七、運命饼干 前編
梨花妃の次は、新しく中級妃になった砂欧の女だ。上級妃の宮は三つ余っているがどれも使われておらず、他の中級妃と同じく、一棟与えられている。場所は後宮の中央東より、特別扱いも何もないようだが、しばらく使われていなかった棟らしく、周りが少し殺風景だった。庭木は植えて間もなく、土が掘り返されたばかりの色だ。
出迎えてくれた侍女たちは、にこやかに笑って猫猫たちを中に入れる。数は五人ほど、中級妃としては多くも少なくもない。ただ、模範的過ぎる動きに、いかにも従順な侍女をあてがわれたという雰囲気が漂う。
「こんにちは」
やってきた金髪の新妃は、慣れないであろう大袖の服を着ていた。白く透けるような肌に空色の瞳、豊満な肢体、身長も大きい。ゆるやかに長椅子に横たわり、侍女がお茶を準備する様子を眺めている。
(帝の直球)
だろうが、立場上おいそれと手を出すとは思わない。いろいろ夜にはお元気な主上であるが、切れ者であると猫猫は知っている。男児が二人すくすくと育っている現在、慌てて子を増やす必要はない。ましてや、亡命目的の女が子を産めば、のちに外交問題の火種になるかもしれない。
(もう十分火種だけどね)
猫猫は西の地で、堂々と羅半に渡り合っていた女を見ている。今はしおらしく茶などしばいているが腹の内で何を考えているのかわからない。
横にいる侍女は、茶を毒見してまわりへと配る。
「後宮には慣れましたでしょうか」
おやじがゆっくりと話しかけた。流暢にこちらの言葉を使う愛凛だが、ゆっくり言われたほうが聞き取りやすいだろう。
「はい、皆様よくしてくださるもので」
長い指先で杯をとる。湯呑は取っ手のついた異国風のものだ。長い指先にはしっかり爪紅が塗られていた。茶の香りも甘い匂いがするので、西方の発酵茶だろう。ちょっと飲んでみたいが、おやじとやぶ医者の分しか用意されていない。
(水晶宮ではでていたんだけど)
そこのところは梨花妃が気を使ってくれたのだろう。
おやじが問診をし、妃の脈をとる。おやじが他の医官とは違うところは、数値にして書きつけるところだろうか。羅半ほどではないが、数字が明確に体調を表す指標として重く見ている。
卓の上に携帯用の筆記用具を広げ、さらさらと書きつける。
そこで気が付いたのは、普段と違う字だった。
(西方文字?)
一見、曲がりくねった蚯蚓のような文字だ。昔、おやじは医学に関することをこの文字で書き連ねていて、猫猫が必死に解読しようとするものだから、違う書き方に変えたのだ。
なんでまたそんなことを、と思ったが、必死にのぞき込む人間がちらほら。やぶ医者はまったくわからないとただいわれるがまま道具を差し出すだけ。侍女の一人が茶を新たに蒸らしながらちらりちらりとのぞき込んでいる。あともう一人。
燕燕が涼しい顔をして見ていた。
内容は大したことはない。猫猫にも多少は読める。脈は正常、健康状態よし、などそんな簡単な言葉だ。
「特に異常がありません」
「そうですカ」
普段、流暢な言葉だが語尾だけたまに奇妙な発音になる愛凛。猫猫のことを覚えているのだろうが、ちらりとたまにこちらを見る。
特に変わったこともなく、仕事を終えて帰ろうとすると、愛凛に呼び止められた。
「せっかくですので、お菓子をどうぞ」
きれいな布包みに焼き菓子が包まれていた。変わった形の饼干で香ばしい乳酪の匂いがした。もらったのは官女のみで、やぶ医者が物珍しい菓子をうらやましそうに見ていたので、医局に戻ったら少しわけてあげなくてはいけない。布包みは同じものをそろえられなかったのだろうか、燕燕だけ柄物だった。
残りの中級妃のところを回ったところで、もう夕刻近くになっていた。小食の猫猫だがさすがに腹がすく。やぶ医者をそそのかして、医局で茶を飲んではだめだろうかと考える。
「今日は中級妃だけだけど、次は下級妃、それから侍女とどんどん診ていかなくてはいけないからね」
優しい言葉でおやじが言った。以前は、中級妃までしか診ていなかったはずだ。そのうえ、やぶ医者の問診なので役に立っていたかもわからない。
おやじが医官として戻ってきて、手伝いの官女も増やす。おやじは年齢的にずっと見続けるわけにもいかないので、そのうち官女たちを主体としてやっていくつもりだろう。そのころには、今より後宮も縮小されてよりやりやすくなっているかもしれない。
「それではお暇しようかね」
「もう少しゆっくりしていってもいいんだよ」
「そうも行かないさ。次の仕事が残っているから」
やぶ医者が名残惜しそうに見ている。たまに宦官が来るくらいで茶飲み友達が少ないからだろう。猫猫の下女友達だった小蘭もいなくなったのでさみしいのだろう。
(どうしてるかなあ)
うまい具合に市井で就職先を決めた、愛嬌のいい娘を思い出す。そのうち、文でもだそうか。
もらったお菓子をほしがっていたので、少しわけようかと懐からだした。包みを取り出し菓子をつまもうとしたが、ふと猫猫は気が付いた。変わった形の饼干は、奇妙な筒状だった。その筒の中に何かが入っている。指先でつまみだすと、小さな紙が入っていた。それがどの菓子にも入っている。
(はて?)
