七、葡萄酒と焼き菓子と碁
日がだいぶ短くなってきたと壬氏は思った。まだ、日が沈む前に帰ることができるのは本当に楽である。
「それでは私はこれで」
馬閃は自分の家に帰る。夜の警護は別の者に任せている。以前は、泊まり込みで警備すると息巻いていたが、正直、一日中張り付かれても壬氏は疲れるので遠慮したい。
宮に戻るなり、水蓮が出迎えてくれる。
「まず、お食事ですね」
「いや、まず風呂を……」
壬氏が訂正しようとしたが、いつもと宮の雰囲気が違う。普段は壬氏が好きな香を焚いているのに、いつもより少し甘い匂いが強かった。
中にいる護衛も、いつもの顔ぶれとは違う者がいる。
「客人か?」
「はい」
そして、壬氏の宮にやってくる客人といえば限られる。
廊下の護衛たちが頭を下げる中、壬氏は居間へと向かう。
思い描いた人物が、居間でくつろいでいた。
「今日は、後宮に行かなくてもよろしいのでしょうか?」
壬氏は、頭を下げつつ主上に物申す。
「最近の管理官は、やたら新しい妃ばかりすすめるのでな」
美髯の偉丈夫は、杯を傾けながら書を読んでいた。目の前には碁盤が一つ。ここでも、流行にのった人物が一人。
「朕の好みはこうだろうという娘ばかり押し付ける」
つまり巨乳ということだろうが、壬氏は知っている。一国の主たるこのお方は、それだけでは妃を選ばない。
下手に好みの妃がいたとして、政治的にそぐわない人物であれば困る。主上の『困る』とはそういう意味だろう。
でも理由はそれだけではない。
妃から后、つまり正妻になった玉葉后がいる。その父親たる玉袁が現在、都に滞在しているのだ。
「舅の目が気になるのでは?」
ここは壬氏の宮だ。ほんの少し砕けた会話になる。
「いつの時代も、冠を抱く者は、皆の顔色を窺わねばならぬ」
主上はぱちんと碁石を置くと、座れと空いた手で促す。
壬氏はその様子に笑みを浮かべて、碁盤の向かい側に置かれた椅子に座る。置いてある碁桶には黒石が入っている。
主上は書を置く。言わずもがな、変人軍師の本だ。
水蓮が壬氏の元にも杯を持ってくる。中に入っているのは、血のように赤い液体だ。
透明な玻璃に透けて、液体を転がすように楽しむ。
「ここの葡萄酒は酸味が強いな」
主上の傍らにはすでに杯が置いてある。
「私の好みに合わせていますので」
「朕も嫌いではないが、最近は甘口の酒が流行っていると聞くぞ」
甘口の酒だと、猫猫が嫌な顔をしそうだとふと頭に浮かぶ。
「どうした?」
「いえ、何も」
顔が綻びそうになって、慌てて取り繕う。
主上は不思議そうな顔をして、杯を揺らす。
「そういえば、碁の流行でかすみがちだが、渡来物が市井では流行っているらしいな」
「そうですね」
壬氏も知っている。先日、西の巫女がやってきたとともに、異国の品々が多く出回っている。一時的に税を軽くしたのもあるだろう。
「その中で、一番人気の品を知っているか?」
「なんでしょうか?」
帝はにやりと笑う。普段、仕事で気が抜けぬ分、壬氏の前ではおどけた表情をすることは珍しくない。
「葡萄酒だそうだ」
「葡萄酒?」
壬氏は首を傾げる。
「西方で作られているものではなくて?」
玉葉后の故郷、西都の周辺では葡萄が盛んにつくられている。今、手元にある葡萄酒も西都産のものだ。
「西都で作られているものはこのように独特の酸味があるだろう? だが、渡来品だと甘みが強く美味いらしい」
「そんなに品質が良いのでしょうか」
壬氏は葡萄酒を口に含む。西都産は、酸味はあるが元の味は悪くない。ただ、本来はそんなに酸っぱいはずはないと猫猫が言っていたような気がする。
あれはいつだったろうか。
昨年、猫猫が後宮をやめてから、壬氏のところへと働き始めたころだったろうか。
ふと、壬氏は杯を揺らした。
「本当に、それは渡来物なのでしょうか?」
「……味が違うであろう? 朕はまだ飲んだことがないが、大臣は美味いと口にしていたぞ?」
