十一、麻美の一日
「さて、これで終わりと」
麻美は一仕事終えたと、背伸びをした。山のようにあった書類をそれぞれ本来片付けるべき人たちに割り振り終え、月の君の執務室は前に比べてすっきりと片付いている。
今、部屋にいるのは麻美ともう一人。部屋の一画を仕切った場所に居座る弟、馬良だ。
「良、終わりそう?」
二人きりなので、砕けた口調だ。
「今日中に終わるよ」
他に誰もいないので、馬良もまた砕けた口調だ。ひょっこり顔を出すと、なんとも青瓢箪のような輪郭だ。もっとも、この弟の場合、近しい人間でない限り、声どころか姿すら現さないのだが。
「違うのが混じっていた」
「どれ?」
そっと一枚の書類を渡す馬良。
「漢太尉の案件ではないかな?」
「漢……?」
「羅の人です」
「ああ、変人軍師ね」
人嫌いな弟だが、誰がどこの部署で名前は何なのかしっかり覚えている。身内贔屓だが、頭だけはしっかりしている。もう一人の弟の無駄な頑丈さと足して割ればちょうどよかっただろうに。
「別に急ぐ必要はないのなら、あとで持っていくわ」
「いいんですか?」
「持っていっても、無駄だと思うし」
麻美はそっと懐から紙を取り出す。紙には『碁大会』の概要が印字されていた。
「あー、そんなものがあったんですね」
「主催者側だから、仕事なんてやってないでしょ?」
「……大丈夫なんですか?」
また仕切りに隠れ、心配そうな声だけ出す。ぺらぺらと紙をめくる音が聞こえるので、仕事を休む気はないらしい。
「自業自得でしょう?」
変人軍師こと漢羅漢は、月の君とは折り合いが悪いらしい。だからだろうか、月の君に一番仕事を押し付けていたのは、羅漢だった。仕分けた山のような書類を押し付けるのが、ここ最近の麻美の仕事だ。
前にも何度か、抗議しにいったらしいが、そのときはいつもうまい具合にはぐらかされていたらしい。食えない部下がいて、いつも言いくるめられたそうだ。
今は、その部下は違うお偉いさんに引き抜かれてしまったらしい。おかげで麻美は、しっかり書類を渡すことができた。
さすがにそのことは、月の君もご立腹だったのだろうか。先日、「徹底的に仕事をやるように仕組めないか」と麻美に言ってきた。しかも、手段は問わぬと。
手段は問わないと言われたら、麻美には色々な方法がある。
一番、簡単なやり方は月の君の名を使って、周りの官女を利用することだったが、これはやめておいた。さすがに、主を使うわけにはいかない。
なので、羅漢の弱点を利用する方法を取った。
主に、羅漢の叔父、漢羅門を使うことだ。申し訳なさそうに老医官は、さぼる甥御を窘めに行ってくれた。あげく、さぼったら人参粥という罰則をつけることで、ずいぶん大人しくなった。
もちろん、それだけでうまくいくわけがなく、数日でまた羅漢が暴走し始めたので違う方法もとった。
今日、行う囲碁大会のことだ。最初、勝手に宮廷を会場にしようとしたので、月の君が待ったをかけた。かわりに、別の会場を用意したのはいいが、問題は街中でやるため、予想以上に人が集まるとわかった。
というわけで、会場近くの広場を使いたいと言い出したが、国の許可がいる。その判を押すのは、月の君、さらには大会の数日前と急いでいたことが重なった。
さすがに、自分が主催する大会を成功させたいのか、大人しくなった。仕事をためるようでは、許可を出すことなど出来ないと。
なので、ここ数日はまるで槍でも降ってくるかのように真面目に仕事をしていたので、軍部は一時騒然となったようだ。
おかげで、月の君は早めに仕事から帰ることが出来るし、今日と明日にいたっては、一体、何か月ぶりだろうか、という休みを取っている。
「それにしても不思議だね」
「何が不思議なの、良?」
仕切りの奥の声に聞き返す。
「なんで囲碁大会なんだろうって。太尉は、将棋のほうが得意で好きだと思ってたんだけど」
「……碁も強いんでしょ?」
「強いよ。勝てるのは棋聖くらいだって言われている。でも……」
ちょっと考えるような間を置く馬良。
「将棋の場合、勝てる人間がいない。化け物だよ」
「化け物って」
まるで住む世界すら違うと言わんばかりだ。
「太尉はきっと、僕らと違う世界を見ているんだろうね。複雑で怪奇で興味深い。だから、周りの人たちが単純な構造過ぎて、見分けがつかないのかもしれないね」
「ずいぶん、知ったような口をきくわね」
麻美は、仕切りの向こうの弟をのぞき込む。
書類に囲まれた馬良は、手を止めずにどんどん書類を片付けている。
「科挙にはね、そういう類の人間がごろごろいるんだよ。僕なんて、あの中じゃ凡人だって思えるものさ」
「あんたが凡人なら私は何だって言うの?」
「姉さんは、姉であり、妻であり、母である人だよ」
「いたって普通じゃない?」
今は仕事をしているが、家には子どもたちがいる。乳母には懐いているし、乳離れもしているので、問題はない。
夫は、武官で今は仕事をしているのか、それとも碁の大会をのぞいているのか、定かではない。麻美がまた仕事をするのを許してくれただけ、いい男なので、そこのところは追及しないでおく。
「普通が難しいんだ……、とても羨ましい」
