十八、里樹妃の転機 後編
しゃらんしゃらんと鈴の音が鳴る。
耳障りだと馬閃は思った。
表向き、神事ということになっているので都を出るまでの間、妙な音楽を鳴らしながら歩く。
しかし、ここのところ花街に向かうことが多い馬閃はどうしてもその鈴の音が遊郭と結びついて仕方ないのだ。
もっと違う楽器はないだろうか。
口の悪いものなら花街と結びつけて、里樹妃を罵ることはないだろうか。
後宮に戻れないことを揶揄して、くだらない噂が回らないだろうか。
馬に乗ったまま、馬閃はそのまま考え込む。
列の真ん中に配置された馬車には、里樹妃がいる。
その後ろに、侍女たちや荷をのせた馬車がある。
馬閃の場所は妃の馬車の斜め前で、後ろには最近、月の君が重用している李白という男がいる。
気安い男で馬閃は何度か話しかけられたが、正直、今回はちとそんな余裕はなさそうだ。
本来ならば、こんなに護衛がつくことは無かろう。
馬閃とて、こうして護衛につくことはおかしい。馬閃は月の君の部下なのだ。
しかし、こうして妃の列に加わっている。あくまで臨時ということで、列を率いるのは別の者だ。身分から言えば馬閃のほうが上だが、そこのところは仕方ない。
馬閃は何かこの里樹妃を送る列に違和感を持っていた。
その証拠というのはなんだろうか、怪我などせぬ、いらぬと思っていた薬屋の娘がくれた包みを持っていることだ。
月の君が何か隠していることは分かっている。
馬閃とて、それを追及するほど、分不相応ではない。
きっと何か考えがあってのことかと思っている。
ゆえに、何が起こるかわからない状況でどう動くのか、それが大切だった。
離宮までは馬車で二日ほどの距離だ。
これといって天気も悪くない、むしろ日差しが強かったことのほうが問題か。
馬がばてないように休憩をはさみつつ、ゆっくりと妃を中心とした列は続いていた。
「今宵はあそこで宿だそうですよ」
話しかけてきたのは李白だった。
馬閃と違い李白は徒歩だった。がっしりとした身体は上背もあり、馬上の馬閃から見下ろす必要はなかった。
「他に村はないのだろうか?」
思わずそう口に出たのは、いかにもといった田舎の村で妃が泊まるにふさわしい宿泊施設は見られなかったからだ。貧相な掘っ立て小屋のような家々が並んでいる。
あまりに粗末すぎないだろうか。
「中間地点ともなると農村しかないようで。それにしてもひどい」
もう少しまともな道を通っていけばよかったと思う。これでは野営と変わらないだろう。
「馬車の中で寝泊まりですよ」
「……大丈夫なのか?」
確かに大きな馬車で、中の広さは小さな部屋くらいにはなろう。
「西へ旅に出たときと同じものだそうなので、問題ないとのことです」
李白はにかっと白い歯を見せる。
好漢というのはこのような男のことを言うのだろうか。李白は馬閃より七寸は大きい。よく日に焼けた肌にしっかりとした体躯。腰には剣をはいているが、得意な得物は六角棒と聞いた。
腕は立つのだろう。
そういえば手合わせはしたことがなかった。一度手合わせをしてもらったほうがいいか、などと考える。
しかし、妃が宿に泊まることもないというのなら、馬閃たちは野営である。
一晩くらいなら、別に問題はない。野犬の類が現れないよう、火を焚いておかねばならない。
「外だと、この季節虫が多いですねえ」
李白が顔をしかめた。
「蚊遣火になるようなものは、ここら辺にあるかなあ」
「蚊か」
確かにそれは嫌だ。
火を焚いたところで、まったく刺されないことはないだろう。
さっそく耳元でぷぅんと嫌な音がしたので叩いた。掌に白黒模様の痩せこけた蚊がくっついていた。
周りを見ると水田地帯で、ぼうふらなどたくさんわいているのだろう。
顔をしかめるしかなかった。
村につくと簡単に村人に挨拶をした。浅黒く焼けた肌の老人が迎えてくれた。
あくまで臨時の馬閃は軽く挨拶をするだけにとどまる。
朝早く出掛けるため、夜はさっさと眠ることにする。
