十、訪問
後宮に妃という位を持った女は百名足らずいる。
上級妃が出て行く場合、色々噂になるものだが、低い位の妃であれば気が付けばいなくなっていたということも少なくない。下賜されることもあれば、帝の手つかずのまま実家に帰されることもある。
後宮を出て行くことを鼻で笑う女官は多いが、別に猫猫はそれでもいいと思う。
花と番号がついた札がかかった部屋。下級妃の部屋だが、扉には黒い布がかかっている。
黒い布は喪を意味しており、すなわち部屋の主人である妃が死んだことを意味している。前の東宮が身罷られたときも同じようにしていた。
猫猫たちはおやじとやぶ医者、それから姚、燕燕とともに後宮内を回っていた。二回目の後宮訪問だ。
「病気かしら?」
ふと口にしたのは姚だ。病気なら、前に来たときおやじが診ている。そうでないということは――。
「自殺でしょうね」
実は珍しくない。事件性を帯びない明確な自殺であれば、後宮で騒ぐことはない。日常茶飯事とは言わないが、珍しく騒ぎ立てるものでもない。
後宮に入った妃は、花の種類は違えど誰もが美しさを誇りにやってきた者が多い。ゆえに自尊心が高い者も多く、後宮に入ったあとの理想と現実の差に打ちひしがれることも少なくない。
「お酒に依存していたらしいわ」
女官たちの話し声が聞こえた。おしゃべりに夢中で医官が近くを歩いているのに気が付かなかったらしい。白い上着に気が付くと慌てて、持ち場へと戻る。
(やっぱり女の墓場、いや戦場)
競争に負けた者は消えていくしかない。
ある意味、こき使われる下女たちのほうがまだはっきり年季がある分、自由と言えよう。
今日の予定は下級妃の部屋を回って、最後に愛凛のもとへと向かう。謎解きの答えが知りたいためなのだろうか、あえて「熱っぽいから見てほしい」と伝えていたようだ。
「特に問題はありませんわ」
香水の匂いがきつい妃は団扇を侍女にあおがせながら言った。もう夏なので、むわんと匂いがこちらにやってきて鼻をつまみたくなる。あろうことか部屋は閉め切っており、匂いがどこかへ流れることはない。
(体型は主上好みなのに)
めりはりのきいた身体付きをしていて、しっかり襟を合わせられた衣装からでもよくわかる。やや険がある顔立ちだが、頭は悪そうではない。お元気な主上にとっては守備範囲だろう。
猫猫はそっとやぶ医者が持っている帳面を見た。頁には今目の前にいる香水臭い下級妃の名前が書いてある。妃が過去になんの病気になったかなど書かれてあるものだ。それだけでなくお通りの数も書かれてあった。
(あっ、やっぱり好みだったみたいだ)
一回のご訪問ありと書かれてあった。それ以降ないのは、やはり香水が臭すぎたからだろう。
あけすけで下品だと思うが、後宮内での閨の記録は逐一取られる。医官に報告するのも義務だ。義務だというが正直きつい。
(ええ、玉葉后のときとか)
翡翠宮にいたとき、三日に一度は主上がやってきた。
ちゃんとにゃんにゃんされているか、部屋の外で待機しておかないといけないのだ。基本は侍女頭である紅娘がやっていたが、どうも連日来られたときなどきついらしくその場合、猫猫が引き受けることがあった。
(いや、花街で慣れてたけどさ)
主上と玉葉后のにゃんにゃんは、ある程度慣れている猫猫がみてもけっこう上級者のそれだった。壁伝いの音だけでもけっこう辛い。独身三十路の紅娘にとってこれは苦行だろうにといつも思っていた。
こうして回数を記入されている時点で、もうここは外界とは違う場所なのだなと思う。
この下級妃の元には、今のままではお通りが再開することはなかろう。妃はお手付きになったことがあるためか、妙に堂々としているが、それが猫猫にとって逆に哀れに感じた。
お手付きになったことで、後宮の外へと出ることは遠のくのだ。
(せめて匂いが無ければ)
これだけの匂いを漂わせて、鼻がおかしくなっているのではと猫猫は思った。
いや、思い違いではなく、実際そのように見える。
小さな形の良い唇がよく開いている。癖というより空気を取り込むのに口を使っているようだ。