「飲まれないほうがよろしいかもしれません」
壬氏は、水蓮に目配せをする。やってきた水蓮に耳打ちをした。
水蓮は、一度部屋を出て、布包みを持って帰ってくる。
「それは?」
髭を撫でる帝に、壬氏は布包みの中身を見せる。金属の杯が入っている。
「以前、貰った物です。昨年だったでしょうか」
壬氏は、ふと昨年の春先を思い出す。
〇●〇
「その葡萄酒は飲まれないほうがよろしいかと」
不愛想な薬屋の娘は、食器を片付けながら言った。食後に、葡萄酒を飲もうと杯に注いだところだった。
「なぜだ? 先ほど、毒見しただろう?」
壬氏は首を傾げつつ、杯を揺らす。
薬屋は先日、後宮をでて花街に戻っていた。給料が良いから来いと、壬氏の侍女兼毒見役として雇っていたのだが。
「毒見しました。葡萄酒には何も毒らしきものはないと思います。強いて言えば酸味が強いかと」
壬氏は甘いだけのものより、酸味が強いものを好む。水蓮が壬氏の好みに合わせて用意したのだろう。西都産の物だ。
「ならば」
「ただ、器が問題です」
「器?」
壬氏は金属製の器を見る。
「器に毒でも塗られているのか?」
「いえ」
「なら、何だという?」
薬屋は壬氏からそっと杯を取る。
「失礼します」
箸を杯の葡萄酒に入れると一滴だけ口に含んだ。ゆっくり味わったあと、そっと部屋を出る。口に含んだものを吐き、洗い流すためだろう。
すぐに戻って来た薬屋は、葡萄酒が入った瓶を持ってくる。
「毒になっています」
「なっている?」
意味深な言葉を紡ぐ薬屋。
「私が飲んだものより、いくらか甘くなっておりました。もう少し、使い込めば、もっと甘くなるでしょう。甘く美味しく感じますが、成分は毒なのです」
「意味がよくわからないが、俺の意見を述べていいか?」
「どうぞ」
表情を変えずに、薬屋は頷く。
「単品では毒ではない。だが、二つ合わせると、毒になるということか?」
壬氏の意見に、薬屋はかすかに口角を上げる。正解らしい。
「金属は酸の強いものに溶ける性質があります。この器は鉛でできているのでしょう。鉛と酸っぱい葡萄酒を混ぜると、鉛が溶け出てできたものが甘くなると言います。西方では、葡萄酒に鉛を入れて甘くしたと聞いたことがあります」
そして、それを飲んだ人間は中毒症状を起こす割合が多かったと。
「あくまで、養父による見解ですが、それが原因で中毒になった可能性が高いかと」
彼女の養父は、かなり優秀な医者らしい。薬屋曰く、一を聞いて十を知る人物だとか。
「……」
壬氏はそっと鉛の器を置く。
「一回、二回飲んだところでは、急な中毒症状を起こすかわかりませんが、常用すると危ないかもしれません」
明言はしない。憶測で物を言いたくないのがこの薬屋の特徴だ。
「仮に、これが毒だとしてどんな症状が現れると思うか?」
壬氏の質問に、薬屋は一瞬考えた。
「……後宮の毒白粉のことは覚えていますでしょうか?」
「ああ。忘れるわけもなかろう」
「あれは鉛に酢を入れて作ると聞いたことがあります」
つまり、白粉中毒と同じような症状が起きるということか。
壬氏は納得する。
「葡萄酒について飲み方を教えてくださった方には、本人がどう飲んでいるのか調べたほうがよろしいかと」
本人も鉛の杯で飲むようなら、悪気はなく善意で壬氏に教えた。そうでなければ、悪意の可能性があると。
壬氏は幾度か命を狙われたことがある。どういう意図で相手が、何をしたのか。それは、調べる必要がある。
「加えてもう一つよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
薬屋は、まだ杯に注いでいない葡萄酒を見る。
「壬氏さまは元々、この葡萄酒が酸っぱいのは産地によるものだと思っていますが」
瓶を揺らす薬屋。
「長期の移動によって酒が酢になりかけているだけだと思いますよ」
