六、馬姉弟
日々、山積みになっていた書類は、反対側を見渡せる程度の高さになった。
壬氏はほっと息を吐き、部屋の隅で黙々と仕事をする人物を見る。
入口から死角になり、衝立をたてているため、そこに誰かいるのかは、訪問者には見えないようになっている。出来れば、四方を壁にしたかったようだが、それはさすがに駄目だと馬閃が止めた。
さて、衝立に隠れる人物が誰かと言えば――。
「じ、壬氏さま……」
まとめた書類を持ってくる男、痩身中背、肌の色は少々青白い。不健康と言えば不健康に見えなくもないが、隣の健康優良児もとい馬閃と顔だけがよく似ているのが面白い。
背丈は馬閃より一寸ほど低いだろうか。猫背なのでもっと低く見える。
馬閃の年子の兄であり、高順の息子でもある。馬良だ。
馬の一族は、代々武官を多く輩出している。皇族の護衛は、馬の一族が主に行う。高順は主上の、馬閃は壬氏の、といったように。
本来なら、馬良は壬氏の護衛になるはずだった。高順の二番目の子であり長男なのだが、このように青瓢箪では護衛は務まらない。
馬良は、『馬』の名を貰ったものの、翌年生まれた弟の馬閃にもまた一族を表す一文字を与えられることになった。
「早いな、もう終わったのか?」
「ええ。壬氏さまは置物なので、仕事が終わります」
「……どういう意味だ?」
会話として文章が端折られているようだ。壬氏には理解できない。だが、そこにすかさず現れる人物が一人。
「馬良はこう申しております」
長身の目つきの悪い美女が立っていた。どこから現れたのか壬氏でも一瞬わからないほどの動きで、にゅっと壬氏たちの前にでる。馬良がびくりと身体を震わせる。
「『壬氏さまは置物のように美しいので、いっそ人間とは思えない。なので人間が苦手な私でも、人間とは思えず違う生き物として平気に接することができるので、仕事に集中ができます』と」
「……」
これはどう受け止められているのだろうか。あと何気なく人間扱いされていない。いや、昔からこういう男だが。
馬良の言葉を訳してくれた目つきの悪い美女は、馬良、馬閃兄弟の姉だ。名前を麻美といい、これで二児の子持ちである。
馬閃たちは父親である高順に似ているが、麻美は母親似だ。母親は壬氏の乳母だったこともあって、なんとなく苦手意識を持ってしまう。
母親似なのは性格もだ。気が強く、旦那も尻に敷かれているらしい。父親たる高順は、数年前まで、麻美に毛虫のごとく嫌われていた。
とはいえ、単体なら扱いづらい馬良の手綱を上手く操れるのはこの麻美しかいないだろう。馬良は、科挙を好成績で合格しておきながら、病弱さとその独特の思考回路で、仕事をやめている。人間関係を新しく構築するのが苦手で、なじむ前に同僚や上司から嫌がらせを受けて、胃を患ったのだ。
有能なのは有能だが性格に難がある。
ある意味、羅の一族とよく似ているが、残念ながらあそこの人間はやたら強靭な精神を持ち合わせていて、むしろ周りが胃を痛めるのである。
半分とはいわないまでも、十に一つぶんくらい、あの周りのことを気にしない性格を分けてもらえればよいのに。
壬氏はそう思いながら、貰った書類を確認する。
書類仕事の傍ら、時折、連絡係がやってくる。内容は、先日、持ち帰った飛蝗についてだ。
虫の死骸を大量に持ち帰ったのは、蝗害がどのように起きているのか調べるために、少しでも情報が必要だと考えたからだ。
本来、こういう仕事は専門家に頼むべきだろう。しかし、ここ数十年、大きな蝗害が起きておらず、その手の対策について詳しい者はいない。いなくなってしまった。
というわけで、壬氏はいつもどおり猫猫に頼むほかなかった。
医局で仕事をしている邪魔になると思うが、頼めばやってくれることを知っている。
「……もっと人材がいれば」
煩わせることもないだろうに。だが、壬氏の周りには使える人間が限られている。
「人材を作らないからです」
さらっと麻美が言う。
「都水監なり司農なりに押し付けてしまえばいいのです」
都水監は治水、司農は貨幣や穀物を司る。どちらにも言ってみたものの、「私たちの仕事ではない」と断られた。
それを説明したところで相手は麻美だ。
「はあ? そんなもの押し付ければいいんですよ。相手のことを考えて? 昼にのっそりやってきて、茶だけしばいて帰っていく野郎どもを使えばいいじゃないですか? 忙しい? 手が空かない? 朝まで、花街で騒いでいる現場でも押さえればよろしいでしょう? その手の人脈はお持ちのようですから」
勝てない。
さらに畳みかけるようにもう一つ。
「あと、視野が狭くなっているようなので一つご忠告」
