚の声を聞けば、燕燕がやってくる。
猫猫の左手を取り怒っている姚と、それを眺める燕燕。
「燕燕、何か言ってあげて頂戴!」
「何をですか?」
燕燕は夕餉の準備の途中だったらしく、手には白菜を持っていた。今日は、鍋料理だろうか。燕燕の白湯は魚介と豚骨の出汁がしみ込んでいて美味い。あとでいただこう。
「何をって、これよ。見てよ、ぼろぼろの左手」
「はい。どうせ薬の効果を試しているんでしょう」
「そうなの!」
「そうです」
燕燕は鋭いので見なくても気づいていたようだ。
「なんでわかっているなら止めないわけ? 全然治る様子がないとは思っていたけど、新たに傷を作っていたのよ」
さらしのことはつっこまれたことがなかった。気づいていないのではなく、一応、気遣って話に触れないようにしていたらしい。
「それは、お嬢さま。猫猫が自分でやっていることです。単なる自傷行為ではなく、薬を作り上げるための目的があるのであれば、私は止める必要がないと判断しました」
「はい。意味があることです。薬と毒は紙一重ですので、どう配合すればいいかは、試すしかありません」
医療従事者であれば、薬の実験がいかに大切かわかっているはずだ。薬の効用を試すために、医局では動物を数種類飼って試している。姚も複雑な顔をしてみているが、文句は言わない。必要なことだとわかっているからだ。
なので口出しする権利はないと猫猫は思うが、姚は眉を歪めつつも引く様子はない。
「だからって、そのままにしておくわけにはいかないでしょ」
姚は猫猫の手を離さない。
「友達がこんなことしているなんて!」
『……』
猫猫と燕燕が目を丸くする。
「ともだち、ええ、ともだちくらいまでなら。ええ、まあ……」
少し妬むように猫猫を見る燕燕。
「友だちだったんですねえ」
そういえば、最近は仕事以外にも一緒に食事をしたり、雑談していた。これは、友だちとしての付き合いと分類してもいいのかもしれない。
燕燕と猫猫にそれぞれ確認するように言われると、姚の顔がだんだん赤くなってくる。
「ち、違う! 友だちじゃなくて、ど、同僚! 同僚よ! 同僚が変な薬の実験していたら止めるものでしょ! 燕燕もそうでしょ?」
同意を求められた燕燕は一瞬考える。
「……正直、猫猫なら止めても無駄ですし、なにより意味があるのならやらせてあげるのが正しいかと」
猫猫も頷く。
「じゃあ、私も同じことするわよ!」
「駄目です!」
燕燕は即答する。持っていた白菜が床に落ちる。
「姚さまの美しいきめ細かい肌に、一筋の傷もつけることは許されません、ありえません、あってはならぬことです。もし、そんな真似をしようものなら、私はその十倍、いや百倍の傷を体に付けます。それでも、それでもよろしいのですか?」
真顔で早口でまくし立て、姚の両肩を持って揺さぶる。
猫猫がぞんざいに扱われているようだが、対象が姚であれば仕方ない。
相手に執着するほど、相手の行動に制限をかけたくなるというものだ。それが、自傷行為につながるのであればなおのこと。
(……)
猫猫は首を傾げ、「んー」と唸る。
なにかしら思い当たることがあったようななかったような。
(いや、なかったことにしよう)
猫猫は唸りつつ、姚の手が離れた左手に薬を塗ってさらしを巻いた。燕燕が落とした白菜を手にとる。
「ねえ、なんか焦げ臭い」
猫猫は鼻を鳴らす。
「……鍋、火にかけっぱなしでした」
『……』
慌てて厨房に向かう三人だった。
鍋の他に作っていた生煎饅頭は、その姿を炭に変えていた。数は三の倍数、猫猫の分もちゃんと入れてくれたと信じたいが、黒焦げのなにかを食べる気にはならない。
「あとで洗います」
肩を落とす燕燕。食材を無駄にしたことよりも、表面にこびりついた焦げ目を取ることが滅入るのだろう。
(あれは大変だ)
粥に鍋といつもより少し質素な食事をいただく。蓮華ですくって汁を飲むが、燕燕の作る白湯は美味い。一度、調理法を聞いたが教えてくれなかった。ただ、燕燕は姚をそっと見てにやりと笑っていたので、詳しく聞かないほうが正解なのかもしれない。
(何入ってるんだろうか?)
