一、新しい役割
「お久しぶりです」
「お久しぶりです」
猫猫はこだまのように、目の前の人物に同じ言葉を返した。
のんべんだらりと花街の薬屋で薬を作っているところに現れたのは、元祖癒し系武官、高順である。本当に久しぶりだ。半年以上会っていなかった気がする。
「いえ、うちの愚息が本来来るはずでしたが、間抜けなことに先日怪我をしてしまい」
代わりに高順がやってきたというわけだ。
あの馬閃が大怪我ということは、かなりひどいのだろう。
「なぜ、そんな怪我を?」
「いえ、里樹妃を送る仕事についていたのですが、帰りは妙に浮足だっていたようで。ぼんやり馬に乗っているところ、派手な音が聞こえ、馬が驚いてしまい、振り落とされた挙句踏みつけられたようです」
「……けっこう冗談に思えない話ですが」
馬に踏まれたら確かに大怪我どころか、死んでもおかしくない。
「内臓が破裂してもおかしくない状況でしたが、少ない長所の一つにやたら丈夫というところがありますので」
なるほど、と猫猫は頷きながら抽斗を開ける。何か茶菓子があったはずだ。
「小猫、おかまいなく」
「そうですか? 昼前には無くなるという目抜き通りの饅頭ですが」
緑青館の妓女がくれたのだ。禿にやるつもりが、数が足りなかったため、喧嘩になるならという理由らしい。蒸した生地には黒糖が混ぜ込まれており、口にするとほんのり甘いのが特徴だ。
「……いただきます」
高順は見た目こそ渋い武人だが、なかなか甘いものには目がない。
猫猫は饅頭に合う茶を用意する。朝、茶を沸かしたものを井戸水で冷やしたものだ。暑い季節によく冷えた飲み物を出すのは、最高の贅沢だ。上客用だが、高順の名前を出すとやり手婆は惜しみもせずに出してくれた。
唇を軽くほころばせながら饅頭を食べる高順だが、何の用だろうか。世間話をするために来たわけではあるまい。猫猫がじっと見ると、高順は慌てて饅頭を頬張り、茶で流し込んだ。
「ええっと、本題といきますか」
「もう一個ありますので、どうぞ」
猫猫は自分の分の饅頭を差し出す。甘いものより酒が欲しい。気が利く高順がしばらくやってくるのであれば、そのうち饅頭が良い酒に変わって戻ってくるだろう。何より本題なんて聞きたくない。
饅頭をもう一個平らげて高順が咳払いをする。
「小猫、医官になるつもりはありませんか?」
「なれないでしょう」
女は医官になれない。それが今、この国の法律だ。
「質問の仕方を間違えました。医官と同じ権限を持った立場になるつもりはありませんか?」
「……」
医官と同じ、つまりあの部屋一杯にある薬が使い放題だということだ。一文字に結んでいるはずの唇がぷるぷると震える。高順はきらりと眼を輝かせる。
「さらには新薬を試すこともできます。薬を試す人間もちゃんといますよ」
「……」
頬がぴくぴく震える。口角が上がり始める。
(いや、だめだ。怪しい。絶対怪しい)
うまい話には罠がある。しかも持ってきた相手が高順ときた。美味しいだけとは限らない。
それに、この薬屋のこともある。薬屋見習いはいるが、猫猫が留守になればまた文句を言うだろう。一人前にはまだほど遠い。
(よし、ここは断るべき……)
とまあ、うまくいくはずもなく、高順に先手をうたれる。
何がと言えば。
「西から来た特使についてご存知でしょうか?」
猫猫は、ふむと記憶を探る。西、すなわち砂欧のことだろうか。砂欧の知り合いなんていないがあえてあげるとすれば、先日、数字莫迦こと羅半とともに行った会合であった女だろう。
羅半に無理難題を押し付けてきた、食糧問題か亡命か、なかなか肝がすわっている。
名前はなんと言っただろうか。金髪青目の大柄な美女だったのは憶えている。食糧問題については甘藷の栽培が上手くいくかが大きな鍵だ。
「愛凛という名前の女で、先日、新たに後宮の中級妃として入内しました」「……へっ?」
猫猫は間抜けな声を上げた。したたかな性格だと思ったが、やはりしたたかだった。確かに、ある意味後宮は安全かもしれない。内部のいさかいを考えなければ。
「もちろん一癖も二癖もあります。異国人ということで、後宮内の妃や女官たちの目も厳しい。その上、砂欧から下女の類は一切連れてきていない」
確かに立場を考えるとそれは妥当なことだろうが、いささか可哀想にも見えてくる。
「そこで私ですか?」
医官と同等の立場があれば、後宮内に入ることも容易い。
「本来なら侍女として入っていただきたいのですが」
高順の表情は複雑だ。
曲がりなりにも猫猫は昨年まで玉葉妃、いや玉葉后の毒見役をしていた。それを断り市井に、花街に戻ってきたわけで命令とはいえ他所の妃の侍女になるのは問題が多かろう。玉葉后自身もへそを曲げてしまうかもしれない。
「医官と同じ権限を持つということは、手伝いとして玉葉后と顔を合わせることもできます。かのかたは、そのことを話すと大変喜んでおりました」
「私はまだ承諾していないのですが」
すでに玉葉后に取り次いでいるとなれば。
「はい、ここに后からの推薦状が届いております」
何食わぬ顔で文を出す高順。
「壬氏さまからもいただいております」
もう一枚追加する高順。
「あと、主上からも」
「何故に……」
最後にこれまた立派な文を出されて猫猫は思わず後ずさった。
高順は眉間にしっかり皺を刻んだまま、ゆっくり目を瞑る。
「以前、宮廷で勤められるよう官女の資格をとるようにしましたよね」
「落ちましたけどね」
一時期、猫猫は壬氏の元で直接働いていた。その時、官女になるように言われて、大量の参考書を押し付けられた。
「ええ、簡単に受かると思っていました。薬や毒に関してはあれだけ勉強熱心で、尚且つ覚えもいいと」
「生憎、そんなことはありませんでしたけどね」
猫猫は別に他人より優れているわけではない。他人が覚えるべき、出来るべきことを削ることで、その分興味ある分野に割いているだけなのだ。
「小猫は興味がないことは覚えないのではなく、覚えづらいだけですよね? 実際、花街作法は一通り覚えていますし」
「あれは仕方なかったもので」
もう半ば木乃伊なのに、やり手婆はまだまだ元気だ。覚えなければ折檻を受けるし、飯も食わせてもらえない。おやじこと羅門に庇ってもらったが、弱弱しいおやじがやり手婆に勝てるわけがなかった。
ゆえに生きていくために、小姐たちに手伝ってもらいつつなんとか花街作法は覚えたわけだが。
「つまり、必要があれば覚えるというわけで。前は壬氏さまの命でも、まともに勉強する気がなかったようですが」
今あるのは三通の文。
壬氏、玉葉后、主上。
たとえ非公式であろうとも、仮にもこの国で逆らってはならぬ人、三名に睨まれているということである。
「なにがなんでも受かってもらわねばなりません」
「そ、そう言われても」
高順は薬屋の戸を大きく開く。外に置いてあったのか、大きな布包みを持ってきて、ずしんと猫猫の前に置いた。
「なにがなんでも」
高順の後ろには何故か折檻用の鞭を持ったやり手婆がいる。その懐には、銭袋が見えていた。すでに買収済みらしい。
(はかられた!)
「何が何でも今度こそ受かっていただきます」
高順は猫猫に言い切った。