十六、傷んだおやき
連れてこられた先は、都の中央に位置する住宅街だ。都は基本、北に行くほど治安がよく、そのあたりは中流階級の家が並んでいる。
その中で、一軒古びた家があった。もとはそこそこ大きな家なのだが、屋根には欠けてくすんだ瓦、土壁はところどころ砕けて竹の骨組みが見えていた。
玄関のところには、何度か見たことがある男が立っている。趙迂の監視をする男で、表向き猫猫とは面識がないふりをする。
猫猫は荒れた家に入る。
(おおっ!?)
外は荒れ放題だった家だが、中は意外ときれいにされていた。だが、驚くのはそこではない。
壁が白く塗りつぶされている。漆喰で固められたその上に、絵が描かれていた。
壁一面に桃園が広がっている。その桃をかじるのは、三人の武人たちというわけではなく、美しい娘だ。まさに桃のような輪郭に、射干玉のような黒い髪、白い歯がのぞくその唇は桜桃のようにみずみずしい。
まさに桃源郷の仙女がそこに描かれていた。
美人画が得意と聞いていたが、ここまで見事なものを描いているとは思わなかった。
猫猫は壁をじっとみる。絵具が塗られた表面は独特の光沢がある。猫猫のよく知る絵画とは少し種類が違う。
じっくり観察しようとすると、ばたばたと足音が響いた。
「おい、そばかす! 何やってる! 早く見てくれよ」
真っ青な顔をした趙迂がやってきた。
(いかんいかん)
気になったら、そちらへと興味がうつってしまうのは猫猫の悪い癖だ。猫猫は趙迂に引っ張られて家の奥へと入っていく。そこは、居間のようだが周りには顔料らしき色とりどりの粉や、なぜか卵の殻、それと漆喰らしき白い粉とそれを練るためのこてがいたるところに転がっていた。
部屋の中央には、長椅子が置かれ、そこに男が一人横たわっている。その隣にはもう一人男がいて、心配そうに見ていた。横たわった男は無精ひげのやせ形で、顔色が真っ青を通り越して白く見える。指先だけは絵具かなにかで汚れていた。そのそばに立つ男は、こざっぱりした格好をしていたが、その手は横たわる男と同じくくすんで汚れていた。
「老師を見てくれよ」
老師というには若いが、これが例の新進気鋭の画家だろう。長椅子の横には桶があって、そこに吐しゃ物が入っていた。
猫猫は男を見る。手足が痙攣している。目を開いて瞳孔を見たり、脈をとる。
見る限り、食中毒の類だろうか。
「症状は?」
「なんかずっと吐いたり、下痢してた」
「それからずっと苦しそうにして、寒そうだったので寝かせておいたんだが」
趙迂に付け加えるように立っていた男が言った。
「この人は?」
「老師の仕事仲間だよ! それより早く早く!」
早くと言われても、猫猫にできることは限られる。毒がどんなものかわからないのであれば、何を処方したらいいのかわからない。
ただ、男は下痢と嘔吐を繰り返しているのであれば確実に足りないものがある。
「趙迂。水と塩と砂糖持ってこい。この家になければ、他所からもらってこい」
猫猫は懐から銭袋を趙迂に投げてよこす。趙迂は「わかった」と走って家を出た。
「台所借りますね」
猫猫は奥へと入る。
水がめをのぞき込み、その水が悪くなっていないか確認する。本当なら煮沸したいところだが、そんな時間はないだろう。
「これは生水ですか?」
「昨日、水屋で買ってたから大丈夫なはずだ」
買った水なら大丈夫だろう。生水を飲んで腹を下した可能性は薄いと考える。もちろん、ちゃんとした水だった場合だが、猫猫がすくって舐めた限り変なにおいや味はしなかった。
家の外見はぼろぼろだったが、水を買える程度には裕福らしい。
猫猫は同業者という男を見る。
「これはどういう理由でなったか、説明できますか?」
「ああ」
男はうろたえつつも、猫猫に椅子を持ってきた。
そして、ぽつぽつと話し出す。
「こいつの悪い癖で、傷んだものを平気で食べるんだ。たぶん、それが原因だと思う」
やはり想像通り食中毒だったようだ。
「餡餅があったんで、それを食べたんだ。傷んでるようだから、俺たちは食べなかったけど、こいつは焼けば食えるって、食べちまった」
もちろん傷んでいたわけだ。
古くなった食べ物は焼けばもとにもどるわけじゃない。食べ物が傷んでできた毒はそのまま残るものだってある。
「ったく、どうするんだよ。もう作品を作っても間に合わないぞ」
男は壁にかけられた大きな板に触れた。
板は白く塗られており、そこにうっすらと女の絵が描かれていた。まだ、これからどんどん色を塗り重ねていくのだろう。色が鮮明になるにつれ、女の絵はまるで生きているように見えるに違いない。
「十日後までに仕上げるとか言っておきながら」
(十日後?)
