四、訪問
虫出ます。
馬良、高順の息子であり、馬閃の兄。
武人を多く輩出する馬の一族の者だが、当人は文武の文のほうに才があった――、と言うより、武に才がなかった。
と、いうわけで、壬氏のお付は弟である馬閃がやることになった。
馬良については、とりあえず壬氏の副官として執務室で仕事を与え、その間に、壬氏は遠征することにした。
「馬良は、大丈夫か?」
「はい、大丈夫かと思います」
馬車に揺られること一日半。出来るだけ、早く終わらせようと、馬は街ごとに変えて、御者も交代できるようにした。それでも、護衛も合わせて十人ほど部下を連れてきている。
壬氏の立場としては、いささか少ない人数の遠征だが、大掛かりにすると時間もかかる。早く現場を確認したかったので、無理を通した。
ゆえに、人材には少々わがままを許してもらった。今、隣にいるのは、馬閃ではなく、高順だ。馬閃は馬に乗って、護衛をしている。
馬閃には悪いが、まだまだ高順のほうが壬氏の補佐を上手くやってくれる。主上から借りてきた。
主上が高順を使って、仕事を楽していた、という意趣返しの意味も入っているが。
「あやつは昔から身体が弱かっただろうに。病のため、自宅療養していたと聞いたが」
それでも、無理を言って連れて来たのは壬氏だが、また体調を悪くしては気が引ける。
「病と言ってもいつもの病気です」
「いつものか?」
「はい。今回は、同じ部署内の上司とそりが合わず、胃に穴があいたようです。上司の机の上に大量に吐血して、そのまま医局へと運ばれ、退職しました。三月前のことでしょうか」
まったく大丈夫じゃない。昔から、人付き合いが苦手で、気が合わない人間と接すると、腹を下していたことを思い出す。
壬氏の不安な表情を読み取ってか、高順が注釈を入れる。
「補佐に、娘を付けました。赤子がだいぶ大きくなりましたので、仕事復帰したいと言っておりましたので」
「なら……、大丈夫、か?」
高順の娘、馬閃と馬良の姉だ。すでに二人の子持ちで、高順の妻によく似た、気が強い女である。むしろ、馬良の心的負荷が大きくならないか、と思わなくもない。
「見えてまいりました」
高順が馬車の窓から外を見る。
壬氏も外を眺めると、静かな田園風景とともにぽつんと村が見えた。質素な家が並ぶ中で、その奥に大きな屋敷が見える。
「あそこか?」
「はい。直接、村長の家に向かいますがよろしいですか?」
「いや、その前に。李白を近づけてくれないか?」
李白、どこか犬のような雰囲気を持つ武官だ。壬氏の顔を見ても別に動揺せず、なおかつ、気風のいい性格なので重宝している。今回も名指しで護衛につけた。
「わかりました」
高順が窓から李白を呼びつける。壬氏が直接呼びつけたほうが早いが、あまり表に顔を出さないほうがいい。外では覆面を被る予定だ。
怪しいことこの上ないが、高順の名前を出せば、村長も深く追及しないだろう。
「なんでしょうか? 壬氏さま」
李白が移動している馬車に軽くひょいっと入ってくる。
宦官時代の壬氏を知っているこの男は、『月の君』といった遠まわしな言い方はせずに、壬氏と呼ぶ。
「おまえは地方出身だったな。この村を見て、どう思う?」
「どう思うと言われても……」
「農村にしては、家はしっかりした作りですね。お偉いさんには質素に見えますがちゃんとしていますよ。ただ、蝗害はけっこうひどかったみたいですね」
質素に見えたのは、柱がやけにぼろぼろだったからだ。
「爺さんから聞いたことあるんですが、蝗は穀物を食らいつくすだけでなく、家の柱や着物までかじるそうです」
なんだかぼろぼろに見えたはずだ。
「報告によりますと、残った穀物は収穫を終えて、倉に保管していたものだけのようです」
「頭が痛くなる話ですね」
李白は顔を引きつらせる。
「生憎、この時期で幸運だったのかもな」
麦の収穫時期であればもっと大きな被害になっていたはずだ。もしくはもっと南部に行けば、稲作地帯だったので危なかった。
「ここからじゃ見えにくいですが、地面のあちこちに虫が死んでますね。前もって、駆除の準備をしていただけに、これでも被害は少なかったほうでしょうね」
李白はやれやれと首を振りつつ、ため息をつく。少々、不敬な態度だが、一応分はわきまえている男なので大目に見ておく。何より、壬氏としては気が楽だ。高順もそんな壬氏の気持ちをおもんぱかってか何も言わない。これが、馬閃だと噛みついてくる。
「それでは、私は出ますね。馬閃さまに睨まれてしまいますから」
出て行く間もなく、馬車は止まった。村長の家についたらしい。
壬氏が李白を重宝していることを、馬閃としては面白くないらしい。犬のような男はさっさと馬車を出る。
壬氏も覆面を被り、馬車の外にでた。
村長の家は、多少、柱や屋根がかじられたようになっているが、十分立派なもののようだ。揶揄するような李白の表情でわかった。
「家というよりは屋敷ですねえ」
あえて、こう口にするくらいだ。
屋敷の周りには水路があり、庭の中央に池が作られている。洒落た作りに見えるが、緑がないのが寂しく思えた。
