二十、矢毒
宮中では様々な祭事がある。今日もまた、ぞろぞろと僧のような恰好をした人たちが、宮廷内を歩いていた。
「いつもよりずいぶん多いですね」
猫猫は洗濯したさらしをぱんっと水切りする。
「今日は月の君が祭事を取り仕切るそうです。ここの近くの廟ですね」
少々、忌々し気に燕燕が言った。
「詳しいですね」
「ええ。浮かれた官女たちがきゃあきゃあ言いながら、話していました」
なるほど、と猫猫は納得する。
燕燕は少し猫猫を窺うように見る。
「どうしました?」
「いえ、一つ質問が……」
「なんですか?」
内緒にしたいらしくてちょいちょいと猫猫に近づくように呼び寄せる。
「女性は皆、あんな男が好きになるものでしょうか?」
「はっ?」
思わず間抜けな声を上げてしまった。まるで燕燕が年ごろの娘のような話をしている。しかも少し、困ったような顔をして。
(あー、そういうことか)
猫猫はなぜ、燕燕がそんな質問をしたか理解した。あんな男とはつまり壬氏のことだ。
今度は猫猫が燕燕に耳打ちをする。
「姚さん、いまはまだ仕事で手一杯でそういうことには興味ないと思いますよ」
燕燕の顔がぱあっと明るくなる。
(わかりやすい)
少なくとも、姚は壬氏の顔を見る機会が何度かあった。
「姚さんは月の君を見ても、頬を紅潮させることも、動悸息切れ、また痙攣引きつけなどを起こす様子はなく、ひたすら次に何をやるべきか考えているように思えます」
「……なら問題ないのですが」
「ただ――」
猫猫は知っている。確かに、姚が壬氏に惚れている可能性は今のところ薄い。薄いが、これからどうなるかわからない。姚とてまだ年若い娘だ。いつ、あの甘ったるい顔面に陥落することも無きにしも非ず。
特に、仕事という緊張が抜けたときが危ない。
「仕事ではなく、私生活で出会うことがあれば、ちょっと違う反応があるのかもしれま――」
ばしゃっと音が響いた。さらしを入れていた桶をひっくり返した燕燕、顔色が悪い。
「燕燕?」
「……お、お嬢さまに限ってそんなことは」
「落ち着いて。私生活で会う機会なんて、そうそうないですよ」
猫猫は、顔を真っ青にし、歯をかちかち鳴らしながら、震える燕燕の背中を撫でる。
「おい、どうかしたのか?」
近くにいた若い医官が燕燕の様子がおかしいことに気が付いて近づく。医官だけあって反応が早いのはいいが、今は必要ない。
「問題ありません。大丈夫ですから。ちょっと休ませますので」
猫猫は燕燕を支えると、医局に戻ることにした。
「はい、どうぞ」
猫猫は、寝台に寝かせた燕燕に茶を渡す。
ちょうど姚が非番の日でよかった。さすがの燕燕でも、毎回、休みを姚と一緒にすることは出来ないのだ。
医局には劉医官がいて、さぼりと怒られるかと思ったが、燕燕を見るなり「休め」と一言で終わる。
「言うのもなんだと思っていましたけど、姚さんのことになると、暴走するのは少し危ないのでは?」
茶を飲む燕燕に、猫猫は呆れつつ言った。
「……わかっていますけど」
「今後、姚さんが結婚されるときなどどうするんです?」
「……」
また、真っ青になるのではないかと思ったら、落ち着いていた。
「お嬢様もいつか結婚しなくてはいけない時があります。そのときは私とて覚悟しています。ただ、旦那様になるかたは、お嬢様にふさわしいかどうかしっかり吟味させていただきます。実際、させていただきました」
過去形だ。
「もしかして、叔父さんが持ってきた縁談でしょうか?」
ちらっと聞いたことがある。姚の父親は死んで叔父が現在、家を守っていると。
「はい、あのくそじじ……、いえ、当主は、お嬢様が美しく発育が良いのをいいことに、三年前から縁談の話を次々持ってくるのです。仕事を始めた今でも、何かにつけて見合いをしないかと文を出して!」
三年前、姚がまだ十二歳だ。やけに幼女趣味の相手に対して警戒するわけである。
「燕燕。わかったから、湯呑置いて。割れるから」
猫猫はひびが入りかけた湯呑を取り上げて置く。思わず慌ててしまう。
「……でも、勝手な縁談ならともかく姚さんが決めたのならとやかくいう必要はあるんですか?」
その質問に、燕燕は俯く。なにかぶつぶつ言っている。呪詛を吐いているようだが、宮中でそんなもの吐き出すことは許されない。誰かに聞かれぬように口を塞ぐ。
(姚も大変だ)
