三、仕事初日
新しい薬師が見つかったことを話すと、左膳はひどく安堵した表情を見せた。
「また一人で留守番させられるよかずっといい」
そんな感想を言うので、猫猫としては「ここは俺一人でやっていける!」と啖呵を切ってもらいたいところだが、まあよしとしよう。
試験の後の数日は束の間の平穏な日々だった。いたれりつくせりだが、受験勉強以外何もやらされなかった半月間は苦痛以外の何物でもない。
猫猫は久しぶりに畑仕事をしたり、薬草を調合したりと満足だった。
数日後、おそらく合格通知だろうなと思いつつ届けられた文は、予想通りの代物だった。
「だいたいこれ落ちる奴がいるのかね」
猫猫にどんな試験問題が出たか聞いていたやり手婆が言った。
満点を取るのは難しいが、合格点は六割ほどとればいいらしい。詰め込みでやった猫猫ですら、自己採点で八割を超えていたので普段から官女になるべく勉強をしていた娘たちが落ちるわけがないだろう。医学の知識も、専門的なものは少なく、多少考えればわかるものばかりだ。
「それはわかる人が言う言葉だよ、おばば、猫猫」
にゅっと顔を出してきたのは、しどけない恰好をした白鈴だった。昨晩は、お客が来たためか肌艶がとてもいい。きっと客人は、帰るころには干物のように吸い取られたのだろう。三十路をとうに過ぎても衰えぬ美貌は房中術を極めたためとも噂される。緑青館の妓女の中で最年長だ。
「私なんて考えるだけで頭が痛くなるよ。一応、覚えようとするけどさ、まず頭に入り込まないんだよね」
人には向き不向きがある。努力をすればなんとかなるというのが普通であるが、中には努力という言葉では片付けられない物もある。
白鈴小姐は、文字という物を上手く書けない。書こうとすると鏡のように反対向きに書いてしまう。やり手婆が何度も直そうとしたが、まだ癖はなおらず仕方なく毎度誰かが添削や代筆をやっている。
代わりといってはなんだが、舞踏に関しては花街でも右に出る者はいない踊り手だ。
「これ、合格したのはいいけど、どうすればいいの? お勤めに行けるような服はあったっけ?」
「そこのところは、用意してくれるだろ」
猫猫は他力本願で特に準備をするつもりはない。試験日の前にも、高順からの使いが着ていく服と筆記用具一式を届けてくれたくらいだ。送り迎えもする気だったらしいが、なんだか面倒そうだったのでそれは無視した。おかげで、女装した克用と飯を食う羽目になったが。
合格通知には、一度面接を行うと書かれている。日付は明後日で場所は宮廷の一画だ。文とともに花の形の焼き印が押された木札がある。これが通行証がわりだろう。
猫猫はふうん、と合格通知を薬棚の上に置くと、薬研で薬草を潰し始めた。
翌々日、猫猫は指示された場所に来ていた。文官が多く勤める棟の前で、医局にも近い。
面接に集まった合格者は、受験した人数の八割ほどだろうか。合格率八割と聞けば、やはりこれで落ちなくてよかったと猫猫はほっとする。同時に、前回受けた試験で落ちたときの壬氏や高順の呆れっぷりについて今更納得したのだった。
年代は十五、六から二十くらいまでがほとんどだ。二十過ぎた女も何人かいるが、妙に目がぎらぎらしている気がする。理由としては、深く考えなくてもわかる。官女として、将来の旦那様を見つけるのだ。年が上に行くほど焦るというものである。
(母となるには二十をこえたくらいが理想だと思うのだがなあ)
十四、五で結婚して子を作るというのは、別におかしくはないが、身体がまだ出来上がっていない。人によっては初潮すらきていない場合もある。月経が安定するのは初潮が来て数年たった後、身体が十分成長するのも考えて、若すぎる結婚は良くない。
(骨盤がしっかりしていないと産みにくいしな)
猫猫は自分の腰に手を当てる。身体の成長はこれ以上望めないが、出産するとすればもう少し肉付きを良くしないといけない。産むという行為は死と隣り合わせでもある。
猫猫は一度くらい産んでおきたいと考えているが、それを気軽に口に出すことはできない。試しに産んでみたいなどと言ったら、人によっては莫迦にしていると思うだろう。
それと、もう一つ猫猫が考えていることを知られれば、怒鳴り散らされる可能性もある。
(立派な胎盤がとれない)
出産の際、赤子が生まれるとともに胎盤が剥がれ落ちる。その剥がれ落ちた胎盤は、一部地域では母親が滋養強壮のため食べるのだ。肝の刺身の味がして美味だという。もちろん、獣の肝は生で食べると虫がいる場合があるが、これなら安全だ。
猫猫はおやじから、「人間は絶対薬の材料になんてするな」と教えられている。変に興味がわかないように、死体にも触るなと言われている。
しかし、自分の胎盤ならどうだろうか。死体ではない。他人を材料にするわけでもない。元は自分の身体の一部だ。それをまた吸収して何が悪い。
つまり、猫猫にとっておやじとの約束を守りつつも、摂取したことがない未知の薬なのである。
絶対、生きているうちに必ずやろうと思う猫猫だ。
「こちらへ集まってきてください」
年配の官女が合格者たちを集める。その視線は鋭い。
服は決められたものを与えられているはずだが、幾人かはけっこう派手に改造している。孔雀は雄が派手に羽を広げるが、人は女が派手に着飾る。
猫猫は用意されたままの服を着ているだけで、これといって目立ったものではない。だが、なぜかちらちら見られている気がした。
(なんか変な着方をしたかな?)
皆と同じ、無地の襖裙だ。上は淡い桃色、下は赤。部署によって色が違うのか、猫猫と同じ色の服を着た合格者は五人もいない。医官の手伝いをするという新部署なので、珍しいのかもしれない。
違う点があるとすれば、飾り紐の色だろうか。猫猫のだけ少し色が濃い気がする。
深く考える必要はないかな、と年配官女に言われた通り集まって並ぼうとしたところ、後ろから何かがぶつかった。
いや、ぶつかったという衝撃ではなかった。猫猫は両手をつく間もないまま、地面につっぷした。凹凸に乏しい顔でよかったかもしれない。地面に顔面がぶつかり、まんべんなく砂がめり込んだ。
「……」
猫猫は顔を掌で払いながら立ち上がる。
「ごめんなさい」
優雅にほほ笑みながら歩いていくのは、猫猫と同じ色の着物を着た集団だった。
「大丈夫ですか?」
年配の官女が猫猫まで小走りでやってくる。
「問題ありません」
猫猫は何食わぬ顔で立ち上がる。
周りから何やら同情めいた視線が送られる。だが、猫猫にとってはそれはどうでもいいことだった。
ただ思うのは……。
(懐かしいなあ)
これぞ、女たちの職場。
久しぶりのお約束に対して、感慨に浸るのだった。