十、碁大会 一日目朝
ぱんっと猫猫は、さらしを叩いた。
秋風吹く中、干された白いさらしが青空に映える。雲一つない青空だ。先日、大雨が降ったがそれからずっと晴れが続いている。
これからどんどん寒くなるので、水仕事がだんだん億劫になるだろう。お嬢様命の燕燕は、姚があかぎれにならぬように、塗り薬のつくり方を調べていた。
たまに厄介ごとはあるけれど、おおむね平和なひとときが続いていた。
(あの絵は何だったんだろう?)
猫猫はふと、とある絵を思い出す。じゃずぐるという少女が描いた不気味な絵だ。
そういえば、西の巫女はそのまま茘に残ったはずだが、ちゃんと生活しているだろうか。もちろん、阿多が責任をもって預かっているはずなので変なことになるわけがないが――。
ただ、阿多は元妃という立場でありながら、国の闇を一手に引き受けていると改めて感じる。
子の一族の生き残りの子どもたち、非公式だが先帝の孫であり現帝の姪である翠苓、そして、死んだとされた砂欧の巫女。
男装の麗人は、何事もそつなくこなすが、周りはどう見るだろうか。いや、もちろん、秘密裏にやっていることなので、そう簡単にばれるとは思わない。
だが、宮廷とは恐ろしいところで、やたら鼻がきく者も多数いるのだ。
(変な人に嗅ぎつかれなきゃいいけど)
ふと、思いつつ、猫猫は盥の底に残った水を水路に流した。
「こりゃ、一日仕事はないな」
呆れた顔で劉医官が言った。
医局は閑古鳥が鳴いている。いつもなら、怪我をした武官たちがひっきりなしにやってくる時間なのに。
「総大将が率先してさぼっているから、仕方ないですよねえ」
若い医官が苦笑いを浮かべつつ、どこか残念そうな顔をしている。手には、囲碁の本を持っていた。
「文官のほうがさぼりは多いようですよ。誰が今日休みをとるかだいぶもめていたようですし。武官はそのぶん、見回りに行ってくるという言い訳が立つのでいいですよねえ」
猫猫は知っている。この若い医官は、今日休みをとろうと必死になっていたが、結局は出勤していることを。
医局では最低限の医官を揃えておかなければならないので、他の部署に比べて休みがとりにくい。
「こんな仕事がないのなら帰ってもいいでしょうか?」
そんな弱音も劉医官の前では通用しない。
「せっかく時間に余裕があるんだ。足りなくなった薬を調合しておこうか」
にやにやと意地悪な笑いをする。
調合と聞いて、猫猫は目を輝かせて劉医官に近づく。
「何を作りましょうか?」
「あっ、うん、おまえさんはやる気になったところで悪いが」
劉医官は、そっと布包みを持ってくる。
「おつかい行ってくれ」
猫猫は一気に嫌な顔になる。
「何言ってんだ、この爺さんとでも言いたいのか?」
「滅相もございません」
棒読みで返事をしてしまう。顔に出ていたらしい。
「あ、あのおつかいなら私が……」
「おまえじゃ駄目なんだよ」
きっぱり断られる。猫猫ご指名とあれば、何のことだろうかと不安になる。
「ここに届けてくれ」
そっと地図を取り出して見せる。都の一画で、広場になっている場所だ。近くに以前、 白娘々が奇術を見せていた店の近くだ。
「……ここですか?」
「ここだなって、嫌そうな顔を全面に出すんじゃない」
何が嫌かと言えば、ちょうどその広場は催し物があっている最中だからだ。囲碁の催事である。言わずもがな、誰がいるか予想が出来る。
「漢医官もいるはずだ。非番なので、漢医官自ら率先して出かけているのであって、仕事ではないのだがな」
猫猫はなんとなく考えが読めた。
「人が多いのでたとえ囲碁の類でも、なにかしら体調が悪くなる者もいるかもしれない。本来なら、医官の手を煩わせるのもどうかと思うのだが、やはり、こういう時こそ手を差し伸べるべきではないのか?」
どこかわざとらしい。
大方、大会の主催者側である羅半あたりが手回ししたのだろう。変人軍師が乗り気で碁をやっているというが、何をやらかすかわからないので、予防策を使うことにしたのだろう。
おやじなら断ることはないし、猫猫に至っては劉医官を使ってきた。
(ろくでもねえ)
燕燕が碁に興味があったのでわざわざ猫猫が仕事に出て、姚と一緒に休ませたというのに。
「仕事だからちゃんとできるよな?」
念を押すように劉医官がいうものだから、猫猫は頷くしかない。
心底羨ましそうな眼で見る若い医官に関しては無視しよう。
わざわざ地図を見なくても、広場へと向かう道筋は、碁の本を持った人の流れを見ればわかった。
老若男女問わず、人が集まり、広場に碁盤を並べている。申し訳程度に日除けの布があり、木箱に碁盤をのせただけの粗末なものだ。