猫猫は面倒くさい従者を持った姚に同情した。
「じゃあ、私は仕事に戻るので――」
もう少しゆっくりしてください、と言おうとしたときだった。
医局の戸が乱暴に開かれた。
「おい、何事だ!」
控えていた劉医官が入って来た官たちに聞く。三人いて、一人はぐったりして、即席の担架に乗せられていた。
三人は、文官でも武官でもなく、派手な祭事の服を着ていた。担架で運ばれた人物は、呼吸が荒く、唇の端に嘔吐物がついていた。
「矢に射られました」
連れて来られた祭事服を着た男の腕にはさらしが巻き付けられ、血が滲んでいた。顔色も悪い。
猫猫は慌てて、竈の薬缶を持ってくる。
劉医官は応急処置のあとを引きはがす。矢傷のあとが変色していた。
猫猫は湯とともに、小刀を持ってくる。刃を焼いて冷やし、劉医官に差し出す。
「な、何をする気だ!」
「何をって言われても切るだけだ。応急処置としては悪くないが、このままだとまだ毒が残っている。下痢はしてなかったか」
「し、していないと思う」
下半身は汚れていないので、恥をかかずにすんでよかった。
血を抜き、残った毒を流すのだ。
「猫猫?」
隣で騒いでいたのか、燕燕が起きてきた。
「大丈夫。手は足りてる」
切開を行い、あとは針で縫い、薬を用意するだけだ。
暴れる官を連れて来た官たちにおさえてもらい、血抜きをする。
「矢毒なら附子ですか?」
「症状から言って、たぶんな」
ならば、解毒剤はない。化膿止めと血を作るのを助ける薬を用意しておこう。
猫猫が準備しているうちにまた、新しい客が入ってくる。
先客たちと同じ祭事服、いやさらに上等な服を着て、すだれのついた冠をつけていた。
壬氏だった。
皆が頭を下げる中で、劉医官は血抜きを終わらせていた。猫猫はさっと糸を通した針を渡す。
(肝の太い医官だよな)
たとえ皇弟の前であれど、傷の手当を優先する。おやじほどではないが、学ぶところが多い有能な医官だ。
「どうだ?」
「幸いです。肉だけ貫通したおかげで、骨を削る必要はありません。最初に、毒を抜いた処置も早かったのがよかった」
「そうか、初めてやった割に上手くいったようだな」
壬氏は少し誇らしげに言った。なぜか、青い顔をしていた怪我人の顔が赤くなった。
(こいつが処置したのかよ)
猫猫は呆れよりも先に身体が動いていた。壬氏の襟首をつかみ、顔を近づける。驚く壬氏の顔を両手ではさみ、口の中をのぞいた。
「無礼だぞ!」
慌てて猫猫をおさえようとする官たちを壬氏は手で制する。
「むし歯はないようですね」
綺麗に並んだ歯は、厭味なくらい整っていた。真珠のように白い歯は、水蓮ばあやが毎日まめに歯を磨かせた結果だろう。
「唇を切ったり、口内炎も無しと」
「無い」
じっと壬氏と向かい合う形になり、そっと猫猫は手を離す。薬缶の湯と水を半分に割ったものを用意する。
「口はしっかりすすぎましたでしょうか? 唾液とともに飲み込んでしまったら、毒抜きの意味はありませんので」
「口はゆすいである。心配なら解毒剤を用意してくれ」
「生憎、附子の毒には解毒剤はありません」
毒を吐き出すことが最優先だ。
「この者は助かるのだな」
「はい。あなた様の処置が早かったおかげです」
猫猫に代わり、劉医官が答える。もう縫い終わり、酒精で濡らした手ぬぐいで傷口を拭いている。
「身を挺して守ってくれた者だ。しっかり治療してやってくれ」
先ほどまで血を抜かれる痛みで暴れていた官は、呆けた面になっていた。壬氏の唇で直接毒を吸い取ってもらったことで、この男はもうそれだけで極楽浄土へと渡った顔をしている。
「月の君、あとは私どもにお任せください。このような場所にいるのは問題かと」
お付の官の一人が言った。血生臭い場所は壬氏にはふさわしくないと言っているのだろう。
「いや、私はまだここにいる。下手に移動するよりもここにいたほうが良かろう。少なくとも、ここには矢が入り込むような隙間はない」
多くの生薬は冷暗所を好む。窓さえしめてしまえば、毒矢が飛んでくることはなかろう。
「それよりも、治療が終わったなら、寝台へと運んでやってくれ。そして、麻美に言伝を」
壬氏が右手をひらひら動かす。猫猫は面倒くさそうに、筆記用具と紙を準備する。
さらさらと書いたものをお付の官に渡す。
「馬閃さまでなくてよろしいのですか?」
