十七、里樹妃の転機 前編
世の中何がつながっているかわからない。
猫猫は人気絵師が描いた白い女の事が気になって仕方がなかった。
白娘々によく似たそれは、とても他人とは思えなかった。
(気のせいか、気のせいにしたい)
大体、白娘々はもう捕まったのだ。猫猫がこれ以上気に掛ける必要はない。
蝗の問題も壬氏たちが色々やっているし、甘藷という救荒作物もある。
そろそろ猫猫はなにも気にすることなく、ごく普通に薬屋として仕事をしてもおかしくないのだが。
何故か問題と言うものがやってくるので不思議でならない。
文が来たのは、絵師の食中毒騒ぎから十日も経たず、猫猫が西から帰って来てから二月たったか経ってないかの頃だった。
「ほうら、これ」
そっけない緑青館の妓女が渡してくれた。
猫猫が町に買い物に行っている間に、誰か使いの者が来たらしい。
文の送り主は書かれておらず、代わりに香が焚き染めてあった。こんな風流な真似をする猫猫の知り合いは限られる。
案の定、送り主は壬氏だったが、そこに書いてあることはあまり風流とは言えない内容だった。
『里樹妃が罰せられようとしている』
いきなりそんな文面を書かれていては、猫猫は目を丸くするより他なかった。
事の次第はこうだ。
里樹妃は、西へと向かった。妃としての役割を果たすためであったが、長期間、後宮を出るというのは色々と問題がある。たとえ、厳しく監視がされていたとしても後宮という花園を離れた時点で、あけすけな言い方をすれば他所の種が混ざる可能性が高まるということだ。
というわけで、里樹妃も都に戻って来て、すぐさま後宮に戻ることは出来ない。一応、けじめという形で、しばし後宮に入る前と同じ儀式を行う必要がある。
猫猫のような下働きの下女であれば、最低限の礼儀と、妊娠をしていないかという確認だけで比較的楽に後宮に入ることができる。
だが上級妃となれば、もっと面倒臭くなる。何やら儀式めいたことをするだけでなく、身を新たに清めるという意味で、廟にこもるらしい。
その期間はひと月ほどで、本来ならとうに終わっている時期なのだが。
「困ったことにな」
覆面をとった壬氏は疲れた顔をしていた。
薬屋では狭く締め切ると暑いので、またやり手婆に頼んで部屋を用意してもらっている。いつもなら二人きりでいるところだが、今日は部屋の隅に馬閃がいた。いつもの仏頂面で堅い姿勢で座っている。
(やりやすいような、やりづらいような)
壬氏と二人きりになると、妙に変に触れてこようとしてくるので困るが、ああやって監視がつくような形になると、猫猫も容易に足を崩せなくなる。
壬氏は壬氏で、馬閃を邪魔そうに見ているが、馬閃自体はじっと無言のまま座っている。
猫猫がなにかやらかさないかどうか監視しているのか。
いや、それとも。
壬氏がいう「困ったこと」に対して興味があるようだ。
「月の忌が来ないのだ」
「なるほど」
里樹妃が後宮に戻れない理由、それは月経が来ないからだという。
猫猫は心底納得した。
後宮とは、帝のためだけに作られた花園。そこにいる花たちは、帝との間に実を結ぶことを目的としている。
そんな中、長期後宮を離れていた妃の月の障りが来ないとなればいささか問題だ。
「里樹妃に限って、その手の不貞はないと思いますけど」
「それは分かっているが、一応なあ。このままだと、疑われる。そうでなくとも、後宮には戻れぬようになる」
後宮の仕組みを考えると、上級妃の仕事をやるには、ちゃんと子が産めるかという点も重要なところだ。冷たいかもしれないが、でなければ妃としての役割は果たせない、そんな場所である。
「年齢もまだお若いですし、普通に不順なのでは?」
「しかし、もう二月も来ぬわけで」
猫猫と壬氏が会話を続ける。
馬閃は、うつむき何故かぷるぷる震えている。
「血の巡りが悪そうですから、その手の薬を処方しますか? だめなら按摩も加えて。お通じも悪くなっていそうですし」
「ああ、よく聞くな。そのほうがいいが、問題は医官なのだ。後宮にはあの通り一人しかおらんでな」
「それなら、養父を使うといいかと思いますが」
「そうだなあ。それが一番無難だ」
なんとはなしに続ける会話の中、馬閃の顔が上がった。唇をぎざぎざに噛みしめ、真っ赤な顔をしている。
「じ、壬氏さま」
「どうした?」
麗しの貴人はこれといってなんでもない顔で、鬼灯のような馬閃を見る。
「ど、どうして、そんなに平気で話せるのですか……」
「何が平気だと?」
壬氏は不思議そうに首を傾げる。
猫猫は馬閃が言いたいことがわかった。
壬氏は長年後宮におり、女の中で仕事をしてきた。ある意味、女しかわからぬような話をしなければならなかったのは理解できる。
でも。
「普通の殿方は、女子の月のものに対して、堂々と語りませんから」
「……あっ」
「ついでに言うと――」
あそこまで詳しく堂々と言われたら。
(なんか気持ち悪い)
なんて言ってしまうとどうだろうか。確かに何も知らないよりは多少知っていてくれたほうが助かるが、わかりすぎるのも困る。
医者ではないのだから。
