十九、里樹妃の決断、馬閃の決断
捕らえられた者たちは合計で七人。その内、里樹妃の侍女が三人いた。
三人の侍女たちは後宮に入ったころより、里樹妃に仕えていた者たちだ。そして、今回その場にはいなかったとしても、残りの侍女たちもまた、念のため見張りをつけている。
里樹妃の傍にいるのは、ずっとついていた侍女頭ただ一人だ。
ぐっと、馬閃は拳を握りしめた。
上級妃でありながら、里樹妃の信頼できる配下は一人しかいなかったのだ。
そして、こうやって賊の手引きをしていたということは、まぎれもない事実である。
妃は震えながらも、捕縛された侍女たちを見ていた。
「ほいよ、結局旦那のほうが必要だったんじゃないですかね?」
これといって傷もなく事をすませた李白は、先ほど馬閃が渡した薬を返してきた。
「あの嬢ちゃん作ですかねえ。痛み止めも配合されているみたいだ」
自傷した手の傷は、さらしで巻かれてあった。
馬閃は指先で薬の残りをすくうと、頬の傷に擦り付けようとして、止まる。
先ほど、頬に触れた手ぬぐいの感触を思い出し、それが消えるような気がした。
「どうしたんです?」
「いや、何でもない」
馬閃は薬が付いた指先を懐紙になすりつけると、薬を懐に戻した。
そして、捕縛した男たちを見る。
「あいつらの目的はなんだ?」
李白を鋭い視線で見つめる馬閃。
「言わなきゃ駄目ですかね?」
「今更隠そうにも隠せないだろう」
「それもそうですな」
そう言うと、李白は賊が狙った荷馬車のほうを指し示す。
「ちらりと見るだけですよ。声を出さず見たらそのまま何もせずに戻ってこれますか?」
「……」
「これますか?」
強調するように言われると頷くしかない。
荷馬車の前には、先ほど倒れていたらしき下女の姿が見えた。切りつけられたらしくさらしを巻いた手足が痛々しいが、命に別状はないようだ。ぺこりと馬閃に頭を下げる。
一体なにがあるのだろう。
馬車の幌の中を覗く。
幌の中はさらに帳が張ってあり、めくりつつ奥を見る。
なにやら檻のような物がある。
獣を入れるような大きなもの、その下に動物の毛皮らしき敷物が敷いてあった。
檻なのに敷物、どこかちぐはぐな印象だ。どんな獣がそこにいるのだろう。
すると。
「あら? 私を助けてくださるの?」
女の声が聞こえた。
しどけなくか細い、庇護欲を誘うような。
真っ白な糸が見えた。それが檻の中に広がっている。
暗闇の中に鬼灯のような赤が二つ光っている。
「ここは少し狭いわ。広いところに出してもらえないかしら」
吸い込まれるような光を見て、馬閃は帳を閉めた。
「そういうことか」
馬閃は何とも言えない気分になった。
若い女がいた。獣のような檻の中に閉じ込められて。
もし、普段の馬閃であったら憤るような場面であろう。
しかし。
その非人道的なことをするだけの理由があった。
里樹妃がわざわざ離宮へと向かう理由、奇妙な護衛の配置、賊の目的がそこにあった。
「白娘々」
都を騒がせた女がいた。
「助けていただきありがとうございます」
再び礼を言うのは、里樹妃ではなく伝令の侍女だった。
妃は顔に紗をかぶり、離宮の中へと静かに入っていく。
後宮の花である者はそうそう素顔を外の男へとさらさない。
離宮というには質素な宮、迎える使用人たちも清貧な姿をしていた。
それに対して、宮を固める守りは厳重で、馬閃は見知った武官を数名見つけた。
こんな場所で妃の護衛など、周りから見れば左遷ともとらえられるかもしれない。なのに、不満な顔は一つも見られなかった。
そうだ、妃の護衛というのは仮のものであり、もっと大きな役割を彼らは与えられているのだ。
小さくなっていく妃の背を見て、走って引き留めたくなる。
思わず手が伸びそうになったとき、肩にぽんと重みがかかった。
「同情はいけませんよ。下った命ですので」
「なんのことだ」
馬閃は上がりかかった手を下ろすと、素知らぬふりをした。
「壬氏さまに言われているんですよ。腕は申し分ないんですけど、ちょいと感情的になるって」
「……私はそんなに頼りないだろうか」
ずっと幼少の頃より仕えてきた馬閃より、壬氏はこの男のほうを重用するのか、と醜い心が芽生える。
「頼りないとかではないと思いますけどねえ。要は適材適所ってやつで、こういうのでは一応年長な分、俺に分があるってとってくださいよ」
砕けた話し方だが、李白という男はそれほど不快感がない。
堅物と言われる馬閃よりもずっと柔らかい頭をしている。
「あの妃、これから祭事ということで、この宮に入るそうですがいつ帰るかもわからないんだそうですねえ」
「……祭事とは名ばかりだろう」
「ええ、尼寺というほうがふさわしい場所かと思いますね」
妃の他に白娘々を連れてきたのはそのためだ。
都にいると厄介だと二人の娘を同じ場所に閉じ込める、その行為にたとえ主上の命であろうと憤りを感じる。