姚と違い、猫猫は下手物でもいけるので気にしないでおこう。
ちょっと菜が少ないことに残念そうな姚だが、燕燕の落ち込みようを見ると何も言えないだろう。この主従が上手くいっているのも、燕燕の傍から見たら一方的すぎる愛を受け止めている姚がいるからである。
猫猫は干し貝柱を箸でつまんで口に入れる。まだじんわりと味が残っている。
「そういえば、姚さん。なにか御用でしたか?」
鍋を焦がした元の原因は、姚が猫猫の部屋にやって来たことだ。照れ屋の姚が、意味もなく、もしくは理由もつけずに猫猫のところにやってくることはない。
「忘れてたわ」
姚は、豚肉をはさんだ箸を置く。懐から紙を取り出す。
「これ、日程表」
「日程表」
医局では祭事ごとに、医官が配置されることが多い。なので、医官が呼び出されるような行事がないか、ひと月分の日程表が渡される。
中を開くと懐かしい文字があった。
「園遊会」
そうだ。冬を前にしたこの季節、後宮の妃たちが恐れる園遊会があるという。
「主なものは園遊会と年末の祭事くらいですね」
燕燕も顔を出す。
「園遊会って、ちょっと遅くないですか?」
前に園遊会があった季節は今よりもうひと月くらい前だった気がする。庭に愛でる花などもう残ってはいまい。
「遅いですね。でも、今回は園遊会というのは建前だと思いますよ」
情報通の燕燕が『園遊会』の文字を指でなぞる。
「有耶無耶になっていた新しい『名持ち』の紹介をするのでしょう」
「『玉』ですか?」
『玉』すなわち、玉葉后の父親、玉袁のことだ。茘の西、西都をおさめている彼を都に呼び出して半年経とうとしている。
本来なら、さっさとお披露目をしていたはずだ。あの砂欧の巫女の毒殺騒ぎが無ければ。
少し顔色を悪くする姚と燕燕。
この二人は巫女の存命を知らない。姚は何かしら気づいているかもしれないが、燕燕は知らないはずだ。知っていれば、姚命の彼女が何かしらやらかしているだろう。
「西では新たに徴兵が始まっているそうです。いえ、西だけでなく他の土地でもですけど」
(本当にどこから仕入れてくるんだ、その情報)
「徴兵って」
「ええ、ただの軍の拡大ならよろしいですが」
何かしら視野に入れて、考えているのだろう。
ともかく医官手伝いの猫猫が首を突っ込む話ではない。
「燕燕、一つ聞いていいかしら?」
「なんでしょう?」
「西都の連中って信頼できるの?」
姚の率直すぎる言葉に、猫猫は周りを見渡す。食堂には誰もいない。寒いので扉と窓は閉め切っている。誰かに聞かれていることはあるまい。
「お嬢さま」
「わかっているわよ。だから、ここで話しているの」
姚とて莫迦ではない。ここには三人しかいないので口にしたのだ。
「確かに玉葉后について噂は聞いているわよ。美しい人だけど鼻にかけることもなく、後宮でも下々の者に優しいって。そこのところは猫猫のほうが詳しいだろうけど」
「玉葉后は、傾国の類ではありませんし、主上も女性に溺れるような方とも思えません」
ここでちょっと言い過ぎたと猫猫は気付く。
「と、後宮医官が言っていました」
やぶ医者を挟んでおく。
猫猫が後宮で働いていたことは知っているが、翡翠宮でとは言っていない。燕燕なら知っているかもしれないが、口にしないほうが無難だと黙っておく。言われたら話そう。
「傾国ではないというけど」
姚は粥をさじですくう。
「過去にいた傾国の美女の何人が本当に悪女だったのかしら」
ぼとぼとと、粥をまた茶碗に落とす。
姚の言っている意味はわかった。
「玉葉后がどんなに出来た人でも、その親族まではわかりませんね」
玉袁という男について、猫猫はほとんど知らない。
普段、どちらかと言えば直情的な姚だが、たまに妙に鋭い。
「ええ。玉葉后が体のいい道具じゃないと思いたいわ」
「姚さま」
燕燕が心配そうに姚を見る。
叔父に道具にされかけていた少女は、最高の出世の道具として国の女の頂点につこうとしている玉葉后をどう思うのだろうか。
姚はまた匙で粥をすくうと、口に入れた。