十九、侵入者
阿多の宮はいつもどおりの雰囲気だった。
「阿多さま。本を読んでください」
子どもたちが阿多の周りに集まっている。四阿の下、読み聞かせをする姿は、西方の絵画のようだ。
どうも声がかけづらい中、阿多のほうが気づいたらしい。本をそっと閉じ、子どもたちをなだめて立ち上がる。
「ええ、もう終わり?」
「はは。もうすぐ夕飯の時間だ。眠る前に読むから、その前に歯をちゃんと磨いておくんだぞ」
子どもたちの頭を撫でてから、胡服姿の麗人は壬氏の元へと近づいてくる。元々、若々しい人であったが、離宮に移ってからさらに若返った気がする。
「月の君、お久しゅうございます」
まるで官のように膝をつき、両手を重ねて挨拶をする阿多。恭しいようで、その下げた面にはこっそり舌でも出しているのだろうと、壬氏は苦笑いをする。
「おかわりないようで」
壬氏がそっと手を添える。それを合図と言わんばかりに、案の定舌を出した阿多が顔を上げる。
遠巻きに見られることが多い壬氏にとって、阿多は数少ない、対等に近い立場で接してくれる人だ。
護衛も口うるさい馬閃は置いて来た。
明確に口にはしないものの、あまりいい顔をしないからだ。
ならば、自分の姉こそ注意すべきなのだろうが、どうにもそれができないのが、腕っぷしの割に弱い男である。嫁をもらうことになったら、確実に、高順以上に尻に敷かれそうだ。
「まあ、相手にもよるだろうが」
「どうしましたか?」
「いえ、なんでも」
宮の中に案内されると、香しい匂いが漂ってきた。
「これは?」
卓の上には、酒瓶が並べられてある。匂いからしてかなり酒精がきつい酒だ。
「これは……」
思わずもう一度確認する。
「水蓮の菓子を主上が差し入れてくれたのだ。しかし、私はどうもそれに使っている酒のほうが気に入ってね。特別にわけてもらった」
護衛は部屋の外に置き、中には壬氏と阿多だけだ。阿多の口調はさらに砕けたものになる。
「……」
前に、阿多とともに酒を飲んだときのことを思い出す。あれは、阿多が後宮を出る前夜だっただろうか。呼び出したあげく、大量に飲まされ、挙句、「お開きだ」と言われ、宮から追い出された。
卓の上には酒の他に碁盤も置いてあった。
阿多は碁石を一つつまんでもてあそぶ。
「先日、面白い試合をしたそうじゃないか」
「話題になっていましたか?」
壬氏はそっと目線をそらす。嫌な予感しかしない。思わず立場が逆転して、壬氏の言葉遣いが丁寧になっている。
何年も後宮でやりとりしてきただけに、こちらのほうが自然に近い。
せっかく二人きりなので、このまま会話を続ける。
「ああ。あの変人軍師が追い詰められたと聞いて、思わず笑ってしまったぞ。どんな手段を使ったのやら」
ちゃぽちゃぽと酒瓶を揺らしているところから、もうご明察のはずだ。
「さあ、結局は負けてしまいましたし」
負けは負けだ。
羅漢に勝つ、それがどんな手であっても、壬氏にとって勝ちは勝ちだった。
「しかしいい所まで行ったそうだな」
「ええ、確信しましたよ。まさか薄皮一枚つながったところで、盛り返してくるなんて思いもしないでしょう?」
それでも、油断はしていなかった。再戦に備えて、あらゆる手を考えていたはずが、すべて覆された。
『相手を人間と思うな』
まさに棋聖の言う通りだったと言える。
だからこそ、姑息と言える手段をいくつも重ねて、がんじがらめにしてでも勝とうとしたのだ。
阿多はそれを見越してか、玻璃の器に琥珀色の酒を注ぐ。芳醇な香りが一気に部屋に広がる。
「さて、そこまでして勝ちたかった相手。勝ってどうしようと思ったのだ?」
「……さて、どうしようと思ったのでしょう?」
疑問を疑問で返す壬氏。
阿多は面白くなさそうに、手酌でついだ酒を壬氏に持たせる。
「羅漢殿にどんな形であれ、勝ったとあらば、私を見た目だけが取り柄の皇弟と見る莫迦も減るでしょう」
「いつもながら見た目だけは自信満々だな。厭味など言えなくなるではないか」
「この点につきましては、産んでくれた母さまに感謝をしておくべきでしょうか」
壬氏の外見は時に煩わしくなるほどに、武器になっている。
「……」
阿多が黙っている。さすがに容姿のことで、ここまで自信を持っていたら、呆れられてしまっただろうか、と杯越しに確認する。
「阿多殿?」
飴色の液体の向こうには、なぜか悲痛な顔をした女性がいた。一瞬、いつもの気丈な男装の麗人とは違って見えた。
「気分が優れないのでしょうか?」
「ああ、何でもない。けっこうこれはきついな」
酒の杯を置く阿多。悲痛な顔はそこにはなく、代わりに若い官を思わせるりりしい顔があった。
「わざわざ、変人軍師に勝とうとせずともよかろうに。わざわざ箔をつけなくても、子の一族の一件で、誰も病弱で引きこもりの皇弟とは思っていないぞ」