(だけど)
人が集まれば、そんな粗末な会場も立派に見えてくる。大通りで店をやっている飲食店は、こちらまで足を伸ばし、露店を並べている。子どもたちが母親にねだって、焼き菓子を買ってもらっている。
囲碁に関連する商品は元より、将棋の駒、葉子戯や麻雀まで置いてある。はては、装飾品店も出張していた。碁に興味がない者たちまで、人につられて集まっている。
(羅半のやりそうなことだ)
商売好きのあの野郎のことである。きっと、場所代など請求しているに違いない。
猫猫は、人の隙間を縫うように進んでいく。見慣れた顔を見つけた。
「姚さん、燕燕」
二人はやはりいた。姚は軟膏を子どもの擦りむいた膝に塗り付けていた。燕燕は、茹だった顔をした老人に水を与えていた。
「猫猫。仕事どうしたのよ?」
怪訝な顔で姚が見る。
「劉医官からのおつかいです。むしろ、お二人がやっていることのほうが聞きたいのですが」
「ああ、あなたの『おにいさま』のせいよ」
姚の言葉に、猫猫は半眼になる。
「お休みのはずの漢医官が駆り出されていて、一人では手が回らないということで、私たちにも手伝ってほしいって」
「断ればよかったでしょうに」
おやじには申し訳ないが、二人は非番だ。医局と同じように仕事をする義理はない。大体、こういうものはおやじや姚たちを使わずに、市井の医者などを雇うべきなのに。
さらには、猫猫まで使おうとは。
けちな羅半のやりそうなことだ。
「お金、請求した方がいいですよ」
猫猫は、あのくせ毛丸眼鏡から銭をふんだくる気になる。
「別に私はいいわよ。碁なんてそんなに興味ないし」
子どもに軟膏を塗り終わり、「よし」と声をかける。
「おねえちゃんありがと」
こどもは姚にお礼を言った。
(ほうほう)
姚は姚で、微笑みながら子どもに手を振っている。そして、猫猫の視線に気が付いて、顔をきゅっと固くする。
燕燕が「ほら、うちのお嬢様かわいい」と、小さく親指を立てている。
「おつかいなら、漢医官のところよね? 医官ならあそこにいるけど」
姚が指すのは、劇場だ。かなり大きな建物で、よく催しをやっている。
「本当ならあそこだけでやるつもりだったみたいなのよ。でも……」
広場で碁盤を並べているくらいだ。どう考えても人が多すぎる。
「大成功と言いたいところですが、どう見ても許容量を超えてますね」
急きょ、広場まで会場を広げたのはいいが、色々不具合がある。
怪我人や気分が悪くなる人もいよう。
燕燕が看護していた老人は気分が良くなったようで、にかっと歯抜けの前歯を見せながら、また碁を打ちにいこうとしたので手ぬぐいを頭に被せ、水をもう一杯飲ませた。涼しくなったとはいえ、今日は晴天だ。陽にやられてばたばた倒れてもおかしくない。
さすがにそれがわからないおやじではない。碁を打っている人たちの周りに大きな徳利と椀を持って歩く人がいる。碁打ちが手を上げると徳利の中身を椀に注いで渡していた。
簡易だが日除けも用意しているので、出来る限りのことはしているのだろう。
「あっ、猫猫」
燕燕が近づいてくる。耳元でそっとつぶやく。
「あちらには、漢医官の他に、漢太尉もいらっしゃりますので」
「……」
猫猫はものすごく嫌な顔をしながら荷物を見る。
「代わりに行ってもいいと言いたいところですが、私としては猫猫に向かってもらいたいかと」
「……なぜに?」
「燕燕は、この仕事が終わったら、太尉に一局打ってもらうのよ」
「はい。光栄なことです」
つまり、大人しく変人軍師のところへ行けと言いたいらしい。
「無料で打ってもらえるなんて」
(いや、ただみたいなもんだろう?)
「私たちのお給金じゃ、払うのに躊躇っちゃう金額だものね」
(いや、姚の食後の点心もかなり高いぞ)
毎日、食べている美容、健康、育乳成分たっぷりの点心がどれだけ高級品で、ひと月にいくらかかっているかなんてわからないのだろうか。
(わからないようにしているんだろうな)
さすが燕燕である。
「あんまり騒がないように。広場で三勝した人が劇場で。劇場でさらに三勝した人が、太尉への挑戦権が与えられるので」
「銭払えば、打てるんじゃ? 最速で六回打つってなると、かなり時間がかかるけど」
燕燕に猫猫は首を傾げる。
「はい、勝った上での挑戦権です。あと、大会は明日まで続きますので。さすがに六勝は難しいと思いまして、ご指導いただけるとなったら本当に幸運です」
どこまで上から目線なのだろうか、と猫猫は呆れてしまう。しかも、二日目の明日だと、猫猫は非番だ。
(絶対、呼び出される)
猫猫は「けっ」と吐き捨てながら、本会場である劇場に向かった。