さすがに言ってはいけないと口を閉じてしまったが、壬氏は猫猫に詰め寄ってくる。
「おい、今何を言いかけた?」
「特に何もありませんが」
猫猫はそっぽを向くが壬氏がさらに詰め寄る。
「嘘を言うな。何を言いかけた」
「なんでもありませんから」
「正直に言え!」
「……」
しつこいので猫猫は半眼になっていた。
ここまで言われたら言うよりほかない。
そして、無駄に詰め寄られて言われたぶん、猫猫の表情も硬くなっていた。壬氏から逃げるため中腰になり、視線は壬氏より高くなっていた。
ゆえに、それらの偶然が重なったうえで、猫猫が言ったことは不可抗力と言える。
なのだが。
「気持ち悪い」
壬氏と馬閃の表情がかたまった。
もう一度言う、不可抗力だ。
たまたま壬氏を見下ろす形で、半眼のまま、言われた通り口にしただけであり、猫猫には他意はない。
だが。
小突いたら崩れ落ちそうなほど石のようにかたまった彼らを見て、猫猫はまた何かやってしまったのかと思うのだった。
数日後、今度の文は養父の羅門からだった。早速、壬氏が手配して、里樹妃の元に羅門を送ったらしい。
先日、壬氏が帰る時、やたら煤けた表情であったがちゃんと仕事はしてくれたようだ。
文の内容は、薬は飲ませたが、それ以上は何もできなかったとのこと。
文でかいつまんだことしか書いてないが、どうやら元宦官であろうと触診といったことを侍女たちが許さなかったらしい。
ここで言う侍女というのは、侍女頭ではなくそれ以外の偉そうな侍女たちのことだろう。
(さっさと終わらせたらいいのに)
一番手っ取り早いのは生娘かどうか確認することだ。
里樹妃はまだ帝と夜伽をすませたことはないはずなので、生娘だと判明すれば少なくとも不貞の容疑だけは晴れよう。
しかし、その判別方法を考えると、さすがに宦官相手であっても抵抗があるものだ。
誰か助産婦かなにかを連れてきて頼むという手もあるが、里樹妃のことだからそれでも気絶してしまいそうだ。
とりあえず、里樹妃の月経不順は長旅による疲れが大きいはずなのでゆっくり休み、血行を良くしていればそのうち治ると思っていた。
思っていたのだが。
里樹妃が軟禁されることになったのは、そのさらに五日後のことだった。
結局、薬の類は役に立たず不順のままだったらしい。それで軟禁とはまた可哀想なことであるが、どうしてこうなったのだろうというのは、色々上にも考えがあると思う。
しかし、納得がいかない、と突っ走る人間はいるもので、猫猫の薬屋には客人が来ていた。
「納得がいかない」
口を曲げ、眉間にしわを寄せているのは馬閃だ。
(納得がいかないのはわからなくもない)
だが、なぜ猫猫のところに来るのだろう。これは完全に営業妨害だ。
「なぜこうなるのか!」
文句を言いつつも、ちらちらと薬屋の外を窺っているのは、白鈴小姐を恐れてのことかもしれない。まだまだ、大切なものは取っている男、馬閃二十歳だ。
「そんなこと私に言われましても」
「壬氏さまもなぜ、あのような仕打ちに対して黙っていられるのか」
(話聞けよ)
猫猫は半眼で馬閃を見る。いっそ、やり手婆呼んで妓女を集め、疑似後宮体験をやってもらおうかと考える。後宮を嫌と言うほど知っている猫猫なら反吐が出るが、知らないお金持ちたちからするとまるで桃源郷のような楽園だと思うらしい。やり手婆は調子にのって『後宮帰りの技術をお見せします』の触れ込みで金をせしめているようである。
もちろん、後宮帰りというのは猫猫のことだが、これについてはほとんど手に触れていない。
一度だけ、
「どーだい?」
「いいんじゃね?」
のやり取りをしただけだが、それでよいとはまた気楽なものである。
実際、後宮を再現しようものなら、真っ先に浮かぶのが宦官なのでそれをどうするかは完全に省いてある。要は客の望むものをつくれば、本物がどうであれ関係ないのだ。
さて、話を戻す。
「それで、馬閃さまはどうなさりたいんですか?」
「ど、どうと……?」
いきなり尻すぼむ。まだ、何をこうしろ、こうすべきだ、という話に対して助言や後押しするのならわかるが、何がしたいのかわからずただ愚痴っているだけでは意味がない。
ふと、ここで猫猫は少し馬閃に言いたかったことを口にすることにした。
「馬閃さまが里樹妃さまの肩を持つのは何か理由があるのですか?」
「……それは」
答えは猫猫も分かっている。だが、あえて口にした。
「馬閃さまは壬氏さまのお付きですので、特定の妃に対して肩入れすることは、壬氏さまのためになることなのでしょうか?」
里樹妃が壬氏に下賜される云々の件は、卯の一族のごたごたでなくなったかと思った。正直、元々乗り気ではなかったこともあり、壬氏も今更里樹妃を妻にしようなどと考えているとは思わなかったのに。
なのに、馬閃だけは里樹妃について考えている。
その理由は。
(私情だな)
馬閃は生まれや育ちを考えると異常と言えるくらい初心な男だ。女の一つでも知っていておかしくないし、上流階級の者であれば教育の一環として教わっていることだろう。
(高順は何をしていたのだろう?)
