十七、点心と異国の娘 後編
人とは言葉を伝達手段として生活している生き物だ。もし、それが使えなかったらどれだけ不便であろうか。
猫猫たちは今、まさに実感していた。
「ええっと。名前、名前は?」
しどろもどろに子どもに話しかけているのは姚だ。背を屈め、異国の少女の目線に合わせている。少女はあどけない顔のまま、首を傾げるばかりだ。何もしゃべらない。姚の言葉を聞き取ろうとしているところから、耳は聞こえているように見えるが、まったくしゃべらない。
(何か喋れば、どこの国の子かわかるかもしれないのに)
一言も発しないのである。
姚は自分がつっこんだ手前、なんとか少女の身元を割り出そうとしているが、困り果てた顔をしていた。時折、ちらちらと猫猫と燕燕のほうを見ている。
(助けてやればいいのに)
従者である燕燕はじっと主人の行動を観察していた。
燕燕のことはずっと姚の忠実な従者だと思っていたが、ちょっと違うことに猫猫は気が付いた。姚のことは大切に思っているし、ちゃんと従者としての仕事は完璧なのだが……。
(どっか歪んでる……)
というのが猫猫の見解である。
可愛いあまりちょっと意地悪したいような、それとはまた違うような。
というわけで、姚の困り顔に満足するまで燕燕はずっと観察していたわけだ。
さすがにこれ以上は、おつかいの時間がなくなると猫猫が出張ろうとしたら、燕燕が前に出た。
「姚さま、こちらの言葉では通じないと思いますので、かわりますね」
「燕燕、お願い」
ほっとした顔をする姚。燕燕に感謝しているようだが、問題はその燕燕がずっと困る姚の顔を見て小尻を振りながら楽しんでいたことである。
(知らぬがなんたら)
猫猫は半眼で二人を見る。
燕燕は異国語で、名前を聞く。異国語と言ってもいくつかある。猫猫が片言で使えるのは、砂欧の言語くらいだ。簡単な読み書きならさらに西の言語もわかる。だがあくまで自己流で、発音には自信がない。
燕燕も猫猫と変わらぬくらいしか覚えていないといったので、娘に話しかけるのもゆっくりとしたものだ。だが、首を傾げていた娘が目を見開き、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。どうやら通じたらしい。
「砂欧の子のようですね」
愛凛は金髪碧眼だったが、砂欧の民が全員、明るい髪と目をしているわけではない。親から子に受け継ぐ色は、濃い色ほど受け継ぎやすいので自然と髪や目は黒や茶が多いらしい。
「通じたの? でも、名前は」
娘はまったくしゃべらない。ただ、己の喉を叩き、手でかけ印を作っている。
「もしかして、声が出ないのでしょうか?」
猫猫は砂欧の言葉で「声が出ない?」と質問すると、娘は手で大きく丸を作った。
「話せないとなると」
猫猫は地面に落ちている枝を拾い、地面に文字を書いて見せる。そして、異国の娘に枝を渡す。
『名前書ける?』
猫猫の質問に、娘は首を振る。なにやら絵を描く。花のようだが、なんの花かまではわからない。
「……字も書けないみたいですね」
「どうするのよ?」
「こっちの台詞なのですが?」
姚の言葉に猫猫が言い返す。元はといえば、姚が考えなしにつっこんだのが原因だ。しかし、こう見えてけっこう正義感が強いのかもしれない。
姚は気まずそうな顔をする。
娘はひたすら地面に絵を描いていた。
「これは、なんですかね?」
柄のついた器みたいな絵だ。
「食べ物でしょうか?」
