十七、感想戦
「おそらく無理でしょうな」
笑って言うのは、帝の碁の指南役であり、棋聖と呼ばれる存在だ。
「せめて私に一勝でもしない限り、なんの希望もありませんよ」
表情が読めない初老の人物は、ぱちりと白石を置いた。
「んぐっ」
ぐうの音も出ないというより他ない。
わかっていたことだ。壬氏は器用貧乏というものらしい。大体のことはある程度できる、できるがそこは他人よりいささか優れているだけ。突出しているわけではない。
秀才と言われても、天才と呼ばれることはない。
それでも、何もしないよりはましなのだが。
「しっかり定石は読み込んでいる。だが、そこから外れた発想は凡人の域を出ず、見たことがない手を見ると焦る」
「……歯に衣着せぬな」
「それがお望みだと言われたではないですか」
ぱくりと水蓮が用意した饅頭を食べる棋聖。見た目の風流さとはかけ離れているように見えるが、碁打ちにとっては甘味を食らうのは常識らしい。考えると甘い物が欲しくなる。それが理由で、とある変人軍師も甘い物ばかり食べているのだろうか。
帝より棋聖を借り受けてから数日、ひたすら仕事のあとに碁を打っている。
「才がない」
「手が単純すぎる」
「優等生のつまらない打ち方」
散々言われた。
前置きで容赦しないでくれと言ったが、本当に容赦がない。
他の相手にもこんなことを言っているのかと聞いたら「言って私を罰することがない人を選んでいます」との答えだ。
「そんな様子で、あの変人に勝てますかな?」
発破のかけかたもうまい。
壬氏は黒石を持ち、正解がどれか悩みつつ碁盤に置く。
壬氏が棋聖にこうして指南役をやって貰っているのは、変人軍師こと羅漢に勝てる相手がこの人しかいないからだ。
「勝てないと今言ったところだろう?」
「ええ、勝てません。月の君は実直すぎるのです。実に正直と言いましょうか」
「それでも勝つ方法が知りたいと模索している」
「私とて教えるためにやってきております。ですが、完全には無理です」
もう一つ饅頭を食む棋聖。
「百に一つでもいい。勝てるようにしてくれ」
「万全の状態の羅漢殿を倒すのは私とて半分を切る。私が万全であっても」
「……意味がわからないが」
棋聖は羅漢よりも強い、ゆえに棋聖と呼ばれている。
「いえ、わからなくはないですよ。月の君は丸腰で一人、熊と対峙したとき勝てると思いますか?」
「無理に決まっておろう」
「狼なら?」
「……状況次第では勝てるかもしれないが、難しいだろうな」
「犬なら?」
「なんとかやれると思う」
狩りの時に教えてもらったことだ。人間は、その大きさよりも存外弱い。道具を持ってこそ勝てるだけであって、素手なら犬一匹と勝てるか勝てないかくらいだそうだ。
「何があれば勝てると思いますか?」
棋聖は石を置く。
壬氏の手などお見通しともいえる動きに、また唸ってしまう。
「無傷なら飛発と言いたいところだが、当てられないだろう。使い慣れた剣が欲しいところか。もしくは、短剣と腕を保護する小手が欲しい」
狭い場所なら剣で戦うことができよう。広い場所なら、難しい。相手の小回りが利かない場所に誘導し、小手に食らいつかせたところで、首を狙う。
「見た目によらず、泥臭い方法がお好きで」
「……好きではない。私にはそれだけの剣の才がないだけだ」
馬閃ならもっと上手くやるだろう。あやつは熊とて渡り合えるかもしれない。
「ふむ、なら、私としても秘策が教えやすい」
「秘策?」
「いえ、大したことはないですよ。ただ、羅漢殿に勝ちやすい条件を教えるだけです」
にいっと笑う棋聖は、普段、文化人としてすまし顔で歩いている人物には思えなかった。
「規範違反なんてことはありません。あくまで合法の、盤の外での戦いですから」
