二十二 答えの欠片
時間というものは平等に流れているものではない。楽しい時間は短く、苦痛の時間は長い。
そして、食事会までの時間もまた光陰矢の如しと言われるように短かった。嫌なことに迫る日々もまた、短いのだ。
猫猫はたっての願いで、当日までできるだけ変人のところにはいかないでいいということになった。姚は猫猫と違い、主に一人で任される仕事ということで張り切っている。巫女の離宮に数日前から泊まり込みをすることになった。食事会をともにするにあたって、巫女が普段どんな食事をするのか実際一緒にとるのだ。
食事についてはこと細かく確認しているが、見落としがあると困るからと巫女たってのお願いである。
猫猫としては、異国風の料理が出て気になっていたのに、それもこれもあの変人が悪いのである。
というわけで、食事会の当日、いつもより半時早く出勤しなくてはいけない。
(いきたくねえ)
これを何度、思ったことだろうか。
だらだらと服に着替えて、ぎりぎりの時間を見ながらゆっくり自室を出ると。
「猫猫」
「おや、久しぶり」
廊下でばったり会ったのは燕燕だった。壬氏付の侍女として出張してから、宿舎には戻らず別の場所で寝泊りをしているのだが。
(姚不足かな)
明らかに疲れた顔をしていた。目はどことなくうつろで、唇はかさかさしている。ふらりと動く姿は幽鬼を思わせる。
「猫猫……お嬢様は?」
「えっ、えーと、姚なら……」
ここにはいないことを伝えると、天から星が落ちてきて頭に直撃したような顔をした。くらくらしたまま、壁に寄りかかるとそのままずりずりと溶けるように床に落ちていく。
「大丈夫ですか?」
どう見ても大丈夫じゃないのだが、一応確認するのが礼儀だろう。
「お、お嬢様……」
(本当に好きだなあ)
猫猫は指先でつんつんつつきながら、どうしようかと考える。仕事にはいきたくないが、私情で遅刻するのも癪なので、いつまでも燕燕の相手をしているわけにはいかない。
「どうしたんですか? 仕事は? 今日は一日、張り付いていなければならないのでは?」
「うっ、うう。こういう時じゃないと抜け出せなかったんですよ……。月の君の侍女頭は、監視が厳しく……」
「ああ」
猫猫は納得した。たしか月の君というのは壬氏のことだ。壬氏にはちゃんと皇弟としての名前があるが、これを口にしていいのは主上くらいなものである。ゆえに、違う呼び名で皆呼んでいる。
そして、壬氏の侍女頭として想像するのは、水蓮という初老の侍女で、これがなかなか食わせ者なのだ。さすがの燕燕も水連からはなかなか逃げ出すことはできなかったようである。
「早く戻らないと、また怒られてしまうのでは?」
「……そうですね。いいです、近くで匂いを嗅ぎたかっただけです。髪をしっかり梳いて結い上げたかっただけです。もういくらさらさらでも野郎の髪結いはやりたくありません……」
壬氏の髪結いまで任されているということは、かなり水蓮に気に入られているようだ。ちなみに猫猫は壬氏付の仕事が慣れた頃、何度か髪を結うようにと言われたが、やったことがないと毎回断った。
燕燕はゆるりと起き上がる。のろのろ歩いて戻ろうとしたが、何を思い出したのか猫猫に振り返った。
「そういえば、文の返事をまだ渡していませんでしたね。先の理由にて、手紙も送ることができなかったためです」
下手に文のやりとりをすると間諜に間違われる可能性がある。今、こうしてやってきているのも十分怪しいが、疑われたら猫猫が弁明してあげないといけない。
「わざわざありがとうございます」
猫猫は文を受け取る。燕燕は婦人系の病や美容にいい薬に詳しそうだったので、聞いていたのだ。
文を開くと、かなり詳しく書かれてあった。大体は猫猫の知っている内容だったが、いくつかこんな効用があるのかと感心してしまうものまである。
「……⁉」
猫猫は文の中の一行に目がいった。
「ええっと、これ」
ふらふらと戻ろうとする燕燕を捕まえて聞く。
「雪蛤なんだけど、これ、本当?」
「……はい」
「ええっと、こんなものわかってて食べさせていたと?」
「姚さまを美しく育てるためです」
燕燕はきりっと一瞬顔がきらめいたが、またうつろに戻った。
猫猫は姚のことを同情しつつ、自身もまた仕事に向かうことにした。
食事会までの流れを猫猫はよく知らない。祭事のようなことをやるらしいが、段階がいろいろあって正直覚えていない。何より、関係者しか入れない場所でやるのでそれまで待機だ。待機なのに、半時も早く出勤させられたのはとても納得がいかない。