壬氏に付きっきりだったため、実の息子の教育には手を抜いたのだろうか。一度思い立ったら信じ込む性格のようなので、こういうのが深みにはまると実に危険だ。
危険だというのに。
(しかも相手が里樹妃か)
茨の道しか見えない。
もっと気軽に遊んだほうがいい、どうだ、緑青館の妓女はいい娘そろっているよ、と営業すべきだろうか。
無駄とわかりつつ、猫猫は一応念を押しておくしかない。
「あまり特定の妃に感情を持つのはよろしくない。それを踏まえた上での行動ですか?」
「……わかっている」
少し苦々しい顔をして、うつむいた。
このまま帰ってもらって猫猫が聞かなかったことにする手もある。だが、それで結局問題が起きて壬氏が猫猫の元に来ても困る。
ということで、話だけは聞いておく。
「それで、里樹妃さまはどうなるのですか?」
「都から出て北部にある離宮へと移される」
「都の外ですか」
後宮どころか宮廷外か、と猫猫は思う。
都から出るとあらば、どんなに言いつくろおうとも里樹妃がなにかやらかしたと思われるだろう。
「明日、移動するのだが」
「……そんなことを口にしてもいいのですか?」
「おまえはべらべら話すのか?」
「いえ」
そういうつもりはないが、ちと機密を簡単に口にするのは変だと思った。
「普段なら話さない」
馬閃もさすがにそれくらいわきまえているらしい。
「暗黙の了解という形で、里樹妃は離宮の廟へと移る。地鎮祭のためだと表向きにはなっている」
表向き、なんだか引っ掛かる。
しかし、これ以上は猫猫が突っ込む余地はない。
「馬閃さま」
「なんだ?」
馬閃は堅い表情のまま猫猫を見る。
「里樹妃が向かう際、どなたか同行されますか?」
「……そういえば、李白とかいう壬氏さまが最近重用している男をつけると言っていたか。あとは、軍師殿推薦の者たちが」
軍師と聞いて猫猫の顔が引きつりそうになったが我慢する。
(李白か)
大型犬のような男であるが、腕は立つし、頭も悪くない。機転が利く男だ。
片眼鏡の変人軍師も、当人はからっきしだが、人選に対して間違いは無かろう。
やはり妙に引っかかる。
「馬閃さまは?」
「……珍しいことに私もだ」
ふむとこれは猫猫も頷くしかない。
(なにかあるのか)
そうなれば、猫猫が出来ることは。
棚の中から、あれこれとさらしやら薬やらを取り出す。
それをいくつかまとめ、小さな包みを作る。いつも猫猫が懐に入れている救急道具のさらに簡易版だ。
「邪魔にならなければ、どうぞ」
「なんだ、これは?」
「簡単な怪我を処置する道具です。痛み止めやさらしなど。あと小腹がすいたときのために、飴をいくつか」
「子どもか、私は」
馬閃は顔をゆがめるが、猫猫は押し付ける。
「邪魔になる物でもありませんので、どうぞ」
「……仕方ない」
面倒くさそうに懐に入れる。
別に使わなかったらそれでいいし、勿体ないが捨ててしまえば終わる物だ。
ただ、猫猫の勘は妙にあたることだけは思い出しておきたい。
「里樹妃の護衛を頼みます」
「そんなことわかっている」
特に何も解決していないのだが、馬閃はとりあえず帰ってくれた。
ふうっと猫猫は大きく息を吐く。とりあえず誰かに愚痴らずにいられなかったのだろう。
(面倒くさい部下がいるもんだねえ)
猫猫はそう思いながら、空になった湯飲みを片付けた。