ごくりと壬氏が唾を飲み込んだ。
「この手が通用しなければ、あなたは一生、羅漢殿には勝てません」
はっきりと棋聖は言い切った。
「……負けました」
盤上の陣地と取った石をいくら数えても、その陣地が白の物より広がることはない。
たった二目差。されど、大きな二目だ。
どれだけ中盤、差をつけただろうか。壬氏の陣地が確定し、それを覆すのは不可能と思われた。
壬氏とて、その後、あからさまな悪手を打ったわけではないのに。
今、もしゃもしゃと焼き菓子を食らう御仁はその差を圧倒的な速さで詰めていったのだ。
周りには、馬閃に数人の護衛たち。
碁大会から数日、執務室で仕事をしているといきなり片眼鏡軍師がやってきた。
「続きをやろう」
仕事をさぼっているならともかく、昼飯の時間だった。
執務室にほど近い四阿に碁盤と碁石が用意されてあった。先日の大会、中断したあの通りの並びに置いてあった。
観客が遠巻きに見ているが、断る理由はなかった。
あれから、どうすればさらに差をつけ勝てるかどうか、何度も考えた。
あれだけの大差があって負けることはないだろうと思っていた。
「……ありえない」
馬閃が驚きの声を上げる。
ありえない、まさにその一言だ。
一体、どんな頭の中をしているのだろう。
『あなたは一生、羅漢殿には勝てません』
棋聖の言葉を思い出す。
なぜ、彼が対戦相手のことを『人』ではなく『獣』に例えただろうか。
壬氏は後悔した。熊、狼、犬、そのどれでもないが、羅漢は羅漢という化け物だったということをわかっていなかったのだろう。
片眼鏡をかけなおし、果実水をごくごく飲む男は、すっかり元気な顔色をしている。睡眠不足は解消し、連戦による疲れもない。飲み物にも菓子にも酒精の類はなく、すっきりした顔をしている。
なんともみじめな気持ちだ。
あれだけ姑息な手を使っていたのに、結局、負けてしまうとは。
恰好をつける余裕などないが、あまりに無様すぎる。
周りに観客がいなければ、その場で盤に顔を突っ伏して、唸っていただろう。
なけなしの見栄が壬氏に優雅な外面を作っていた。後宮時代に鍛えた面の皮の厚さだけは褒めてもらいたい。
顔を上げなければ。
手ほどきを受けて負けたという体裁をとらなければ。
ゆっくり顔を上げようとしたところ、碁盤に指先が見えた。
「終盤のこの一手。ここをこちらに打っていればなあ」
羅漢の声だ。
「……」
壬氏は顔を上げる。
変人は顎の無精髭を撫でながら、指先で説明する。
「ここをこう。すると、白の行き場がなくなって――」
ごにょごにょと聞き取りにくい喋りだが、明らかに説明している。
「羅漢さまが感想戦を?」
不思議そうな顔をするのは、羅漢のお付の男だ。
「感想戦だって」
周りはそれを聞いて騒ぎ始める。
「養父上は基本、感想戦など行わないのです」
どこからともなくやってきた羅半が言った。
碁の続きをすると聞きつけて急いでやってきたのだろうか。少し息が荒い。
「それだけ、月の君を認められたということでしょう」
あえて、『認めた』という点を強く言った。
観客がざわめく。
「なぜ、このときにここを打ったんだろうなあ。むぅ」
変人軍師は、感想戦と言いつつ、一人で反省会を行っている。例の失敗した一手のことを言っているらしいが、本人はなぜそこに打ったのかわかっていないようだ。
眠気と疲れと酔いで朦朧としているはずなのに、すべての手を順番に覚えている。
壬氏は笑うしかない。
「……ともかく楽しめた」
変人はそっと壬氏に近づく。
「なにが目的か知らないが、手段は面白かった」
碁盤をそのままにして、徳利を振り回しながら去っていく。
壬氏は唖然とするしかなかった。
集まっていた観客は散り散りになる。壬氏に近づこうとしたい輩はいるようだが、馬閃およびその他護衛が目を光らせる。