普通、生き物は鼻で呼吸する。犬や猫など鼻でする。人間も基本、そうできているのだが。
口で呼吸をするということは鼻が詰まっているのだろうか。幼い頃から口で息をする癖がついていると歯並びに影響する。
(歯並びは)
ちょうどおやじが口を開かせていた。歯並びは悪くない。どうやらおやじも猫猫と同じ考えらしい。
「くしゃみなど出ることは多いですか?」
「はい」
「鼻づまりは」
「春から初夏にかけて多いです。とくに後宮に来てからひどくなりました」
「寝苦しいことは」
「鼻がつまりさえしなければ眠れます」
さらさらと書きつけていく。
やぶがぼぅっと見ているだけなので、猫猫は薬箱をおやじに渡す。
おやじがとったのは鼻炎薬だ。
「これを使ってください。睡眠が阻害される場合は使用をやめること。また、小用が増えることがありますが、それは問題ないはずです」
あと、とおやじが付け加える。
「今使っている香はおそらく身体に合わないかと思います。使われるのでしたら、軽く焚くくらいにしておいたほうがいいでしょう。体調がよくなります」
「わかりました」
妃は鼻炎のことをわかってくれたのが良かったのか、素直に返事した。
猫猫が気付いたことなのだ、おやじがわからぬわけがない。さらに、「香がきつい」という指摘をやんわりとしてくれた。鼻づまりがなくなれば、自分がどれだけ臭かったかわかっただろうに。
妃の部屋を出ると、おやじは庭木を観察する。夏の色鮮やかな花が多く咲いている。
「さっきの妃の出身はどこだったかね」
「ずいぶん北西にいたみたいだね。砂漠に近いところで、気候も厳しかっただろうに」
帳面を開きながら、やぶ医者が言った。
おやじがゆっくり猫猫たちに振り返る。
「じゃあ、せっかくなので問題をだそうか。妃の鼻炎の原因はなんだと思うかい?」
優しく目を細めてなぞかけしてくる。猫猫は手を挙げようとしたが、おやじにじっと見られてゆっくり下ろした。質問をしている相手は猫猫ではなく姚と燕燕にだ。
ゆっくり手を挙げたのは姚だった。
「部屋が密閉していたからでしょうか?」
確かに閉め切っていた。だから匂いも消えず臭かった。
(それもある)
部屋は綺麗に見えたが、換気をちゃんとしていたかどうかわからない。寝室を見ていないが、もしかしたら埃っぽかったかもしれない。
「寝所が汚れていれば、虫がわき、身体に害を及ぼすからです」
確かにあり得なくはない。でも、猫猫は違う意見だ。
(あの妃は、主上のお通りを諦めているようには思えなかった)
そんな妃が寝所の手入れを怠るわけがない。きつすぎる香もある意味、身だしなみととれる。鼻が詰まっていて加減ができていなかったが。
猫猫は庭に生える草や木を見た。
(春から初夏にかけてひどい鼻炎)
しゃがみこみ、道端に生えている草をちぎる。蓬、猫猫がよくお灸のもぐさにつかっている草だ。どこにでもある草だが、妃の故郷では生えてなかったのだろう。
猫猫がつまらない顔をしていると、おやじが「仕方がない子だ」と言わんばかりに、猫猫がちぎった蓬をとった。
「妃の寝所は綺麗だよ。いつ主上が来ても問題ないように手入れしてあるはずだ。特に、一度でもお通りになったことがある場合はね」
不正解を言い渡されて、姚は不服な顔をする。
おやじはそれを上手く誉めて機嫌を取る。
「着眼点は良かったよ。不衛生な場所には病がつきものだ。特に、寝所は大切だからね」
褒められて満更でもなさそうな、でも宦官に褒められてもな、という表情が入り乱れている姚。
(私なら正解を答えるのに)
年下相手に大人げないが、猫猫にとっておやじは数少ない甘えられる人物なのだ。
「くしゃみの原因には、こういった草や花が関係している場合があるんだよ」
風邪とは違う。植物の花粉や胞子が身体の中に吸い込まれると、くしゃみが出て鼻水が止まらなくなることがある。
「花粉が身体の中で悪さをする。だから、くしゃみがでる」
おやじははっきりと言い切ったが、普段、猫猫に対してはこうは言わない。もっと違う理由があって身体に害を与えているのではないかと考えている。でも、この場では言い切ったほうが、二人にはわかりやすいだろう。姚と燕燕の他に、やぶ医者まで感心していた。
