終 夏の終わり、秋の始まり
蝉の声は終わり蟋蟀の声が聞こえる。
(街じゃあ、蟋蟀相撲をやってるだろうな)
蟋蟀同士を戦わせる娯楽、闘蟋だ。闘鶏と同様、金をかけることも珍しくないが、そんな市井の騒がしさとは少し離れた場所にいる。都の郊外にある屋敷の一室で、猫猫は寝台に横たわる姚を見る。姚の実家である。
「早く仕事に復帰したいんだけど」
姚は寝間着のまま外を見る。毒見から十日以上経つ。一時は意識が混濁していたのだが、もう問題なかろう。
「早く復帰したら燕燕が喜びます」
燕燕は仕事だ。壬氏付の任をおり、医局にて働いているがまだ上の空だろう。姚が倒れてからずっとさぼった上での解任である。ずっと看病していたらしいが、姚が追い出したという。
「燕燕無しでもやっていけると思ったんだけどな」
独白じみた声だ。
「別にあれは防ぎようがなかったかと思います」
「それは猫猫でもなの?」
「……」
つい無言になってしまった。猫猫は気になる毒物はつい口にしてしまう性格である。毒鶴茸も経験済みで、消化器官に吸収される前に吐いている。
(あの時も散々やり手婆に腹を殴られた)
妓女の堕胎で慣れているのか、やり手婆は容赦ない。胃袋まで吐き出すかと思う位だ。
というわけで、茸の食感や味について覚えている。茸の原型をとどめていたら気づいたかもしれない。
「やっぱ、私って未熟なのかしら?」
前髪をかきあげる姚。毒のせいで肉がごっそり落ちているが、胸肉はまだまだ健在だ。
猫猫はおやじから預かった薬湯を姚に渡す。山を越えてから自宅療養になったのだが、猫猫は屋敷を見て少し首を傾げる。
屋敷自体は立派だが、少し物寂しい雰囲気が漂っている。猫猫を出迎えてくれた使用人も屋敷の規模に対して少なかった。
「使用人が少なくて悪いわね」
「別にそんなことは」と言い返すべきだろうが、世辞がうまく言えないのが猫猫である。
「ここはもともと別宅なの。本家は叔父さんに取られちゃったから」
「そういうことですか」
こんな静かなところに暮らしているわけだ。姚の家柄はいいことはわかっていたが、なぜ医官付きの官女になろうとしたのか、やたら向上心が高い理由がわかった気がした。
「燕燕も一度は暇を出したんだけど、戻ってきちゃったのよ。私に仕えていても出世は望めないと思うのに」
姚の父は亡くなったらしい。遺産はあるが、家は叔父が継ぐ。茘では女は男に従うのが慣習だ。叔父が家督を継いだとなれば、姚の今後は、叔父の言うがまま結婚することくらいだろう。
(仕事を覚えようとしたのも)
気丈な彼女がその運命にあらがうための一つの手段だったのかもしれない。
「燕燕ももったいないことしたわね。月の君にかなり気に入られていたみたいだわ」
「そうですね」
なんとなく気に入られていた理由はわからなくもない。壬氏は猫猫が言うのもなんであるが、けっこう歪んでいる。かまいすぎる相手より、必要最低限の接触で終わらせようとする相手のほうが心落ち着くのだろう。
「燕燕ならどこへ行ってもちゃんとやってくれると思ったのに」
「むしろ燕燕は姚の元でこそ真価を発揮するように思えますけどね」
発揮しすぎて困るところが怖い。特に姚の胸部など、必要な栄養素をいつも考えて育ててきたに違いない。
(ぜひ、どんなものを食べさせたのか一覧を教えてもらいたい)
ついわきわきと手が踊る。
「ええ。だから離れようとしたのに、ほんと、駄目ね。私だけが駄目ってわけじゃないの。燕燕がどうしても私が必要だっていうのだから、仕方なくよ」
なんというかつんとしていてたまにでれてくるところも燕燕にとってはつぼなのだろう。もし、姚が嫁に行くときはどう反応するか楽しみだ。
「本当に仕方ないんだから」
そういうとちらりと猫猫を見る姚。
「猫猫は何か私たちに内緒でいろんな仕事を受けているようね」
「なんのことでしょうか?」
ここは素知らぬ振りをする。罪悪感はある。なにせ助かったとはいえ、姚に猛毒を盛った犯人を猫猫は生かす形になったのだ。そして、表向き、姚は毒見に失敗し、なおかつ要人を死なせたという汚名をこうむっている。
(いいところなしだ)
「私、本来ならこんなに丁重に扱われないと思うのよ。失敗しかしていない。でも、丁重に扱われ、今後も仕事はちゃんといただける。世の中がこんなに甘いと思うほど、子どもじゃないのよ」
「……っ」
「何も言わなくていいわ。これは私のひとりごと。猫猫はぼんやりした顔で茶でも飲んでればいいわ」
饒舌に姚は語り続ける。
「私に処分がないだけ、周りが優しいと思っているし、それだけ私が相手にされていないことくらいわかる。ここでとやかく言うのは賢くないと思うから、こうして口にすることも大人げない証拠だけどこれくらいは言わせてほしいのよね。ええ、あくまでひとりごと」
事件が表とは違う形で終わったということを薄々気が付いているようだ。姚以外にも怪しいと思う人間はたくさんいるだろう。ただ、何もなかったことにするのが一番賢い方法とされているわけで、皆、黙っているのだ。
「もし、それが燕燕に知れたら、何をするかわからないわ。私が納得していても、聞かないかもしれない。だから燕燕には絶対知らせないように、気づかせないようにしてちょうだい」
確かに燕燕なら今回のことを怪しむかもしれない。もし、毒を盛った真犯人が誰かわかり生きていることに気付けば、姚の代わりに復讐に来るかもしれない。
「私は燕燕に変なことをされて、こっちの出世まで響くのが嫌なの。いい、それだけ」
やはりつんとしていてでれって感じだ。
今回の事件はこれで終わり、そう上が決めた以上猫猫にとっても終わりなのである。
下手にかきまわすのはよくないのだ。
「私は耳が悪いもので、よく聞こえませんでした。そういうことでよろしいですか?」
「あら、それは不憫ね」
ちょっと茶目っ気を入れて姚が返す。姚はあと数日したら、元の職務に戻るとの話をして、猫猫は屋敷を出る。
今日は休みなので、いつもと違い馬車はない。少し遠いが歩いて帰る。
横目を見ると、子どもが虫かごを持って走っていた。祭の騒がしさはなくなり、気だるげで落ち着いた空気が漂っているように思えた。
街の皆は、異国の巫女が死んだことなんて、ひと時の話題にしか過ぎないのだろう。祭の余韻もなくなり、日常へと戻っている。
猫猫はすんと冷ややかになった風を鼻で吸うと、家路についた。