火は村のかまどを借り、食事がふるまわれる。
食事に贅沢は言っていられない。温かい粥と焼けた肉が出ただけ、贅沢というものだろう。ただ、里樹妃のところにいる侍女たちはあからさまに文句をつけていた。
品がない。
仮にも上級妃に仕える身とあらば、礼儀というものを習うはずなのに、遠慮なく文句を言っている。そして、何をするかといえば、すぐに馬車に引きこもる。
はて、と馬閃は馬車に戻る侍女たちを見る。
「おかしいですよねえ」
さじをくわえてやってきたのは李白だった。粥を入れた茶碗の上にあぶり肉を無造作にのせている。
「妃の世話をするはずの女たちがなんで、違う馬車にこもりきりなんでしょうねえ?」
疑問をかけているように聞こえて、ただの嫌味だとわかる。
「ろくでもない話だ」
里樹妃はその生い立ちから、侍女から信望がないらしい。先帝の妃でありながら、今上の後宮にも入る。そのことが気に喰わないという。
「かわいそうに。あの侍女たちは自分の妃を立てて出世しようとか考えないもんかねえ」
李白という男に悪気がないのはわかった。しかし、馬閃は茶碗の粥を口にかきこみ、炙り肉を噛みちぎった。
「おや、もう食事は終わりで? 汁は飲まないんですか?」
「ああ。食べた気にならない。いるならやるぞ」
茶碗を片付け、馬を見に行く。
すでに飼い葉は与えてあった。馬閃は馬の鬣を整えた。
「なんだ、あの態度は」
里樹妃について噂を聞いたことはある。月の君、自分の主の妻となるかもしれない方だと調べたこともある。
しかし、その噂はあまりいいものは聞かなかった。
二人の帝に仕えようとするしたたかな女。
他の上級妃に比べて劣る。
所詮は成り上がりの娘。
馬閃は、一度見た里樹妃の顔を思い出す。
暴漢に震えているはかなげな娘だった。
触れるだけで折れそうな小さな身体であった。
後宮は花園だという。それは間違いない。ただ、華憐な花もあれば毒の花もある。
里樹妃はどんな花なのだろうか。
馬の背を撫でていると、妃の馬車から侍女が一人出てくるのが見えた。
「あの侍女だけだな」
妃の周りでまともに働く侍女は一人だけ。それが馬閃にもわかる。他の侍女たちは形だけでも取り繕おうと思わないのだろうか。
月の君が頭を悩ませる理由もわかる。後宮にいて宦官壬氏としてふるまわれていたとき、時折だが話すことがあった。普段は麗しい顔に憂いなどのせないのだが、馬閃の前では少しだけ崩れた顔を見せてくれる。
後宮を去った後もまた、まだまだ面倒ごとはあるようだ。
馬車から出てきた侍女は食器を下げていた。皿の中には遠目からでも、残しているのがわかる。口に合わなかったのだろうか、ほとんど食べていないようだ。
「無理もないか」
不貞の疑いをもたれたまま、こうして軟禁されるために離宮へと向かう。残さず食事を終えるほど、太い心は持たぬのだろう。
馬閃は耳障りな蚊の音を聞いて手で払う。
蚊遣りは準備できただろうか、と周りを見ていると、馬車から侍女が一人出てきた。
手には壺を持ち、煙が出ている。
蚊遣りだろうか。
それを里樹妃の馬車へと持っていく。
一応、さっき食事を持って行った侍女以外にも仕事らしきことはするらしい。ただ、蚊遣火を持ってくるだけであるが。
馬閃は鼻をすんっとさせる。蚊遣火というより香だろうか。独特の匂いがした。
馬閃は鬣を整えた馬を置いて、他の護衛たちがいる場所へと戻ることにした。
ほうほうと土鳩の鳴き声が聞こえる。
目が覚めたのは丑三つ時の頃だろうか。
見張りはどうしたのだろうか。
馬閃は、周りを見る。
「!?」
皆、仮の天幕に寝ているが、誰として起きている者はいない。
かがり火の煙がやけに濃く、涙が出てくる。
「おい」
近くの天幕に寝ていた衛兵の一人を揺さぶるが、まったく起きない。
どういうことだ。
馬閃は腰に剣をはき、天幕の隙間から様子を窺う。
村の民家には灯りはない。
かがり火だけがゆらゆらと揺れ、そこに羽虫が近づいては燃えていく。