(いや、あんたは教えるほうだよ)
猫猫は心の声を喉元まで出かかって、押しとどめる。
「あの」
また手を挙げるのは姚だ。困ったところはあるが、勉強熱心なところは認めないといけない。
「花粉が身体に悪さをするとすれば、皆がくしゃみをしないといけないのでは?」
おやじはにっこり笑う。
「そうだね。でも、風邪をひく人とひかない人がいるように、花粉が身体に悪さをする人としない人がいるんだよ。それから、ある日突然、悪さをすることもある。たとえば、身体の調子が悪かったりするとね。遠いところから長旅でやってきて、新しい場所に住むときなんかね」
つまり、さっきの妃のことだ。
(わかっていたのに)
猫猫はむすっとなる。おやじは困った顔で猫猫を見る。
医官といえば偉そうで技術は自分で盗めとか言いそうだが、おやじは違う。ちゃんと誰にでも丁寧に教えるのだ。
ちょっと悔しいけれど、猫猫も大人だ。仕方なく、表情を戻して次の妃の場所へと向かう。
十人ほど妃を回ったあとで、最後にやってきたのが例の愛凛の棟だ。なんとなく、あの異国の女に妃とは言いづらい。異国人だからというわけではない。そんなことで差別をするようであれば、胡姫である玉葉后もまた同じなはずだ。
猫猫が愛凛を妃として見れないのは、妃という役割でこの後宮に入ったとは思わないからに過ぎない。
愛想良い模範的な侍女に扉を開けられ、前回と同じ部屋に通される。
中に入る前に、つんつんと燕燕に袖をつつかれる。
(はいはい、わかっていますよ)
猫猫は共犯だが、主犯は姚がやってくれるという。猫猫としては燕燕のほうが、臨機応変に対応できると思ったのだがそうはいかない。燕燕はあくまで姚を引き立てる役割なのだ。
さて、問題はいつ言い出すかだ。
わざわざ呼び出しただけに、熱っぽい顔をした愛凛がやってきた。演技なのか、本当なのかよくわからない。ただ、火照った頬は妙な色香がある。
(胸でけえな)
思わずわきわきと手が動いてしまう。体調が悪いということで寝間着に近い格好だ。侍女の一人が「はしたない」と言いたげに視線をちらちら見せていた。
「それでは脈拍をとります」
いくら色っぽい恰好をしても、ここにいる男には、大切なものがない。じじいとおっさんで、すでに枯れているので色仕掛けはきかない。
症状を見て、おやじが薬を用意する。首のあたりが凝っているようなので、葛を配合した薬だ。
横でうずうずしている姚を見る。やはり話しかける時機をつかみ損ねているようだ。このまま、何も話しかけないほうがいい。
しかし、そこを上手く補佐するのが出来のいい部下というものだ。
ぱりっと、診察中の部屋の中で小気味よい音が聞こえた。
卓に用意されてあった茶菓子、薄焼きの煎餅を食べる音だった。燕燕が無表情のまま、煎餅を食べていた。
「燕燕!」
姚が燕燕を叱責する。姚が口をだしたので、おやじもやぶも出る幕はない。しかし、普段の燕燕ならこんな無作法で奔放なことはしないだろう。
「申し訳ありません。とても美味しそうだったもので」
「別にいいですよ。そのために出しているのですかラ」
けだるげな顔をしたまま、愛凛が言った。
それを待っていたのか燕燕はちらりと姚に目配せする。姚はここでようやく意図に気付いたようだ。
「確かにおいしそうだわ。先日いただいた菓子もとても美味しかったです。とても変わった白いお菓子でした」
ちょっと変わった形をした饼干だが、白くはない。つまり、暗号が解けたと揶揄しているのだ。
愛凛は表情を変えず、代わりに侍女が不思議そうな顔をしている。饼干に紙切れが仕込まれていることを知らないのかもしれない。もしくは籤とでも言いくるめられたのだろうか。
「それは良かったです。実は菓子作りは趣味なのです。今日もありますのでよかったら持って帰ってください」
軽く笑みを作る愛凛。姚の言った意図を読み取ってくれたかどうか、表情では判断しづらい。どんな菓子をくれるかが見ものだ。