水田のため池にしては洒落ているように見えるが、そこのところは黙っておこう。
壬氏は、高順の後ろに立つ。
揉み手の村長は、高順に頭を下げつつ、怪しげな覆面男たる壬氏をちらちら見ている。
屋敷の中も、村長にしては十分立派だろうか。覆面の下で、李白のつぶやきを耳にしながら、憶測する。単純そうに見えて、李白は気が利く。
「こちらへどうぞ」
案内されたのは、宴の準備が用意された部屋だった。宮廷料理に食べ飽きた壬氏には、粗末ともいえる食事だが、田舎の農村では十分すぎたものだろう。
「……」
高順は壬氏をちらりとも見ないが、主が何を言いたいのかわかっているはずだ。
「宴をしに来たわけではない。村の状況をすぐさま教えてくれ」
「は、はい」
普段、高順の丁寧な言葉に慣れていると、上から押さえつけるしゃべり方はなんだか新鮮に聞こえる。
村長は慌てて、食事を使用人に片付けさせ大きな長卓を空けた。どうやら、いきなりやってくる都の役人にかなり緊張していたらしい。部屋は綺麗に掃除され、窓から庭が見えるようになっている。自慢の庭なのかもしれないが、ところどころ虫の死骸が落ちているのがわかる。
村長は、村の見取り図を持ってきた。
「前置きはいい。端的に、かつ詳細に頼む」
「はい、半月前のことでした――」
村長は、語りだす。
半月前、北西の空から黒い雲が見えたと。
雨季でもないのに雨雲が見えるなんて、と観察していたら、耳障りな音が近づいてきた。何もない地平線の上の黒い雲の正体は蝗の大群だった。
大群は、村にやってくるなり収穫前の稲を食い荒らす。村人たちは松明を、網を片手に応戦するが、いくら殺そうとも、捕まえようとも、蝗は減らない。それどころか、稲だけに飽き足らず、村人の衣服や履、髪や肌までかじりついてきた。
男たちは、蝗を捕まえては焼き、捕まえては殺した。
女子どもは家の中へ。女は隙間から入る虫を殺し、子どもは部屋の隅で震えた。
蝗の襲来は三日三晩続いた。
「これが、その時に着ていた服です。」
そっと村長が服を差し出す。丈夫な麻の衣服がところどころ破れている。染めた色が落ちていないので、経年劣化によるものではないことがわかる。
「虫殺しの薬は作りましたが、あれだけの大群の前では焼け石に水でした」
薬だとやはり足りないか、と壬氏は唇をかむ。
「そして、こちらを」
村長は、庭に出ると質素な木の幹を一本撫でる。
「青々と茂った葉は食らいつくされました」
深く息を吐く村長。
「虫は……」
「殺せるものは殺し、焼けるものは焼き、村の裏に死骸は集めました。御覧になられますか?」
きっと気持ちの良い光景ではないが、壬氏としては見るしかなかった。
村長に案内され、屋敷の裏へと向かう。近づくほど、虫の死骸が増え、ぐしゃ、ぐしゃっと踏みつぶす。
「……」
詳細な描写はやめておこう。ただ、大きな穴が掘られ、そこから黒い山がはみ出していたとだけ言える。
護衛の中には虫が苦手な者もいたらしい。口をおさえ、吐き気を我慢していた。
「これで全部か?」
高順が村長に確かめる。
「処分できた分は」
「どれくらい逃げたのかわかるか?」
「見当もつきません」
高順は、顎を撫でる。
「馬閃」
「はい」
父親に呼ばれて、馬閃が勢いよく出る。
「周辺の村にも、詳細な被害を聞きに行け。早馬なら一刻で戻ってこれるだろう」
「わかりました」
馬閃は早速、村人から周辺の村について聞きに行く。
壬氏は覆面の下で、眉を上げたり下げたりしていた。
「どうかしましたか?」
そっと高順が壬氏に聞く。
「いや――」
ここで、壬氏がすべきことは、終わったことへの処理もある。しかし、それ以上にしなくてはいけないことがあるはずだ。
もし、ここにいかれた薬屋の娘がいたらどうするだろうか。
壬氏はふと、地面にしゃがみこんだ。
死んで動かない蝗は、腹がぷっくりと膨れている。前に、群れで動く蝗は、暗色になり、足が短くなっているとあった。たしかに地味な色をしている。
壬氏は懐から、小刀を取り出す。
「……」
ざくっと、刃を蝗の胴体に突き立てた。気持ち良いものではない。だが、猫猫がいたらかならずやるだろう。
一匹、また一匹と蝗を解体していく。
村人たちは不審な目で壬氏を見るが、気にしている余裕はないはずだ。
壬氏は、蝗のばらした胴体を並べる。
「これは……」
高順は、壬氏が何をやりたいのか気づいたらしい。
壬氏は虫の生態に詳しいわけではない。だが、何がそこに入っているのかくらいは想像できる。
膨れた腹には、細長い黄色い管のようなものが詰まっていた。
季節は秋、秋が終われば冬。虫は、寒い冬を越すことは出来ず、次世代に託す。
「卵ですか」
高順の声に、壬氏は俯く。
腹が膨れた蝗は次にどう動くか。
「蝗害はまだ終わっていない」
壬氏は、覆面の下でそっとつぶやいた。
「地を焼くぞ」
生き残った虫の卵を焼き殺さなくてはいけない。
春には小麦の収穫、孵った虫たちには餌場になってしまう。