「こんなことがあっていいものか……」
「……」
李白が無言のまま、じっと馬閃を見ている。
見て何か言いたげにしている。
「なんだ?」
「いえ、ええっと、言うべきかなって思ったんですが」
「はっきりしてくれ」
李白は唸ったまま、空を仰ぐと諦めたように息を吐いた。
「あの妃、今回の件、自分から提案したようです」
「……どういうことだ⁉」
不義の疑いで、こうしてほとぼりが冷めるまで離宮にいるのではなかったのか。
李白は宮の外壁にもたれかかって腕組みをする。
「さて、よくわかりませんが、元々、後宮の空気が合わない話は聞いてたんですけどねえ。自分の周りにあまりよくない侍女たちが集まっていたこともわかっていたようで、今回、祭事という形で移動することになったのも、いわば出家みたいなもんで」
「出家……」
過去に先帝の妃であったため一度出家した里樹妃だ。
「二度目の出家ともなると、もう外には出られないからと、主上が気を回したそうです」
確かに主上は里樹妃を娘のようにかわいがっていたと聞く。だからこそ、月の君への縁談の話も上がっていたのだろう。
「下賜の話もあったらしいですが、この様子だとお流れになったのかもしれないですね。卯の一族も本当なら黙っておくはずがないと思いますが、ここ最近大人しいようですし」
里樹妃の異母姉がおこした騒ぎ、そのため卯の一族は大きな口を叩けなくなっていた。
このまま里樹妃を上級妃のまましておく必要もない。ましてや、妃自身が望まないのであれば。
「……つまり、妃は自分で出家する道を選んだと」
「ついでに言えば、白娘々を輸送する偽装になることも承知の上ですね」
「……なんでまた」
聞いておきながら、馬閃はその答えをうすうす気づいていた。
父親の、家のためだろうか。
危険にさらされる可能性もあった。実際、さらされた。
侍女たちが裏切ったのは、出家に付き添わされることを足掻いたためだろうか。
いや、以前にも賊に襲われたことがあった。
その手引きも侍女たちが行ったとすれば。
里樹妃なりに考えて、最善の策が後宮の外へと出ることだったのかもしれない。
それが正解かどうかはわからない。
今後、里樹妃はこの重々しい離宮の外へ出られないかもしれない。
馬閃はずうんと重くなる。ふと気が付けば頬の傷に触れるか触れないところで指先が止まっていた。
「なんで、おまえはそんな裏事情に詳しいんだ? これも壬氏さまから聞いたことか?」
「いいえ。俺の本来の部署、軍師殿の部屋の近くにあるんですよ」
妙に呆れた顔で李白が言った。
噂好きの変人軍師は、果実水を持っては噂話をしにいたるところに現れて絡んでいく。
そういえば今回の護衛の采配も変人軍師のものだったはずだ。
「とりあえず、これにて俺たちの仕事が終わりですよ。それじゃあいけませんか?」
「終わりか」
馬閃は塀の向こうにいる妃が今、どうしているのだろうかと思った。
その様子を見て李白が苦笑いを浮かべる。
「相手が妓女なら、金を積む。値切るような真似をせず、精一杯相手の価値に銭を払う。それができるんですけどねえ」
「妓女の話は関係なかろう」
「旦那にとって妓女は妓女でしょうけど、俺にとっては最愛の人なんですよ」
李白は続ける。
「俺にとっては好きな女を手に入れる手段が金ですが、旦那にとっては何でしょうかね?」
「……」
「下賜される相手が一人とは決まってないんじゃないですか」
どこか発破をかけるような調子に、馬閃は居心地の悪さを感じていた。
「き、妃に対してそんな気持ちは。なにより妃が私のことなど」
「ないなら別にいいんでないですかね。ただ、妃はこの先ずっとこの離宮で尼生活を送るだけですから」
李白は鼻の頭をかく。
「自分のために功績を上げて、迎えに来てくれた男って、そりゃあもう恰好いいんでないですかねえ」
にへらっとどこかからかうように笑う李白に、思わず拳をふるいたくなった。
ふるいたくなると同時に酒の一つでもおごりたくなった。
心の臓がばくばくしている。
気が付けば、馬閃は門の正面に立っていた。
もう里樹妃の背中は見えない。
すうっと大きく息を吸う。
「手ぬぐいを! ありがとうございます!!」
衛兵たちが驚いている。
顔見知りの武官もだ。
実に恥ずかしい、馬閃らしくない行動だ。
でも、なにか、なにか言わなければならないと思った。
恰好をつけた気障な台詞は馬閃には言えない。
優しい女たちが喜ぶ言葉は見つからない。
ただ、実直に、まっすぐにしか進めない。
そんな不器用な性格だ。
顔を真っ赤にしながら、馬閃は背を向ける。
ここでの仕事は終わった。
信頼できる護衛たちがいるこの場所で、今後なにか起きても大丈夫だろう。
馬閃にできることは、捕まえた裏切者と暴漢たちの話を聞くことだ。
何が目的であったか調べ上げ、この離宮に住まう妃を安心させることだけだ。
そのために、馬閃は早く都に戻る必要があった。