「たとえすぐ噂になるとしても、騒ぎはあえて大きくする必要がなかろう」
馬閃の性質を考えるとそのとおりというしかない。忠誠心は高いが基本、脳筋なのだから。
言伝を頼んだ官を見る。猫猫には人払いをしているように思えた。
「おまえたちも仕事へ戻ってくれ。いいな。祭事は無事終えたのだぞ。これは、祭事が終わったあとのことだ」
「は、はい」
これで記録には何も残らないのだろう。
壬氏としても、あまり公にしたくない話のようだ。
残されたのは、壬氏のお付の官が二人。猫猫も名前は知らないが顔見知りの人物で、だからこそ信頼がうかがえる。
猫猫はちらりと隣の部屋を見る。
「私も退室させていただきま――」
「残っていろ」
「隣に燕燕がいますが――」
「燕燕なら問題なかろう」
壬氏はそっと懐から布包みを取り出す。中には折れた矢じりが入っていた。
「これを見てもらいたい」
出されたところで劉医官が手を挙げる。
「私は医者です。矢じりなら、武官に見せたほうがよろしいのでは?」
「ええ、劉医官は優れた医療技術を持っていることは私も知っている。だが、一芸においては他の者のほうがより詳しいこともあるだろう」
猫猫はじっと矢じりを見ていた。
親指の先ほどの矢じりは、綺麗な三角形をしており、血で汚れているが表面はなめらかに見える。
「触ってもよろしいですか?」
「傷を作るなよ」
手ぬぐいで持つと、血をそっと拭う。やはり、表面はなめらかだ。
「どういう相手が撃ったと考える?」
「……」
またいつものように猫猫を試してきた。
「矢じりに毒を塗るとして、毒をとどめておく溝がありません。もし、私が本業の暗殺者であれば、より毒をとどめておくために、矢じりに傷や溝を付けます」
粘りのある松脂状にするか、もしくは松脂そのものを塗りつけて毒をくっつけるか。そんなつるつるした矢じりに毒を塗ったまま持ち運びをすると、毒は落ちてしまう。
「毒は矢を放つ寸前に塗られたと考えてよろしいでしょう」
「毒はまだ持っている可能性があるということでいいのだな」
「あくまで可能性です」
「おいおい」
劉医官が呆れた顔をしている。
「これ以上は、聞きたくないんですが、席を外してもよろしいですかな? もちろん、この娘も同じです」
それでは医局に誰も医官がいなくなってしまうことになる。
壬氏は、きわどい話を劉医官の前で話しているが、それはこの医官が裏切らないと思っているからだろう。
「劉医官。こちらも命がかかっているもので、迅速にことを済ませたいのだ」
「……」
皇族の命とその他の命。医官は、複雑な表情を浮かべながら手を上げる。
「毒は附子か?」
「断言はできません。夾竹桃の毒が矢毒に使われることもありますが、その場合、症状に多くは、下痢が伴いますので、先ほどの症状とは合いません。南方では毒蛙を使いますが、これまた症状が違っているようです」
「劉医官、見解は?」
「なにか間違いがあれば、反論しますし、私は医官であり毒見でも暗殺者でもありません」
(毒見だが暗殺者じゃないぞ)
ただ、今のところ猫猫の見解に反対はないそうだ。
「では、聞こうか。どんな人物が矢を放っただろうか?」
意地悪な質問だ。
暗殺者にしては、道具に殺意がたりない。
狩人にしても、もう少し毒を使う矢じりにこだわるはず。
では、消去法で挙がるとしたら。
弓が上手く、毒を使うなどという発想がない人物。加えて、軍部に近い場所で行うとあらば。
「武官で弓が得意な者といったところか」
猫猫の答えを勝手に読み取って来た。
「しかも、慣れぬ毒を使わされているところで、無理やりやらされているのだろうか」
(……可哀そうに)
壬氏とてわかっているはずだ。捕まえた時点で、その者の命はもうない。たとえ脅されていようと、死罪に変わりない。
(もっと、危なくない場所で祭事をやれよ)
と、口に出かかっておしとどめる。
(いや)
違う。
あえて、狙われやすい場所を使ったのであれば。
壬氏とて、自分が政敵にとって目障りな人間であるということは重々承知だろう。手っ取り早く捕まえるには、餌に自分を使うのがいいと考えるはずだ。
猫猫はすうっと心が冷えていく。
この人もまた皇族であり、政を行う者であり、同時に、自分を大切に思わない人だと。
(不愉快だ)
生き急ぐ人間を猫猫は不快に思わずにいられなかった。