羅半だけはひょうひょうとした態度で、壬氏の前に立つ。馬閃は、鼻白んだ顔をしつつ、羅半の存在を許している。二人が会話をしたところをあまり見たことがないが、相性は良くなさそうだ。
「力及ばず申し訳ありません。ただ、義父上は満足しているようです」
「……満足か。あんなお粗末な戦法で?」
莫迦にされているのだろうか、と壬氏は唇を皮肉に歪めてしまう。
「いえ、どんな方法でもかまいません。あの人が面白いと感じればそれが面白いのです」
よくわからない。
ただ、血筋かそれとも、特異な才を持つ者同士か知らないが、壬氏に理解できないことをわかっている口ぶりだ。
ふと疑問に思っていたことを口にすることにした。
「羅漢殿はなぜ、碁の大会をしようと思ったのか? 正直、金銭が関わろうと好きな時に好きなように碁を打つような性格に思えるが」
「はい、そうですね。義父上一人ならきっとそうだったでしょう」
羅半は懐から本を取り出す。流行の一端となった碁の本だ。
「ここにある棋譜は、義父上ととある女性が打ったものが多くをしめています。二十年以上前の棋譜も、義父上の記憶には残っています。昨日、誰にあったかさえ覚えていない人なのに。それだけ、義父上にとってかけがえのないものであり、これ以上増えることがない過去の遺物なのでしょう」
「……ああ」
とある女性というのが誰か、壬氏には心当たりがあった。
緑青館の妓女であり、猫猫の母親たる女性だろう。
「同じ人間はもういない。義父上もわかっています。ただ、過去の棋譜を元に、彼女のような碁を打つ人間が現れないか、義父上はそう思っているのかもしれません」
「……過去を求めているのか?」
「いえ。どちらかといえば、次へとつながっていることを求めているやも。いや、義父上がそこまで考えているかな?」
不安になったのか、羅半は首の裏を掻く。
「……しかし、今の試合みたいに、他の相手にも感想戦をしてくれればいいのに。指南代の返金を求められたら、こちらが困る」
「指南というと?」
確か、有料にて羅漢と碁を打つことが出来ると聞いていた。羅漢の体調不良によって延期になっていたはずだ。
「ここ数日は、指南を優先して行いました。いやあ、日時を合わせるのにも苦労しました。さっきまで、別の相手と一局打ってきたところで、いきなりいなくなったと思ったら、こちらに」
息を切らしていたと思ったら、そういう理由だったらしい。
「こちらからも一つ質問が」
「なんだ?」
「壬氏さまに入れ知恵をしたのは棋聖でしょうか」
疑問符がない、試合の場にもいたのでお見通しだろう。
「主上の時間をいただいて、指南してもらっていた」
「なるほど、ならば納得ですね」
羅半は頷く。
「棋聖との試合のとき、義父上はいつも辛い点心しか用意されないと愚痴っていましたから」
「なるほど」
熊と素手で戦う気はないというのは本当らしい。
「では、僕はそろそろ失礼をします、と、その前に」
羅半は一瞬周りを確認する。
「先ほどの観客の中に、日和見派の方たちが二人ほどいました。今後、態度が変わってくるやもしれません。あともう一つ」
羅半はにいっと口を歪める。
「先日出した焼き菓子、義父上は気に入ったようです。調理法を教えていただきたいと。ああ、できれば酒精抜きのもので」
小声で言うと、小柄なこれまた変人の男は去っていった。
「色々話し込んでいたようですが、どうだったのですか?」
馬閃が少し不機嫌そうに近づいて訊ねた。
「なに。世間話だ。焼き菓子のつくり方を水蓮にまとめておくように言ってくれないか?」
「は、はあ。わかりましたが」
「酒精抜きの物だ。いいな」
「はい」
馬閃は首を傾げつつ、壬氏のあとに続いた。