二十六 巫女の真実
風がじんわりしている。気温は慣れた気候よりずっと涼しいはずなのに、肌に張り付く感覚は慣れない。ただ、日差しが弱いのだけは、建物の中でもわかる。いつもの生活より少しだけ散歩の時間が長い、それがうれしい。
ここひと月ほどの間、自分はどれほど冒険をしたのだろうかと思った。ずっと屋敷にこもり、ただひたすら崇拝されるだけの生活。誰かに敬われることは慣れたことであり、当たり前であり、同時に退屈すぎた。それを望む者がいればいつでも明け渡す準備は出来ていた。なのに、己自身の存在のせいでその機会を奪うばかりだった。
『巫女』と呼ばれ続けて、己の本来の名すら忘れてしまった。もし、座を明け渡していたら、どう名前をつけようかと困るところだっただろう。
ようやく終わる。
ただ緩慢ともいえる時間を過ごす。この時間こそが最後の猶予なのだと思う。
帳が幾重にも張られた部屋の中、衣擦れの音がした。何かと思えば、娘が一人顔を半分だしてこちらを窺っている。娘の名はジャズグル、『春の花』を意味する。一年ほど前に連れてこられた娘で、生まれつき声が出ないらしい。
どういう経緯で、こちらにやってきたかなんてものを聞くのは野暮であろう。見た目は愛らしく整っているが、手足は細く栄養が足りないことは見てわかった。文字が読めないと聞いたが、耳は聞こえるのでこちらの話はわかる。知識がないことは逆に好都合だった。
巫女が手招きをするとジャズグルは嬉しそうに近づいてくる。今日、客人はいない。ここ数日、病の床にふけっていてジャズグルの相手をすることはなかった。かまってあげなくてはいけない。
うれしそうにやってくる娘に、巫女は微笑みかける。巫女はそっと寝台から降りると、部屋の脇に置いた道具を持ってくる。中には塗料が入っている。赤い塗料を指の先ですくうと、額に塗ってやる。楽しそうにただなすがままにされる。
他人と会話しないからだろうか、学がないからだろうか、見た目よりもいくらか子どもじみている。
赤く塗った顔を作ると、巫女は羊皮紙を出した。机に染料を並べて、ジャズグルに水鳥の羽を渡す。
「今日はどんな夢を見た?」
巫女が聞くとジャズグルは、不器用な手つきで絵を描き始める。声も文字もなく、伝える手段はつたない絵だ。
絵を描き始めると熱心になる。ただ、ずっと巫女の部屋にいるわけにはいかない。もうすぐ食事の時間だ。
「部屋に戻りなさい」
紙と染料をまとめてジャズグルに渡す。羊皮紙がかさばるため、ジャズグルは受け止めきれずに何枚か落とす。紙を拾いながら上目遣いでまだ一緒にいたいと巫女を見ていたがしかたない。いつもより、丁寧に頭を撫でる。
「いつまでも一緒にいられるわけじゃないの。一人でお絵かきはできるね」
こくりとうなずくのを見て、巫女は笑みを浮かべる。
ジャズグルが出て行ってからしばらくすると、付き人がやってくる。巫女は『巫覡』と呼んでいる。巫覡、意味は『巫女』と同じようなものだ。彼女もまた巫女と同じく名前を忘れられた者だろう。先代の巫覡からあとを継ぎ、もう二十年近く巫女の傍にいる。
『巫女』とは本来は『神子』のことだよ。
先代の巫覡が言ったことを思い出す。『神子』に仕えるのであれば『巫覡』と呼ぶのにふさわしい。神の声を聞くのが巫の仕事なのだから。
『神子』がいつしか『巫女』と呼ばれるようになった。選ばれる者が女しかいなかったせいか、女しかいなくなったせいか、どちらだろうか。
巫女もまた自分が『巫女』としてふさわしいのだと思っていた。
幼い頃に先代の巫覡によって見出された。物心がつく前に、引き取られずっと宮の奥で育った。
特別だと言われた。白い髪に白い肌に赤い目。色が欠けているからこそ、神の声が聞こえるのだと言われた。
一挙一動が占いとなり、それを巫覡が読み取るのだ。
白い巫女の占いは当たる。王ですら頭が上がらぬ唯一の人物、いや人として扱っていいのだろうか、神として宮の奥に座っていた。
巫女に学は必要ない。その存在こそが至高であるはずだ。代々の巫覡は巫女に学を教えることはなかった。巫女を育ててきた巫覡は変わり種だったのだろう。
それでも、世間知らずだったことには違いない。
『巫女』は初潮とともに、やめなくてはならない。『巫女』でなくなるとどうなるのだろうか。想像がつかないまま、十を過ぎ、十五を過ぎた。
初潮には個体差があり、歴代の『巫女』の中にも来なかった者がいると聞いた。なので、珍しくもない、ただ『巫女』を続ければいいと思った。ただ、自分の肉体に初潮が来ないこと以外にも違う点があることに気付かずにはいられなかった。
女らしい成長はまったくなかった。乳房が膨れることもなくただ、身長と手足だけがのびた。いくら世間知らずでも男女の違いくらいわかる。巫覡に聞くと、「あなたは特別ですよ」と言われた。言われたが、それから慣れぬ食材を食べさせられるようになった。