猫猫はやぶ医者にあげようかと思った菓子をもう一度懐にしまうと、また後宮を出て行った。
がっかりしているやぶは見なかったことにした。
仕事も終わり、宿舎に戻ると猫猫はもらった菓子を出した。布を広げてその上に菓子を置く。饼干の数は七つ。そのどれにも大体同じ大きさの紙が入っていた。
(……なんだこりゃ)
蛇のような蚯蚓のような文字。おやじが書きなぐっていたものと同じ西の文字だが、文字であり言葉として連なっていない。猫猫が使う言葉と違い、西方の字は一文字では意味をなさない。いくつか文字を組み合わせて一つの単語を作るのだ。
しかし、ぶつ切れの文字を読み取れない。何か意味があるのだろうか。生憎、今ある紙きれをつなぎ合わせてもぴったり合わない。
(試しているな)
やはり曲者だ。単身後宮に入ってくるだけの肝っ玉の強さを持った女だ。
試されているとわかると、腹立たしいが、それ以上に解けないと悔しい。
猫猫は菓子と紙を並べる。紙に書かれてある文字数は、二文字から三文字。雑に切られているのかきれいな四角ではなく、斜めになっていたり歪んでいたりした。
「雑な切り方」
紙は菓子の油が染みついてところどころにじんでいた。いい紙を使っている。破けてはいない。
(いたずらにしても凝っている)
なにがやりたいのだろうか。紙を透かして見る。
首をかしげていると扉をとんとん叩く音が聞こえた。
誰だろうと紙きれを持ったまま出てみると、姚と燕燕が立っていた。二人も同じ宿舎に住んでいる。もちろん、猫猫と話すことはないのでいてもいなくても問題ないのだが。
「どうかしましたか?」
猫猫の問いかけにむすっとした姚が答える。
「あなた、昼に妃からお菓子をいただいたでしょ? あれを私に渡しなさい」
命令口調で言われた。不思議なものだ、甘いものにはさほど執着がない猫猫でもこんなやつにはやりたくないと思ってしまう。もちろん、この女が食い意地でほしがっているわけではないことは猫猫もわかっている。
なので少し意地悪することにした。
「申し訳ないのですが、夕餉の代わりにいただきました。西方風は少しぼそぼそした歯ざわりでしたね。胚芽か何か入れていたのでしょうか?」
わざと口の中に異物感があるように言ってみる。顔を真っ青にした姚が猫猫に詰め寄ってきた。
「はきなさい! はやくはきなさい!」
揺さぶられる。やはり、猫猫と同じように饼干に紙きれが挟まれていたようだ。
「残りは! まさか全部気づかずに食べたっていうの!」
「姚さま」
ぶんぶん猫猫の肩を揺らす姚を止めたのは、燕燕だ。
「猫猫さんの顔が笑っている気がします、どこか小莫迦にしたような表情なので、からかわれているのではないでしょうか」
燕燕は猫猫の名前を憶えていたらしい。ついでに、無表情といわれる猫猫の表情も読み取ってくれた。
「からかってって、本当なの!」
(ばれたか)
猫猫は襟を正しながら、姚を見る。
「確かに少々遊びましたが、礼儀を欠いているのはそちらのほうではないでしょうか? 私に何か恨みでもあるか知りませんが、いきなり他人の物を奪おうというのなら強盗となんらかわりがありませんよ」
猫猫が言っていることは正論だ。生意気と思われるだろうが、ここは譲れない。さすがにこれに反発することはなかった。
姚は大きく息を吸って吐くと、猫猫をまっすぐ見た。
「さっきの焼き菓子には、何か変わったことはなかった? あるのなら、渡してほしいの。代わりに菓子代を支払うわ」
「何か変わったことというと?」
「変わったことよ。変なものが入っていたとか」
お駄賃がもらえるなら悪くないが、猫猫としてもあの奇妙な紙の謎が気になる。おいそれと渡したくない。
向こうの焼き菓子にも何か入っていたのだろうか。しかし、猫猫に簡単に話すとは思えない。
ちらりと猫猫は燕燕を見る。あくまで姚に付き従う形の官女だが、彼女のほうはまだ冷静に猫猫を見てくれているようだ。
(こちらに振ってみるか)
猫猫はどう話を進めるか考えながら口を開く。
「私がもらった菓子に何が入っていたかと聞くのであれば、そちらにも何か入っていたということですよね? 教えていただけたら、こちらも情報を教えます」
「……」
姚としてはかなり不服といった顔だ。燕燕は、主人の動向をしっかり見ている。
猫猫は手に持っていた紙きれを出した。
「見せていただいたら、私もこれの残りを見せます」
紙に書かれていたのはそれぞれ違う文字だ。もし、なにか意味があるとすれば全部そろわないといけない。なので、一枚くらい見せてしまっていいだろう。
「他のは?」
「そちらが見せるのであれば、こちらも見せますよ」
あくまで猫猫と姚は対等だ。同じ試験を受けて、合格した以上、身分の差なんて関係ない。実際はそうではないと考える人も多いが、今、この場においては対等なのだ。
「姚さま」
「……わかったわ」
燕燕の言葉に、仕方なく頷く姚。
「ただ、廊下で立ち話というわけにはいかないわ」
「では、私の部屋で」
「いえ、私の部屋よ」
猫猫としてはどちらでもいいが、ここで簡単に向こうの言いなりになると主導権を握られそうだ。
「では、談話室を使ったらいかがでしょうか。今から借りてきますので」
平行線になるのを避けたのはやはり燕燕だった。宿舎には談話室があり、仕事の話など中でできるようになっている。密談なら確かにやりやすい。
「わかりました。準備してきます」
猫猫は了解すると部屋に戻った。