「子の一族の件は、私の手柄ではありません」
むしろ担がれたほうだろう。もうここにはいない女狐に。
酒を渡されたが、まだ口にはつけない。その前に本題を切り出さなければ。
「そんなことよりも、阿多殿。宮が放火されたと聞いたのですが」
「おう、耳が早いな」
あっけらかんとした口調で返される。
「早いも何ももう十日も前のことではないですか!」
なぜ報告しないのか、と強めに言う。
「報告も何も、ほんの小火だ。何より盗まれたものはない」
「なぜ報告なさらずに」
阿多はにこにこ笑う。
「笑ってごまかさないでください」
「無理か。女官や宦官ならこれで大体たらしこめたんだが」
「私は女官でも宦官でもありませんし、何よりたらしこんでたんですか?」
「おまえも私のことは何も言えないだろう?」
壬氏は言葉に詰まる。
むしろ、後宮にいた当時は使いまくっていたし、今も、たまに活用させてもらっている。
「それで、黙っていた理由は?」
「賢いおまえのことだ。想像がついているだろう?」
阿多はつまみにと焼いた火腿を持ってくる。両手に摘まみぴらぴらと薄切りをもてあそぶ。
水蓮が見たら、すぐさま指導が入りそうな態度だ。
「侵入者は翠苓を探っていたようだ」
大方予想した通りだ。
翠苓、先の帝の孫であり子の一族の生き残りの一人だ。
本来、処刑されるべき人間が阿多の宮にいる。これは由々しき問題だ。
「子どもたちは?」
生き残りの子の一族に加え、親のいない孤児も育てている。
「健やかに暮らしているよ。小火騒ぎも夜中だったため気づいていない。皆、良い子で幼い。過去の記憶は、今から新しい思い出を作り、悲しい記憶を消してやろう」
子の一族であることを完全に忘れてしまえばいい。そうすれば、壬氏たちは悩まずに済む。
何かあれば即座に処分する。
その約束で、子どもたちの命は長らえているのだ。
一人、趙迂という子どもだけが記憶を完全になくしていた。なので、特例の処置として、市井、猫猫たちが世話になっている緑青館に預けている。
子どもを娼館に預けるのはどうかと思ったが、ある意味あそこは一番目が届く場所なのだ。
「それで、翠苓は?」
「子どもにせがまれて、本を読んでいて、そのまま子ども部屋で寝ていたよ」
壬氏は理解できない顔をしてしまった。翠苓といえば、長身で大体男装をしている女だ。壬氏には想像しがたい。大体、無表情で子どもの世話などできるようには思えない。
「昼間は昼間で、庭木の剪定を頼んだから疲れていたのだろう。毛虫が出るたびに驚いて叫んでいたからな」
本来、幽閉しておかなくてはいけない人物に、庭師の真似事をやらせるなんて、阿多らしいと言えば阿多らしい。
「阿多殿」
かつて宮廷を騒がせた女をこのように扱うとは。
阿多にはかなわぬと壬氏はつくづく思う。
「つまり、賊に逃げられたものの、下手な証拠は取られていないととらえてよろしいのですね」
「そうだな。それと、黙っていた理由についてだが」
阿多はそっと懐から布包みを取り出す。中には爪の先ほどの棒のような物がある。
「これは」
「小火の現場で落ちていた。煤で汚れているが、触れてみればわかる」
「……」
指先で確認する。ひんやりとした材質は玻璃だろうか。玻璃を細く長く棒状にして切断したもののようだが、中を見ると空洞になっている。
「数珠玉になっている」
装飾品としては珍しくない数珠玉だが、壬氏が見る限り、この数珠玉はずいぶん小さい。単品で連なっていたのではなく、服や履に縫い付けられる類のものだ。
そして、後宮生活が長かった壬氏には、どんな妃が数珠玉を縫い付けた衣装を着ていたか覚えている。
「西方出身者でしょうか?」
西方では女は刺繍が嫁入り修行に必要なものとされ、あらゆる服に刺繍をしたり、数珠玉を縫い付けたりする。
「私が黙っていたのはそういうことだ」
西方出身者。これに反応する層はどれだけいるだろうか。
現在、帝が西とのつながりを強くしている中で、反発も多い。
「私は玉袁殿の身内が怪しいと思うのだが、どうだろうか?」
玉袁、玉葉后の父親で、茘の西をおさめている。現在、都に滞在しているはずだ。
「安易に口に出す立場ではありません」
「だろうな」
阿多の目はもてあそんでいた火腿を真っ二つに切り裂き、口に入れる。壬氏も火腿を取り、口に運ぶ。程よい塩加減の良い肉だ。水蓮は甘い物をつまみに用意することが多いので、たまには悪くない。
「ともかく気づいたのなら仕方あるまい」
阿多は指先を手ぬぐいで拭き、杯の酒をあおる。
「おまえは優しすぎる。だから、気を付けろ」
阿多はそれだけ言うと、杯を卓の上に置いた。
置いた振動で、壬氏のまだ口を付けていない杯の中身が揺れる。揺れた飴色の水面には、壬氏の顔を歪めて映していた。