三、良兄
ぱちん、ぱちんと石を並べる音が響いている。
壬氏は執務室に向かいながら、詰所で武官たちが碁を打っているのに気付いた。
「流行ですかね?」
「だろうな」
馬閃の問に壬氏は答える。
流行の火付けは何か、言わずもがな。壬氏の手にも六冊ある。
文官に使いを頼んだ一冊ではなく、何故六冊かといえば。
『貰い物ですが、どうぞ』
短い文を添えられて、猫猫が送って来た。なんで送って来たかと言えば、在庫処分なのかもしれない。手元に置きたくないはずだ。
別に文官に渡した金が無駄になったなどとは思わないが、六冊あっても仕方ない。馬閃は持っているので、高順と主上と阿多に渡してみるか、と考える。
単純に、それだけの理由かもしれないし、そうでないかもしれない。薬屋の娘はしたたかで抜け目がないので、裏があることも考えておくべきだ。
壬氏は考えつつ、どうやったら猫猫を言いくるめる方法があるだろうかと考えてしまう。逃げ道がないように、幾重にも下準備をする必要があった。
途中、官女たちに遠巻きに観察されながらも、壬氏は執務室に到着する。
執務室の前には、官が一人立っていた。壬氏に気が付くと慌てて、近づいてくる。
「どうした?」
壬氏に代わって馬閃が対応する。
「失礼いたします、こちらを……」
官はそっと書を渡す。馬閃は書を開き、眉をぴくりと上げた。
壬氏は書を見ると、無表情のまま執務室へと入る。
「被害状況を逐一報告しろ」
「はっ」
官は戻っていく。また、新しい情報が入ったら伝令がやってくるはずだ。
執務室に入ると、壬氏は深くため息をつく。
「とうとう来たか」
書には簡潔に書いてあった。
『蝗害が発生した』と。
小規模の害虫被害はすでに何件か報告が入っていた。壬氏も目を通したが、直接、首を突っ込む内容でもないので、部下に任せていた。
今のところ、そこまで大きな被害はなかったのだが……。
「収穫が三割を切るか」
甚大な被害だ。場所は西部の穀倉地帯と聞いて、壬氏はぴくりと耳を動かす。
「麦の収穫にしては遅すぎやしないか?」
収穫時期は夏のはずだ。
「麦ではなく、稲です。二十年ほど前から、大がかりな灌漑を行い、稲作を行っています。逆を言えば、周りに稲しかなかったので局地的に食い荒らされたと言えます」
壬氏の質問に答えるのは、碁好きな文官だ。名前を天祐と言う。少し気が小さいところが無ければ優秀な男だ。
「大河から水を引いているということか」
そういえば、壬氏が生れた頃に、大掛かりな治水工事があったと聞いている。水を引く工事も一緒にやったようだ。
「はい。試験的に一部の地方で行われました。収穫としては麦より安定しているものの、範囲を広げすぎると下流の水に影響があるということでそれ以上の拡張は取りやめになっております」
天祐は、地図に大きく丸を付けている。
二十年前は、女帝の時代だ。あの女傑は、突拍子もないことをいくつも政策に入れ、実行している。
壬氏は丸がついた地図を見る。都から近くもないが遠くもない。往復で四、五日あればいけるだろうか。
机には山となっている書類。壬氏は、ずっと控えている馬閃と不安そうな顔の天祐を交互に見る。
仕事は溜め込みたくない。だが、気になることを放置しておけない。
壬氏は唸りそうになるのをこらえる。
「……あ、あの」
天祐がおずおずと手を挙げる。
「どうした?」
壬氏はできるだけ表情を崩さぬように、天祐を見る。馬閃がいる手前、顔が崩せぬのがきついところだ。
「し、失礼を承知で申し上げますが、月の君は仕事を抱えすぎではないかと」
「私自身がよくわかっている。だが、どうしろというのだ? 他の者に任せるわけにはいかないだろう」
壬氏の発言に、天祐は少し後ろめたそうな顔をする。
「た、大変言いにくいことですが」
天祐は目線をそらしつつも続ける。
「他の方々は、部下に任せていることがあり……」
「そんな不正をやっているのか!」
馬閃が机を叩いた。天祐が「ひいっ!」と身体を震わせる。
「どこのどいつだ。誰か知っているのだろう?」
馬閃が詰め寄るので、壬氏がそっと制する。
「馬閃。怯えている。それで、誰がやっているのかだけは教えてもらいたい」
壬氏が柔らかくも、有無を言わさない声で天祐に言った。
「え、えっと……、漢太尉です」
確かに軍師殿なら納得がいくけれど、天祐の顔には誤魔化しが浮かんでいた。
「他にもいるんじゃないのか?」
壬氏が顔を近づけると、天祐は頬を真っ赤にする。そっちの気がない人間を選んだつもりだが、あまり顔を近づけすぎては駄目らしい。壬氏は顔の傷を撫でる。
「し、主上も……」
『……』
壬氏と馬閃は黙るしかない。
「ど、どうでしょうか?」
もう離れてくれと言わんばかりに顔を伏せる天祐。しかし、馬閃はそれだけではおさまらないようだ。
「一体誰が主上の代わりにやっているというのだ?」
鼻息を荒くして詰め寄るが――。
「が、高順さまです!」
『……』
またも黙るしかない。
「もちろん、印を押すのはまとめて主上がやっておりました。た、ただ、もう一人、間に挟み書類の類を片付けていただければ、月の君の仕事は三分の一に減らせるのではないかと」
三分の一と聞いて心が揺らぐ。しかし、大事な仕分けをおいそれと官に任せるわけにはいかない。
壬氏は馬閃を見る。
高順がやるのであれば、息子の馬閃がやってくれればと思うが、生憎、机仕事に向く男ではない。仕事は丁寧なのだが、生真面目すぎて融通がきかないので、溜め込んでいくだろう。
壬氏の仕事を任せてもいい家柄と忠誠心を持ち、なおかつ器用に仕事がさばける部下が欲しいなんて、贅沢だろうか。
「壬氏さま」
「なんだ?」
「一人、書類仕事が得意な人間を知っておりますが」
馬閃の言葉に、壬氏は目を見開く。
「本当か? 文官の知り合いなどいないだろうに」
「いえ、一人います。昨年、科挙に合格した進士ですが、現在、官職にはついておりません」
「……もしかして」
壬氏は一人、思い当たる人物がいた。
「はい。馬良、良兄者と言えばわかりますか」
馬良、名前を見てわかるように、馬の一族の一人、馬閃の兄だ。