長く伸びた影が動いていた。
影は馬車のほうから伸びている。
何かが起こっている。
そして、現状として馬閃がすべきことは、妃の護衛だ。
馬閃は音を立てないように天幕を出る。かがり火に影を照らし出されないように移動する。
馬車の周りには男が数人、里樹妃の馬車ではなく、侍女たちや荷物を積んだ馬車にいる。男たちは何やら侍女の一人と話しているようだ。
どうみても怪しい。
荷馬車のほうへと男たちが入る。
何があるというのだ。
馬閃が身を縮めて潜んでいると、何か気配を感じた。
思わず懐剣を取り出し、後ろへと放つ。
「っ、はは。ちと落ち着いてくれ」
両手を上げて降参するのは、李白だった。切っ先を首に突き付けられ、薄い皮一枚のところで刃が止まっている。
「俺一人じゃなくてよかった」
声を落として李白がいいながら、首についた赤い筋をつうっと指先でぬぐう。
「どういうことだ?」
「どういうことと言われても、最初からなんだか変だって思っただろ、この妃の祭事について」
李白の言葉に馬閃は頷く。よく見ると李白の手の甲が赤く汚れていた。
「夕飯に一服盛られていたみたいで。この通り、まだ頭がぼんやりしてます」
李白は手の甲を見せた。赤く汚れていたのは眠気を覚ますために自ら刃を突き付けたようだ。
「旦那が平気そうなのは、入っていたのは汁物でしょうかね」
「なるほど」
馬閃は汁物を飲まなかったのが偶然にも功を奏したようだ。
李白はしっかり汁物まで飲んでいたのだが、こうして目を覚ましたのは、あらかじめその予想がついていたからだろう。
「壬氏さまからの命か?」
「ご名答」
手をさすりながら李白が言った。
そのことに馬閃はぎゅっと心臓を握られたような気分になった。役割上、馬閃が知る必要がないこともある。だから、月の君が馬閃に黙っていることもわかるのだが、それを悔しく思うのはまだ未熟だからだろうか。
ちらっと馬閃は荷馬車を見る。
荷物しか置いていないはずの馬車になぜあのように人が集まってくる。
里樹妃を目的としているのではないのか。
「本命は別にあるということか」
「ご明察」
妃を連れた旅は擬態で、本命は荷馬車に。
「俺はあの荷馬車を守るように言われてたんですよ。俺の他にもう一人いたんだが、……ああ、可哀想に」
馬車の横に倒れ込んだ影を見る。下女のようだが、動いていない。この暗さでは生きているのか死んでいるのかわからない。
「あの荷馬車には何が?」
「それは俺の仕事ですよ、旦那」
李白が手の甲を舐めながら言った。
「複数を相手にするが」
「あの倍ならちとつらいですけど、問題ありませんよ」
あっけらかんと言ってくれる。
そして、李白は馬閃を見る。
「あなたの仕事はなんでしょうか?」
「……」
馬閃の仕事は里樹妃の護衛だ。
言われた仕事もこなせないようでは、信頼も何もあったものではない。
ぎゅっと馬閃は拳に力を入れる。そして、傷口を舐める李白を見る。
「これを使え」
懐から布包みを取り出すと血止めとさらしを投げつける。早速役に立つとは思わなかった。
「ありがとうございます」
好漢はにかっと笑うと、さらしを手に巻き付ける。
馬閃は布包みの残りを懐に入れると、里樹妃のいる馬車へと向かった。
「あなたが悪いのですよ」
馬車に近づくと、女の声が聞こえた。
かがり火に照らされた服を見る限り、里樹妃の侍女の一人だとわかる。
「分不相応に上級妃の位についていたのが。私はずっと不快で仕方ありませんでした」
妃の姿は見えない。
ただ、話しかけているということは、妃は眠っていないのだろうか、それとも侍女の独白だろうか。
ただわかることは、里樹妃は侍女に裏切られ、その手引きによって先ほどの者たちが入ったことがわかる。
なんということだ。
これなら、里樹妃が街中で暴漢に襲われた理由もわかる。妃の動向を知るものが内部にいたのだから。
馬閃は揺らめく影を見つめる。侍女の他にもう一つ見える。