「これがどうしたのかしら?」
娘は描いた絵を枝で叩く。
「もしかして、これを探しているとか?」
姚が言うので、燕燕が片言で娘にたずねると大きく丸を描いた。そして、手のひらを見せる。上には小さな砂金が一粒おいてあった。
「ちょっと、それは……」
小さいが金だ。おいそれと見せるものではない、と猫猫は娘の手のひらをぎゅっと結ばせる。
「お金はあるから、買い物がしたいということでよいのでしょうか?」
「間違いではないと思います」
燕燕の同意を得る。姚も「うん」と肯定する。
「でもこれじゃあ、まったくわかりませんよね?」
猫猫は絵を見ながら、
『こういう器が欲しいの?』
と聞く。娘は大きく首を横に振る。
せめて、絵がもっと上手ければわかったかもしれない。
(趙迂くらい上手ければ)
いや、そんなことを言っても仕方ない。絵も年齢を考えるとうまいほうだ。
「何か食べ物のようですけど、他に手がかりはありますか?」
埒が明かない。
娘は水路のほうを見ている。さっき散り散りになった子どもたちが、水辺で遊び始めていた。なにかを釣っているな、と思ったら喇蛄を捕まえていた。泥抜きをして調理すると美味い。
しかし、娘は喇蛄が目的ではないようで、「あれではない」と言わんばかりに首を振った。
「仕方ないので、とりあえず戻りませんか? 医官たちならもっと流暢に言葉を話せるはずですし」
「そうね」
姚もお手上げなので、素直に賛成した。
「ねえ、一緒に行きましょ」
姚が娘と手をつなぐ。娘は首を傾げるので、猫猫は『もっと話がわかる人のところへ連れていく』と説明した。
しかし、子どもは首を振る。何かを伝えたいらしいが、言葉を発しないのでわからない。地面に絵ばかり描いている。
「これ、もしかして、饅頭かしら?」
「饅頭と言われたらそうだけど」
楕円をただ描かれていても判断しづらい。猫猫たちが、首を傾げていると、「まだわからないの?」と娘は首を傾げている。
「これは果実でしょうか?」
「林檎じゃないかしら?」
姚の言う通り、丸に葉っぱが付いた柄が突き刺さっている。他の物を見ると、果物や菓子に見えなくもない。では、さっきの器の絵は、点心が入った器ということでいいのだろうか。
「もしかして」
『点心が欲しいの?』
燕燕の質問に、大きく腕を振る。どうやら正解らしい。
猫猫は持っていた包みを広げる。さっき買ってきた菓子を見せるのだが。
「違うの?」
姚と燕燕も持っていた包みを開けて菓子を見せるが、どれも首を振る。
「大体、種類はそろっていると思うんだけど」
焼き菓子、蒸し菓子、甘いもの、辛いもの、本当に注文が多い。
「あと残るのは、次のお店のものくらいなんだけど」
猫猫が店を指さしながらいうと、娘はぴょんと飛び跳ねた。
「えっ?」
とりあえずわからないが、菓子が売ってある店に行くと伝える。すると、さらにぴょんぴょん大きく跳ねる。
「連れて行けってこと?」
どうやらそうらしい。
何か欲しいものが店にあるというのだろうか。
猫猫たちは水路を渡り、店へと向かう。民家の中に立て看板が一つ。どことなく閉め切っていて陰気臭い。
看板があるのに娘は字が読めない。だから、わからなかったのだろうか。
「こんなのが菓子屋なの?」
疑心暗鬼の目を姚が向ける。
「ちょっと変わった店ですので」
からんと店の戸を開けると、先客がいた。薄暗い店内に、小太りの店主の客人がいた。客人は女のようだが、ずいぶん背が高い。肌も少し浅黒い。
(異国人か?)