何も知らないまま、わからないまま月日が経つ。巫女としての知名度が上がったのか、占いを求める者は増える。巫女は占いのときは好きなように振る舞え、ただ声を発してはいけないと言われた。代弁はすべて巫覡がやった。
その巫覡も巫女が二十歳を過ぎた頃に体を壊した。寿命だったが、人の死を見たことがない巫女にはよく理解できなかった。弱る巫覡の代わりに今の巫覡が来た。巫覡の孫だった。
老いた巫覡は巫女に言った。巫女にはなぜ、初潮が来ないのか、女らしくない体つきなのか。
巫女が生まれたのは、小さな村だった。砂の大地が多い砂欧の中で豊かな緑を持った豊かな場所だ。引退した『巫女』の行き場として用意された村で、村人の多くが歴代の『巫女』の血が流れていた。
過去に白い『巫女』もいたのだろう。巫女はそこで生を受けた。
男として。
なんの冗談かと思った。笑えない、なにかからかっているのかと思った。
しかし、巫覡はかすれた声で話を続けた。
当時の王は粗雑な王だった。交易の中間として栄えている砂欧で、他所に戦を仕掛けるなどとたわけたことを言った。臣下はなんとかなだめようとしたが、思い込みの激しい若い王は聞く耳を持たなかった。
王を制することができるのはもう一つの柱である『巫女』だ。しかし、当時の『巫女』の求心力はそれほど高くなく、もうすぐ引退する年齢に達していた。
新しく『巫女』が誕生すると王と面会する。白い、特別な『巫女』ならなおさら意味が深い。
巫覡は莫迦な王を廃するために巫女を利用した。巫女を男でないものとした。雄の子山羊にやるのと同じように、巫女を去勢したのだった。
巫女は女にされ、王に面会する。赤子がぐずるのは珍しいことでもなく、慣れない雰囲気に巫女は泣いたという。巫覡はそれを理由に「王にふさわしくない」と占いの結果を口にした。
己の人生をすべて否定されたかのような告白だった。『巫女』として二十年以上生きていたのに、何もかもが嘘だった瞬間だった。
王を廃するために用意された駒、ただそれだけなのに、自分は特別だと信じてずっと生きてきた。
息を引き取る巫覡を罵倒してやりたかった。でも、罵倒の言葉も知らぬほど巫女は無知だった。多少の知識では意味がなかった。そのなけなしの知識さえ、巫覡が自責の念から逃げるために巫女に与えたものだったのだろう。
先代巫覡の死とともに、巫女は療養という目的で、生まれた村に近い場所に移り住んだ。先代巫覡は優秀だった。巫女という傀儡を十二分に動かし、政を安定させていた。孫の巫覡も優秀だが、経験が乏しかった。逃げるようにと言ったほうが正しいのかもしれない。
事実、巫覡の交代とともに、『巫女』も交代するようにと無言の催促が行われた。見習いとして良家の子女が何人も巫女の元にやってきた。その中に、愛凛もいた。
『巫女』の座などいつでも渡していいと思ったのに、すがりつくより他なかった。『巫女』になるために作られた存在、名前さえ忘れられた存在なのだから。
愛凛は巫女になついてくれたが、多くの巫女見習いは巫女のことが邪魔で仕方なかっただろう。
いつまでも療養を続けているわけにはいかないと思った頃だった。巫女が生まれた村から使いがやってきた。白い産着に包まれた赤子を連れて。その赤子は血管が透けるほど白い肌をしていた。
「巫女さま」
聞きなれた声に巫女は驚いてしまう。目の前には、巫覡がいた。つい昔のことを思い出してふけってしまった。
「……本当によろしいのですか?」
目の前には雑炊が置いてある。そうだ、食事の準備をしてもらっていた。
「これ以上、遅くなるとおかしいだろう」
「……」
巫覡の顔は暗い。何もかもわかってくれたつもりだが、どうしてそんな顔をする。ぎゅっと拳を握り、目を合わせないように俯く。
「食事は一人で取る。なので、あちらへ行ってくれ」
笑う、笑うしかない。
「お前ならあとは任せられる」
匙をゆっくり口に運ぼうとしたが、なんだか外が騒がしいことに気付いた。
眉間にしわを寄せて巫覡と顔を見合わせると、扉が大きく開かれた。
『失礼します!』
茘の言葉で大胆に現れたのは小柄な女だった。医官付きの官女で、何度も往診に来ていた。確か今日は来ないはずだったのに。
「ぶ、無礼です!」
巫覡が立ちはだかるが、官女はひょいとすり抜けて巫女の前に来た。警備はどうなっているか。
「無礼ない。私の仕事、これ!」
今度は砂欧の言葉に切り替えて娘が言った。片言だ。なんのことを言っているのかと呆気に取られているうちに匙を奪われた。そして、粥を口にするとごくんと飲み込んだ。
巫女と巫覡は真っ青になる。
官女はにんまりと笑い、目を細めたまま巫女を見る。
「おいしい。茸粥」
勝ち誇った顔で官女は言った。