なにか締め切りでもあるのだろうか。
「ただいま!」
趙迂が帰ってきた。
猫猫は趙迂が持ってきた塩と砂糖を受け取る。
準備しておいた水の中に、塩と砂糖を入れる。それをかき混ぜて手荷物の中から綿を取り出しそれを濡らす。
男の口を濡らすように吸わせる。何度も吸わせて水分を補給する。
体は温めればいいのか、熱を放出させればいいのか悩むところだ。とりあえず、着の身着のままのような汚い恰好では汗を吸いきれない。汗を吸い取る綿の着物を準備し着替えさせた。
長椅子に寝かせているのも大変なので、ちゃんとした寝床を準備したり、腹痛の薬を準備したりした。
その最中、さらに二回ほど吐いたが、特に吐くものはなく胃液の酸っぱい臭いだけが部屋に充満した。
汗を拭きつつ、繰り返し水分補給をしていたおかげだろうか、夜になるころには落ち着いてきて痙攣もおさまった。
そのころには、猫猫も趙迂も同業者の男もへろへろになっていた。この家は、画材以外は何もなく、寝床一つまともにしようと思うだけで近所の手を借りなくてはいけなかった。
疲れた猫猫と趙迂は別の部屋から持ってきた椅子に体を預けていた。ここの家主が寝ていた長椅子は空いているが、正直、きれいに洗わないと使えない状況になっている。
「そばかすー。助かるのかー?」
「たぶんな」
断言はできない。おそらく、もうすぐ意識を取り戻すだろう。ただ、しばらくは動かずに消化の良いものを食べてもらわなくてはいけない。
重湯を作ろうにも、米すらまともにないので調達しておかなくてはいけない。ちゃんとした鍋もない。
「米と土鍋、うちからとってくる」
空気を読んだ男が家を出て行った。疲れているのに大変だ。ここの家主とはそんなに仲がいいのだろうか。
「普段、何食べているんだ、この家の主は」
猫猫が一人ごちると、趙迂が返事をする。
「老師はいつも屋台で買い食いしてるか、ご近所からもらっているみたいだぞ。今日のは餡餅だったな」
「ふーん、じゃあ、今回食べたものもそれか?」
猫猫が聞くと、趙迂の顔が見事に歪んだ。
「どうした?」
「いや、今日食べたの思い出したんだ。おれもあのおいちゃんも老師と一緒に餡餅食べたんだ。まずくてすぐ吐き出したけど。でも、最初から変だと思ったよ」
なにが変かといえば、老師とやらが「こんなもん、うちにあったっけ?」と、卓の上に置いてある餡餅を見て言ったそうだ。確かにその点でまず不安なのだが、それを家に来ていたあの男と趙迂にすすめたという。
「とりあえずなんかあったらふるまってくれるのはうれしいんだけど、食べていいか微妙なもんが多いんだよね」
趙迂も呆れている。芸術家というのは、変人が多いと聞くが本当のことのようだ。
猫猫はひじ掛けに肘を立て、頬杖をつく。
「よくもまあ、そんなもん口にしたな」
「だって、おいちゃんも食うって言ったし、見た目は美味そうだったんだよ」
趙迂は食い意地がはっているので、食べられるものなら口にする。
「だけど、餡が悪くなってたみたいですげえ苦かったんだ」
「……苦かった?」
「うん、まずくてうえって吐き出した。おいちゃんも吐いてたなあ」
(苦い、見た目はおいしそうだった?)