「……」
つまり壬氏が好んで飲んでいた味は、粗悪品の味だと言いたいらしい。
「元は良い物だと思います。ただ、もう少し、輸送方法を考えれば、酒が変質することなくなるのでしょうが」
西都はかなり遠い。その上、暑い。
「しかし、俺には美味く感じるんだがなあ」
首を傾げる壬氏に猫猫は目を細める。
「疲れていると、味覚が鈍り、酸味を感じなくなるそうなので……」
「……」
「あと、私の好みはもっと辛口の酒です」
毒見側が、要望を出してきた。
生憎、壬氏は元々酸っぱい味が好みと言いたい。思いたい。
「しばらく葡萄酒にする」
「わかりました。坊ちゃま」
水蓮が良い返事をするものだから、薬屋が嫌な顔をした。
〇●〇
「そんなことがあったのか」
主上は杯を飲み干した。傍らにはいつのまにか水蓮が用意した焼き菓子が置いてある。
壬氏の減った杯の中身も十分に満たされていた。
「ふーむ、では今出回っている酒というのは」
「粗悪品、あるいは偽物である可能性が高いでしょうね」
異国から運ばれてきた葡萄酒だ。西都よりも長い時間をかけて運ばれていたに違いない。そうなれば品質を一定に保つのは難しく、市井に出回るほどであれば、粗悪品が必然と増えるだろう。
それでも甘いというのなら、甘く加工せねばならない。そうなると、出回っているのは毒葡萄酒になる。
また、渡来物と偽って、葡萄酒を作っていたとすれば、それは詐欺だ。渡来物にはそれだけで税がかけられる。たとえ、税を軽くしたとしても、輸送費や希少価値などで西都産のものより値段が倍以上高くなる。
もしかしたら、偶然、品質の良い渡来物の葡萄酒が出回っている場合もあるが、可能性としては低い。
「これは少し調べたほうが良いでしょう」
壬氏は、焼き菓子を摘まむ。ふんわりとした変わった生地で、中に乾燥果実が練りこまれてある。かすかに酒精の匂いがする。一口齧ると、ほわんとしぼむように柔らかく甘い。
主上が来ると知っていたのだろう。壬氏の乳母である水蓮だが、主上の乳母でもある。面白い菓子を用意して、楽しませたいらしい。
主上は早速頬張っている。気に入ったらしく、ひとかけらを全部食べ終えると、新しく注がれた葡萄酒で流し込んだ。
「久しぶりに打つか?」
主上が髭を撫でて菓子の欠片を払い、空いた手で黒石を摘まむ。
「打つのは、お前が後宮に入る直前が最後だったな」
懐かし気に碁石を桶に戻す主上。
壬氏が十三のとき、先帝が崩御した。東宮となったその年に、壬氏は主上に碁を打とうと持ち掛けた。
「賭け碁など、するものではないと、あれ以来ずっと思っているぞ」
「……今更覆すことは出来ないでしょうに」
壬氏は、黒石を持ち、主上に勝った。そして、褒美が欲しいとねだったのだ。
「帝位が欲しいと言えば、時がたてばくれてやるというのに」
「私はいりません」
東宮になどなりたくないと駄々をこねた。
しかし、その当時、帝には子はいなかった。とうに死んでおり、先帝の子は他に誰一人いなかった。
結果、新しく身代わりを作ることにした。
宦官として、壬氏として後宮に入り、そして、帝の妃を探す。
「あの時ほど、碁で負けて後悔したことはないぞ」
「そんなことはないでしょう」
今上は、玉葉后との子、東宮もだが、鈴麗公主も可愛がっている。今更、壬氏を東宮に戻す意味などない。あるとすれば、火種を撒くことにほかならない。
己の存在が、戦の種になってはならないのだ。
と、同時に、飛び散る火花は避けねばならぬ。
「……主上、一つお願いがあるのですが?」
「また、よからぬ考えでもしているのか? もう、賭けはせぬぞ?」
「大した願いではありませんよ」
壬氏は、黒の碁桶を持つ。しかし、主上も黒を取りたいらしくはなさない。
「碁の指南役をしばらく貸していただけないかと」
壬氏の願いに、主上はいぶかしみつつ、黒石の碁桶をはなした。