香とかがり火の煙が漂う中で、独特の錆臭さをとらえる。
中はどうなっている。
妃は無事か。
馬閃は腰にはいた剣を見る。それをとると、そっと馬車の車輪の後ろに隠す。
懐剣を持ち、それから礫を拾う。剣につけていた玉飾りを帯に突っ込む。
深く息を吸い、大きく吐く。
音を立てず、ただ冷静に。
最優先事項は妃を守ることだ。
馬閃は馬車の入り口から死角になる場所に立つ。
礫を中へと向けて放つ。
かっ、からんからん。
馬車の床に礫が転がる音が響く。
「誰だ!」
男の声が一つ、それから大きく床がきしむ音。
侍女がびくりと反応して、小さくきしむ音。
男の声におびえるように「ひっ」と声が響き、体重が移動する音。
ほんの一瞬の間に、馬閃はそれらの音を全て聞き分けた。
足音と共に大きな影が馬閃の前に現れる。馬閃より三寸ほど大きい男、夜陰にまぎれるためか暗色の服を着ている。
しかし、その行動はあまりに拙い。
馬閃は男の顎にめがけて掌底をくらわす。男の口から唾液が飛び散る、しかし、その目は馬閃に向けられたままだ。
浅かったか。
短刀が目の前を横切った。
髪がはらりと落ちると同時に、前に踏み出す。
間髪入れず、今度はこめかみを狙う。
ずんと、二発の掌打を受けた男は白目をむき、倒れ込む。顎とこめかみ、どちらも脳を揺らすのに適した箇所だ。一発目は相手との身長差と馬車の段差の目測を間違った。
男の意識が飛んだのを確認しつつ、馬車へと乗り込む。
予想通り、そこにいたのは、里樹妃とその侍女頭。そして、罵っていた裏切者の侍女だった。
裏切者の口をおさえ、両手をからめとる。
「暴れるな、手荒な真似はしたくない」
声を殺して耳元で囁く。
震える女はそのまま頷く。
正直、暴れられるのは困る。
女に手を出すのは得意ではない馬閃だ、だからといってこのまま放置するわけにもいかない。
持ってきた飾り紐で女の両手を縛る。思わずきつく縛ってしまい、侍女が軽く声を上げる。悪いがそんなことで気を遣う余裕はなかった。
ちらりと、妃を見る。
妃は震えながら、何かしら口を開こうとしている。
怪我はないか、怖くなかったか。
月の君なら当たり前のように接することができるだろうに、馬閃はそれが出来ない。
ただ、少しでも妃には危険が及ばぬよう因子を排除することしかできない。
侍女を縛り上げ、気絶した男も捕縛し、妃の元へ行く。
妃の危険を排除することだけ、考えていればいい。
妃は何か震えながら懐から取り出した。
手ぬぐいのようだ。それを怯えながらも馬閃に差し出す。
怖がられるのは仕方ない。たとえ助けたとて、裏切者とは言え女をこうして縛り上げるような男だ。
こうして差し出される手ぬぐいを見て、何がやりたいのだろうか、と思ったがちょうど侍女の口をふさぐ物がなかった。
そのために差し出したのだろうか。
「ありがとうございます。ちょうどいい長さ……」
と受け取ろうとしたとき、手ぬぐいは馬閃の頬に当てられた。
「……?」
「ち、血が」
消え入りそうな声は蚊と間違えそうになった。
血、という言葉を聞いて、馬閃は頬に手を当てる。赤いぬるりとしたものが流れていた。薄皮一枚切っていた。先ほど、見切りそこなったらしい。
馬閃の悪いくせだ。痛みに鈍い、特にこういう状況のときは、まったく感じなくなる。
「……あっ、ありがとうございます……」
里樹妃は震えながら、声を絞り出した。
ぎゅうっと身体が締め付けられるような気持ちになり、馬閃はどうしようもなく緊張してきた。
今はそういう状況ではない。
なのに脈拍がどんどん早くなっていく。
「っつ!」
思わず口を押さえていた力が強かったらしい。顔を真っ青にする侍女がいた。
「こ、これを」
気を使って別に手ぬぐいを持ってきたのは、里樹妃についていたもう一人の侍女だった。
馬閃は手ぬぐいを裏切者の口に巻いた。
もう一人の男も縛り上げないと。
だが、馬閃の心臓は高鳴ったままで、男の腕がうっ血するほど強く縛り上げてしまった。