猫猫は腕を組み、首を傾げる。
「なあ、苦かったのか? 酸っぱいじゃなくて」
「苦かったよ。酸っぱいとは思わなかったなあ」
「じゃあ、その餡に変なにおいとかもしなかったか?」
「してたらたぶん食べてないよ」
趙迂は履を脱いで足をぶらぶらさせている。窓を開けて部屋の換気をしているが、どこか蒸し暑い。外も暗くなってきたので、そこらへんに落ちていた洋灯に火をつける。絵具といい、老師とやらは渡来物が好きなのだろうか。ここらへんでは珍しい照明器具だが、使うのは魚油なので臭いは嗅ぎなれたものだ。最近、毛毛が油を舐めるので困る。
「中の餡は糸とか引いてなかったか、粘ついてなかったか?」
「粘つく? そういえば……」
思い当たることがあったようだ。
「ちょっとぬめって感じがしたかも。苦くてすぐ吐いたからよくわかんないけど。おいちゃんが腐ってるって言って、早く吐きだせって言ったんだ。そのあとすぐ口の中をゆすいで飲み込まなかった」
猫猫はおかしいと首を傾げる。
「じゃあ、お前が食べた残りはどうした?」
「捨てたよ。外にごみ箱あるからそこに捨てた。老師はもったいないって怒ってたけど」
猫猫はそれを聞くなり、洋灯を持って家を出る。そして、そとに設置してある木箱を見る。
ぷうんと嫌な臭いを放つ箱の中には、まだ生ごみが入っていた。その一番上に欠けた餡餅が二つあった。まだ、豚の飼料用に回収される前でよかった。
「うわっ! なにやってんだ! きたねえ!」
趙迂が生ごみをあさる猫猫を見て言った。猫猫はそんなものは知らぬと、素手で汚れた餡餅を手にすると中を割る。豚肉をつぶしたものに数種類の野菜が練りこまれていた。そして、中に何が入っているかほぐして調べる。
「……そばかす。生ごみあさりながら、笑うなよ。すごく怖いよ」
気が付けば笑っていたらしい。
猫猫が笑う、つまりそういうことだ。
「これ、老師とやらは焼いて食べたのか」
「うん、味音痴だよ、絶対。こんなに苦いのが、焼いて消えるわけないのに、美味い美味いって」
さらに確信が深まる。
「なあ、お前のいうおいちゃんって奴は、今日、何しに来ていたんだ?」
「……たぶん、老師を止めに来たんじゃないのかな。老師、次の仕事が終わったらすぐ旅に出るとか言ってたし」
趙迂は少し残念そうにうつむいた。
「旅?」
「なんか昔、西のほうで絵の勉強してたんだって。そのとき見かけた美人が忘れられなくて、今も女のひとばかり絵を描いてるって言ってた」
(西?)
確かに、洋灯といい、絵具といい、異国の匂いを感じさせるものが多い。
「おいちゃんは二十年も前に見た人が今もいるわけないっていってるんだけど、どうしても会いたいって言ってさ」
二十年という歳月は大きい、どんな美女でも老化は妨げられない。そんなものがないとすれば、それは仙女か妖かのどちらだろう。
「なっ、なにをしている!」
噂をすれば、ということで米と鍋を持ってきた男が帰ってきた。
暗い中、生ごみまみれになった猫猫は異常だろう。しかも、顔半分はにやけている。
猫猫は、生ごみを両手に持ったまま、男に笑いかける。
そして、趙迂を見る。
「趙迂、お前はもう帰れ。そろそろ、男衆が迎えに来るはずだ」
いろいろ気遣ってくれる右叫が、暗くなったら迎えに来るのは予想がつく。右叫が仕事なら、他の誰かに頼むだろう。
「いきなりなんだよ」
「おまえ、もう疲れてるだろ。誰か迎えに来るまで、寝ておけ」
「……そばかすこそ、手洗えよ」
反論してこない。つまり眠いのだ。
あくびをしながら家に入っていく。
「なにをしていたんだ?」
引いていた男が猫猫を見る。いや、その両手に持っている生ごみを見ている。
「手を洗ってから、少しお話をいいですか?」
猫猫は生ごみを置くと、井戸へと向かった。
猫猫と男は台所の椅子に座った。
隣の部屋では、趙迂と老師が眠っている。
「話したいこととは?」
「毒茸には詳しいですか?」
「……なにを藪から棒に」
男の視線が猫猫からそれた。
変だと思ったことがいくつかあった。
腐ったというと普通酸っぱいものを連想する。確かに腐ることで苦味を感じるものがあるかもしれないが、それで「腐っている」と断言できるのだろうかと。
吐き出すほどの苦味のものが、なぜ老師は平気だったのか。
そして、まず餡餅はどこから来たのか。