猫猫は医局の薬棚でも眺めて、悦に入ろうと考えていたが、医官の一人に呼び出しを食らう。何かと思えば、使い走りのようだ。
「これを、妃たちに運んでもらいたい」
園遊会やら食事会やら、その手の催事は後宮の花たちが外に出られる数少ない機会だ。なので、使い走りと言っても男をよこすわけにはいかないのだろう。姚も燕燕もいないので猫猫がいくしかない。
荷物を確認すると、線香が入っていた。なぜ医局にあるかと言えば、医療用としても使われるためだ。煙には虫よけ効果があるし、香りは心を落ち着かせる。
「蚊やりの代わりが欲しいとのことだ。ただの蚊やりだと煙たくて仕方ないとさ」
普通、蚊やりと言えば、線香なんて上品なものではなく、虫よけ効果のある木の枝をがんがん焚くのだ。煙だけでも多少効果があるが、確かに煙たい。
「どこの妃のわがままですかね」
「ほら、あの異国からやってきたという新入り妃さ」
意外だな、と猫猫は思った。
あの愛凛とかいう女で、異国女らしい薄い色素に大きな背、ついでに豊満な肉体を持っている。
(まだ、色よい報告はしてないんだよなあ)
姚と燕燕には話していない。猫猫だけ、羅半から調べろと言われたこと。
(巫女は子どもを産んだことがあるのか)
結局わからないまま、帰ってしまいそうだ。
「砂欧出身ということで、新入りだが食事会にねじ込まれているそうだ。他の妃にも渡しておくように、あと渡す順番は間違えないように」
医官は丁寧に出席する妃の名前一覧と、妃たちがいる棟の場所を地図で教えてくれた。玉葉后はもちろん、上級妃の梨花妃、それから中級妃が愛凛の他に二名出席している。
順番を間違えると怖い怖い。
(それにしても)
本当に砂欧の権力関係はよくわからないと猫猫は思いながら使い走りに行く。
(愛凛が亡命で、姶良とかいう女が政敵、そんでもって愛凛は巫女側の人間だというが巫女の弱みを握ろうとしている)
猫猫のおつむで考えると、ざっとこんな相関図だろうか。
気になると言えば気になるが、首を下手に突っ込むと、巻き込まれて首を落とされる可能性もある。ただ、黙っていうことを聞いて、あまりに危なそうだったらさっさと引くのがいい。
控えの間は、妃ごとにそれぞれ与えられていた。玉葉后だけは、別の場所に待機している。順番としては、梨花妃から行くのが妥当であるが、顔を見せると話が長くなりそうだ。
猫猫は梨花妃の控え室の前で知った顔の侍女がくるのを待つ。ろくでもない侍女たちは皆やめさせられたので良かったが、残った侍女もまた、猫猫を見るとき妙におびえるのはやめてもらいたかった。
さくっと次、次と渡していく。
愛凛の部屋の前に来た。ふと、猫猫は鼻を鳴らす。
(なんだろう、これ)
ちょっと変わった匂いがした。何の匂いか思い出せそうで出せない。とりあえず、部屋の戸を叩く。
「どうゾ」
独特の発音が聞こえたので、戸を開ける。中には愛凛一人で侍女はだれもいなかった。
愛凛は何か胸のところをしっかり押さえている。愛凛に近づくと妙な匂いがちょっと強くなった。
「蚊やりを持ってきました」
「ありがとうございまス。そこに置いててくださらない? ちょうど侍女が、席を外しているのデ」
お手洗いか何かだろうか。半分、監視のようについている妃の侍女だが、この控えの間は、窓も小さなものが一つ、入口は一か所で、外には警備の者がいる。問題ないと見たのだろう。
「では、私はこれで……」
帰ろうとしたら、猫猫は袖を掴まれた。
「な、何か?」
「巫女さまのところにもいっているでしょウ? 巫女さまの容態はいかがですカ?」
(これはどう答えるべきだろうか)
猫猫は一瞬迷い、そのまま答えることにした。
「旅の疲れもないようです。病については今、こちらでちゃんと診ておりますのでご安心ください」
無難すぎる返事をして、猫猫は自分で笑いたくなってくる。
「そうなの。あなたは特に官女の中でも優秀だと聞いていたから、期待しているワ」
重圧をかけてきた。近づいたせいでまた匂いが強くなる。
(本当になんだっけな。この匂い)
ふむ、と考えながら猫猫は愛凛の部屋を出る。
(なんだろう、このもやもや)
さっきの匂いもだが、他にももやもやしたものがたまっていた。砂欧関係でいろいろ引っかかっていることだ。おそらく、答えを知るきっかけはいくつも集まっているのだが、それを答えにまで導き出せない。もしくは、答えに至る欠片がいくつか足りないような気がした。
(これがおやじならとうに答えを導き出せているのに)
猫猫は自分の未熟さに軽くため息をつきながら、また医局に戻っていく。