ふうっと、馬良は息を吐き、引きだしから茶を入れた竹筒を取り出して口にする。茶碗にすると、零したときが恐ろしいからだ。
「だからわけがわからない」
何が、とまた聞きそうになって止める麻美。
「人間じゃない人が、何故、大会なんて他を求めるものにこだわるのか?」
心底わからないと言った顔で、馬良がまた仕事を続けるものだから、麻美はそっと仕切りから顔を出した。
「私、今から、別の仕事があるから一人になるけど大丈夫? なんかあったら、外の衛兵に言うのよ」
「……わかっているよ、姉さん」
ちょっと不安になりつつも、麻美は執務室を出る。
仕事はこれで終わりと言いたいが、もう一つ、役目が残っていた。
月の君の宮に向かう。内廷に近づくこともあってか、いくつか門を潜り抜け、通行証を見せる。
さっぱりとした宮は、皇弟の住まいとしては一見地味に見えよう。だが、使われている素材はどれも特級品だ。これを簡素だと笑う官がいれば、目が節穴の成金趣味と公言しているようなものだ。
宮の番に顔を見せて、通してもらう。
入るなり、甘く香ばしい良い匂いが漂ってきた。匂いをたどるように炊事場へと向かうと、初老の女が四角い器で焼き菓子を作っていた。
「いらっしゃい」
初老の女、水蓮がにこやかに笑う。
「お邪魔しております」
律儀に礼をして、麻美は焼き菓子を見る。
「これは美味しそうですね」
「ええ。良く出来ているけど、もういくつか作って熱を取っているの。数日前から作った物もあるから、どれが一番おいしいか食べ比べよ」
「それはそれは」
麻美にとって役得だが、仕事を忘れてはいけない。けして、子どもたちの土産にいくつかもらってはいけないかと考えてはいけない。でも、子どもたちが食べたら喜びそうだな、とふと顔が緩む。
「どうしたの?」
「い、いえ。蒸しているものと、焼いているものがありますね」
「ええ、蒸しているほうが形よくできるんだけど、やっぱり焼いたほうが香ばしい匂いが引き立つの」
焦げ目がついているものは、月餅の型に入れて焼いたものらしい。
そっと水蓮が包丁を入れて渡す。
中にはたくさん乾燥果実が入っているが、月餅とは違う食感だ。
「はい、こちらも」
蒸したほうを渡される。こちらは食感がふわっと柔らかいが、その分、香ばしさが落ちる。
「蒸すような形で、焼くことはできないでしょうか?」
「やっぱりそうよねえ。そう思って」
水蓮は四角い型に入れられた菓子を持ってきた。切って麻美に渡す。
「これがいいです」
思わず顔が綻びそうになる。ふわっと柔らかく、同時に胡桃の歯ごたえが加わり、棗や干し葡萄の甘味がじんわりにじんでくる。乳酪の香りとともに、もう一つ香しさが混じっている。
「じゃあ、さらにそれを三日置いたものを」
麻美は口にする。これは、果実の風味が生地全体にいきわたっている。乾燥を防ぐためか、表面に甘い汁が塗られていて、これがまたしっとりして美味しい。
「……子どもたちに、持ち帰ってもよろしいですか?」
ついぽろりと口にしてしまった。しまった、と麻美は思わず口をおさえる。
「あら。なら、それは駄目よ。こっちにある分なら好きなだけどうぞ」
いくつ作ったのだろうか。棚を開けると、何種類も工程を変えて作った菓子が並んでいる。
「今食べている分は、明日、坊ちゃまのために出しますから」
「は、はい」
麻美は、少し残念に思いつつ、残りの欠片を口にする。
「どれがいいのか不安だったけど、これで問題ないわ。ありがとう」
「いえ。でも、今日はこれで仕事は終わりで問題ないのでしょうか?」
「ええ。たまにはゆっくり休みなさい。子どもたちも手がかからないからって、顔を合わせないと忘れられちゃうわよ」
それを言われると痛い。仕事は好きだが、もちろん我が子は可愛いのだ。
「あの、月の君は?」
もし、いるのなら挨拶をして退出しようかと思うが、水蓮は首を横に振る。
「今日は一日、家庭教師につきっきりでお勉強なの。邪魔しないであげて。もちろん、明日のことを考えて、早めに寝てもらうから安心して」
「てっきり、碁の大会を見に行っているものかと」
勉強熱心なことを麻美は知っているので、特に変だとは思わない。
「あー。そうねえ、まだいってないわよ。それより、麻美は、坊ちゃま付きの侍女にならないかしら? 仕事ぶりは、坊ちゃまの帰りが早いことからすぐわかるわよ」
「……侍女は難しいかと思います。子どもがいるので」
そうなれば、水蓮とずっと一緒にいることになる。水蓮がどんな人物かについては、月の君の乳母仲間であった母からいろんな伝説を聞いているので無理だと思う。
「そう、残念。じゃあ、違う侍女でもなんでも探さないと」
あまり残念そうに聞こえない口調で水蓮が言う。まるで、他にあてがあるように思える。
菓子を包んでもらい、麻美は宮の外へ出る。
包みの中から良い匂いが漂うが、どこかさっき食べたものと比べ、物足りない気がした。
不思議に思いつつ、そっと空を見る。
「明日も晴れそうねえ」
碁の大会とやらは、成功したのだろうかと思いつつ、焼き菓子の包みを見る。子どもたちが喜ぶ顔が目に浮かぶと、顔が自然とほころんだ。