「知っていますか? 茸の中には、生だと苦味があるけど、加熱すればそれがなくなるというものがあります。しかも、毒のある茸で、この季節にはよく食中毒を起こすんです」
食用の茸に間違えられることが多い茸だ。表面が少しぬめっとしている。趙迂の証言とも合うし、実際、餡餅の中にそれらしき茸が含まれていた。
屋台で買ったものであれば、そんなもの街中ですでに騒ぎになっているだろう。
ご近所でもらったものであったら、どうかといえば腹痛で倒れたなどそれらしき話も聞かない。もしそんなことがあれば、この家にも知らせてくれるだろう。
そうなると。
「誰が餡餅を持ってきたんでしょうか?」
猫猫はいたるところに描かれた壁の絵を見る。どれも美しい仙女のような美女だ。それぞれ誰かを規範にしているのだろう、それぞれどこか個性が見える。
今、とりかかっている仕事の締め切りは近い。それが終わったら西へ旅に行くと言っていた老師。それを止めようとしていたこの男。
同業者というが、この男にはいわゆる芸術家という空気は薄い。
「何が言いたいんだ? ただの食中毒だろ」
「ええ、食中毒ですね。茸が原因の」
餡餅は傷んでいない。ただ、最初から毒が入れられていただけだ。
「……思った以上に強い毒だったんだな」
男は素直な性格だった。それは認めたと言っていい発言だった。
猫猫はそれで少しほっとする。これで逆上する性格だったらどうしようかと思った。もっとも、猫猫になにかあれば、きっと趙迂を監視している誰かがなにかをしてくれると思っていたのだけれど。
「ここの絵はどれも素晴らしいですね」
猫猫は壁画に目を細める。この中に某麗人がいたら、違和感なく溶け込むだろうなあと関係ないことが思い浮かんだ。
「囲いたがる商人がいるくらいですから、依頼の絵を仕上げたらたいそうお金がもらえるんでしょうね」
「仕上げられなかったら、それまで他所には出してくれないさ」
「西方へと旅するのであれば、元手も必要ですが、なにより信頼できる同行者が必要ですね」
「ああ、半年前から話をつけていた。これを逃したら次は何か月後になるかわからなかったからな」
男がしたかったのは、老師を食中毒にすること。それが原因で納期を遅らせることだった。
西への旅、それを白紙に戻すことだった。
「ああ、もう最悪だ。本当に死ぬかと思ったよ」
頭を抱えながら「死なないでくれよ」と言っている。
「もっと穏便な毒はなかったのですか?」
穏便な毒というのも変だがそうだと猫猫は思う。
「あいつの腹は鉄よりも頑丈なんだよ」
なんでも焼けば食えるという考えは、鋼の胃袋を作り上げたらしい。
だから、食中毒に見せかけるために、わざわざ趙迂を利用した。第三者に傷んだ餡餅を認識させたうえで、腹を壊したのならただの食中毒としか思わないだろうと。
猫猫はあきれる。
「それなら、話をすればよかったのでは?」
「話なんてもの、もう何度もしたよ」
男は絵描きというが、実際は、老師の絵の手伝いをしているに過ぎないらしい。絵具を調合したり、画材を買い付けたり、そして、絵を買ってくれる商人を探したりしていた。
「ただの付き人みたいなもんさ。あいつがいなけりゃ、俺はなんもできねえよ」
「そうでしょうか」
確かに老師は才能がある画家だが、人間としてなにか欠けているものがある。そういう人間はひとりではそのうちのたれ死んでしまう。
こういう補助する人間が大切なのだ。
「ただ、商人と話すことが多いからいろいろわかるんだよ」
西側で変な動きがあること、それはまだ予兆の段階に過ぎない。でも、これが本当なら今はおとなしくしておくほうがいい。
「すると、なら今いかないと大変だ、とか言い出した」
西へ行く気持ちは変わることなく、ちゃくちゃくと準備したという。まともに飯も用意できない人間なのに、と。
男はゆっくり椅子から立ち上がる。そして、隣の部屋へと移動する。猫猫はそれについていく。
暗い部屋には一枚の大きな板があった。白い布がかぶっている。
「今度こそこの絵を完成させるとか言っていた」
男は布を取る。
「……これって」
「西で見た仙女だそうだ」
(ここでこう来るか?)
猫猫は冷や汗が流れてきた。
これはもう終わった話にしたかったのに、実際はどうにもつながっているらしい。
「砂欧で見た巫女とか言っていたな」
そこには、白い髪に赤い目をした美女が描かれていた。