「ジャズグル!」
女は、聞きなれない言葉を発した。
なんのことだ、と首を傾げる間もなく、異国の娘が飛び出していく。
『もう! どこへ行っていたの!』
異国語で話しかける。『じゃずぐる』というのは、娘の名前らしい。
「ええっと、保護者ってことよね?」
「状況から察するに」
一体、さっきまでの四苦八苦はなんだったのだろうかと、肩を落としてしまう。
じゃずぐるは、猫猫たちを指して、何やら女に伝えようとしている。
「もしかしテ、ジャズグルをここまデ、連れてきてくれたのですか?」
訛っているが、十分聞き取れる言葉だ。
「すぐそこの水路にいたので。お菓子が欲しかったみたいで……」
姚が答える。
つまり、連れが菓子屋にいるが、はぐれてしまい菓子屋がどこかわからなくなったということだ。こんなにすぐ近くだったとは。
「すみませン。この子がどうしても行きたいというものデ」
女は説明する。店の主人はその間、注文された品を探しているようだ。ごそごそと棚をあさっていた。
「ああ、この店は」
燕燕は店の印が入った包み紙を見て納得した。紙は粗雑な作りのものだが、包みとしては十分だ。
「なんなの?」
「いえ、お屋敷とも取引がある店だと気づきまして」
猫猫は店で取り扱っている商品を見て納得した。生ものではなく、乾物が多い。
「はいよー、今、うちにあるのはこれだけだがいいかい?」
「げぇ⁉」
店の主人がごそっと持ってきたものを見て、姚が声を上げた。
何を持ってきたかといえば、干からびた蛙の束だ。蛙を伸ばして干したものである。
もしかして、水路で喇蛄釣りに反応したのは、蛙を取っていると思ったからだろうか。だから、がっかりしていたと。
(蛙の種類は違うんだけどね)
高級な菓子に使われる蛙なので、そんじょそこらにいる蛙とはわけが違う。
(蛙……)
猫猫は記憶の片隅にあった、なんだか蛙といっていいかわからないそこそこの物を思い出して、首を振った。
「な、なにに使うのかしら?」
(たぶん、ひんやりした夏の点心に)
一部地方にしかいない雌蛙の生殖器周辺の脂肪はぷるぷるしておいしい。そのことをよく知っているはずなのだけど。
(知らないほうが幸せ)
なのだ。
「ねえ、異国人って蛇や蛙を食べるって本当なのね」
こそこそと姚が燕燕に話しかけている。燕燕は「そうですね」と答えるが、大変しらじらしい。
しかし、今、異国の客人たちが買い占めているものを見て、猫猫は困った。
「あの……」
干した蛙はともかく、干し映日果や石榴を氷砂糖で漬けたものを買い占めている。
「映日果は少しだけこちらにも残していただけませんか?」
「すみませン。どのくらい必要ですか?」
猫猫が分量を伝えると、快く承諾してくれた。
「映日果なら、今の季節、生でもあるから、いつでも準備できるよ。石榴はもう少し先かな」
「ありがとうございまス」
店の主人に丁寧にお礼を言う女。じゃずぐるも真似して頭を下げる。
猫猫は女が買っているものを見て、目を細める。
(ちょっと聞きたいけど)
相手に踏み込む話になるし、何より言葉が互いにうまく通じるかわからないので口にしなかった。
女は品物を布に包むと、猫猫たちの前に立つ。
「これハ、大したものではありませんけど」
女が差し出すのは、白い布だ。一人一枚、渡す。
「ジャズグルがお世話になったので」
そういって、異国の客人たちは店を出ていく。猫猫は布に触れてみて慌ててしまう。
「あの!」
「品物が用意できたよ」
猫猫が追いかけようとしたが、店の主人に呼び止められた。お使いの品を受け取り、店の外に出るともう異国の二人組は見えなくなっていた。
「どうしたの?」
「これなんですけど」
猫猫はもらった白い布をひらひらさせる。無地に見えて、隅には細かい草木の刺繍がほどこされている。
「ひんやりとした手触りから絹ですね」
「ええ、絹だけど、それがどうしたの?」
あっけらかんと言い放つお嬢様に、猫猫は「やれやれ」と両手を広げて首を振る。
「姚さま。たかだか迷子を連れてきた駄賃に絹製品を与えるのは、大盤振る舞いです。一般的に」
「そ、そうよね! 私も思ったのよ」
うん、姚のかわいらしさは段々理解できるようになってきた。燕燕は、姚が見えないところで親指をぐっと立てている。
店での買い占めもそうだが、簡単に高級品をほいほい差し出せるような人たちだ。
(かなりの金持ちだな)
もうちょっとごまをすっておけばよかったと、息を吐く。
「婦人病かなにかでしょうかね?」
「そんな食材ばかり買っていましたね」
燕燕も同じことを思っていたらしい。
姚だけは、気づけなかったようで、少し悔しそうに猫猫と燕燕を見る。
そんな中、時刻を知らせる鐘が鳴り響いた。
「じ、時間!」
とうに戻る時間になっていることに気が付いて、三人はまた全力疾走する羽目になった。