「……な、なんだ?」
思わずたじろいでしまう。
「ごく一般的に申し上げれば、虫を大量に送る行為は嫌がらせ以外の何物でもありませんよ。特に女性相手なら」
「……」
壬氏はがくりと肩を落とし、額に手を当てた。
「仕事は分配。使えるものは誰だって使う。使えないものは邪魔にならぬよう、毒にも薬にもならない違う仕事を与えてください」
麻美に言われるがまま、壬氏は執務室を追い出された。権力をかさに着て、それで足りなければ色仕掛けをしてでも、仕事を押し付けてこいと。
壬氏自ら、直接行けば態度が変わるから、と言われても、あまり乗り気ではない。
壬氏が直接足を運ぶことはそれだけ、深い意味があるように思われるからだ。これが、宦官時代であれば、いくらでも利用したのだが、皇弟という立場になると使うことを憚れる。
それでも、手が回らないよりもましだからこそ行くのだが。
「……色仕掛けはないだろう」
「申し訳ありません。うちの姉が」
護衛としてついてきている馬閃だ。麻美に頭が上がらないのは壬氏だけではない。
「それにしても、姉のいうことはわからなくもないですね」
馬閃が周りを見渡す。
壬氏が近づくと、慌てて何かを隠しているのがわかる。
「碁が流行っていると聞いていたが、前よりひどくなっているな」
欄干に腰かけ碁の本を読む者。休憩所には碁盤の周りに、何人もの官たちが囲んでいる。
壬氏を見るなり、碁をやめて取り繕ったり、視線を送る者もいるが、中には、勝負に夢中で気づかない者もいる。
仕事しろよ、という麻美の意見ももっともだ。
壬氏は自分の睡眠を削っていることがばかばかしく思えてくる。
「こんなものまで」
呆れた馬閃が見ているのは、本来、辞令が張り出される場所だ。何を思ったのか、碁の大会を開くという張り紙がされてある。
「……いや、息抜きも必要だろうが」
壬氏とて、ここで張り紙を破くような無粋な真似はしない。
ただ問題は、開催する場所だ。
何を考えたのか、軍部の修練場と書かれてある。
「壬氏さま。主催者を見てください」
「言われなくても、想像がつく」
狐軍師の顔が思い浮かぶ。
宮廷内でここまで自由にやれる人間を、壬氏は知らない。
「かなり本格的にやるようですが、もしかして一般人も参加させる気でしょうか?」
張り紙は、手書きではなく印刷されているようだ。つまり、大量に刷ったということになる。
「いや、勝手に入れられても困るぞ」
外廷とはいえ、帝がおわすところ。関係者以外に入られても困る。
「では、漢太尉にさっそく抗議を――」
「いや、まて。それだと逆効果だ。むしろ、羅半だろう」
正直、こうやって大会までやろうというのなら、狐軍師の甥っ子のほうが向いている。なにかしら商売にかこつけてやるつもりだろう。
案の定、張り紙には面白いことが書かれてある。
「漢太尉への挑戦権、銀十枚だそうです」
羅半だ、完全に羅半が影の主催だ。
「あと、新刊発売。詰碁集を売るようです。限定五百冊とか、売れるんでしょうか?」
「売るつもりでいるんだろう」
どこまで強かだろうか。
いや、それくらいやらないと羅半もやっていけないのかもしれない。狐軍師は、昨年、後宮の壁を破壊した修理費がまだ残っているはずだ。
「しかし、碁の試合一つで銀十枚は高すぎやしませんかねえ」
銀十枚あれば、庶民はひと月生活できるという。猫猫や高順に金銭感覚を学べ、と何度も言われてきたのでそれが安くない額だということは、壬氏でもわかった。
しかし――。
「むしろ安いくらいだろうな」
「安い? さすがにそれはないでしょう」
馬閃が否定する。確かに、指南料としては高いが。
「もし、漢太尉に勝ったとすれば、おつりがでるほど安かろう?」
「⁉」
それだけで周りに箔がつく。
「挑戦者は黒石で、こみなしでやるそうだ」
碁は先攻である黒石が有利だ。なので、平等にするため碁石をあらかじめ、白石が多く持っているように計算する。
「……そういえば、漢太尉は囲碁が強い人に対しては、比較的敬意をもって接している気がしますね」
壬氏の碁の指南役などだ。もっとも、比較的、であって、常識的とは言い難い。
「もし、壬氏さまが勝ったら、なにかしら執務室に来て、邪魔をして帰ることはしなくなると思うのですが」
「難しいだろうなあ」
たとえ黒石を持っていても、相手は狐軍師だ。下手な玄人よりもずっと強い。
さて、駄弁るのはこれくらいにしておこう。
「あとで、羅半あてに使いをよこそう」
「はい」
「開催の許可を出すから、場所は変えてもらおうか」
そこは譲れないところである。