幕間
馬閃は回廊を歩いていた。蒸し暑い季節だが、この棟は中庭に隣接し、風通しもよい。さらさらと流れる柳は、その存在が涼しさを醸し出す。
回廊は途中から石床から木の床にかわる。馬閃が歩く場合、そこに足音はしない。ただ、少しでも気を抜くと床のきしむ音が響く。本来、貴人が通る場所に不備があってはならない。
わざとこうして音を響かせる作りになっている。この音は奥にある執務室でよく響くように設計されている。
馬閃はそれを知っているため足音を殺す。ある意味これも鍛錬だ。下手に音を立てると後程父である高順の拳骨が落ちてくる。父は、文武ともに優れた人物で、馬閃が幼いころより離れて暮らしている。それは、馬閃の乳兄弟である皇弟、本名で呼ぶことは到底できぬ御方の警護のためだ。いつしか父のようになりたいと馬閃はずっと思っていた。
現在、馬閃はその父にかわり、皇弟の警護をしている。馬閃には姉と兄がいるが、兄ではなく己が選ばれたことに、戸惑いとともにやる気を持って仕事をしている。
そして、今向かっているのはその仕事先である。
回廊を曲がったところで小雀のような一団を目にする。若い娘、宮廷で働く官女たちだ。そのかしましい娘たちは、馬閃の主がいる執務室の前でこそこそしていた。
なにが目的かわかる。窓の隙間からでも、皇弟を垣間見ようという魂胆だ。
残念だったな、と馬閃は思った。
たとえ窓に隙間があったとしても、その奥にちゃんと目張りがしてある。外部に音や声がもれないようにと工夫しているのだ。風通しが悪くすぐ空気が籠もるが、その場合、天井近くの窓が開くようになっている。
かしましい雀娘どもは、馬閃に気づいた様子はない。ただ、壁の向こうにおられる地位も権力もそして容姿も優れた御方のことしか頭に入っていないのだろう。
こうなると困るのは馬閃だ。
馬閃はこの手の女たちは苦手だ。
苦手というか近づきたくない。
しかし、その先に用がある。
馬閃は仕方なくかしましい官女たちの後ろに立ち、わざとらしく咳払いをした。娘たちはそれを無視する。もう一回、今度は大きく咳払いをする。
ぴくりと窓に張り付いていた娘たちが振り向いた。ひどく歪んだ顔が見えた。しかし、それは一瞬のことで、娘たちは花をとばさんばかりの笑顔に変わった。
「馬閃さま。ごきげんよう」
「あっ、ああ……」
ここでなにをしていたかそこを問い詰めることができればいいのだが、馬閃はその手のことにはいまだ慣れない。
「それでは失礼いたします」
官女たちはそそくさと微笑みながら去っていった。
「……」
手を伸ばして止めようとしたが、すでに遅し。
齢二十になろうとも馬閃は女というものが苦手だった。特に先ほどの女たちのような、いかにも女という生き物が苦手である。
まだ、主が気に入っているというあの薬屋の娘のほうがいい。あれはよくも悪くも女ではない。一応、性別としては女の部類に入るのだろうが、当人はそれを武器とせずどちらかといえば、動物の雄雌といった区分としてとらえているふしがある。
だから、平気だ。
女というものをまるで武器というように扱う、そういう女が苦手であった。
なぜそうなったかといえば、馬閃の身内にそういうものがいるからだというに他ならない。
つまり、母や姉を見ていて苦手とするようになった。
馬閃は気を取り直し、顔をきりっと引き締めると執務室へと入った。
礼をして執務室に入ると、奇妙な光景がそこにあった。
山積みになった書物に囲まれた主。そのほとんどは仕事に関する資料のはずだが、今、彼が読んでいるものだけは違った。
都ではここ最近、小説が出回っている。元は後宮で小説を読む流行があったらしいが、それが市井にも広まっている。後宮で字を覚えた女官たちが年季明けで市井へと戻り、その流行を広めたようだ。
元々小説というものはくだらぬ創作物だという風潮であったが、それでもこそこそと読む者は少なからずいた。
主もまた、その一人だったのかと馬閃はいささか衝撃を受けた。
しかも、読んでいるものが所謂、恋愛小説という類であった。
いや、それはないだろう、このかたに限ってそれはない。
馬閃は首を振る。
頬に傷を残そうともこの国に主以上の美丈夫は存在しない。たとえ、後宮の花たちを前にしてもその輝きはかすれることはないとされるお人である。
しかも仕事中にこんなものを読むはずがないと、馬閃は思う。
元々、小説の普及は識字率をあげるために主が後宮を中心にすすめたものである。今手にしている書物も、そのための参考図書なのだろう。いかにも女官が好きそうな内容だ。
ただでさえ過労気味なのに、まだ後宮のことを考えておられるのかと馬閃はぎゅっと拳を握る。
「もどりました、壬氏さま」
本来、この名前はもう使うべきではないと馬閃は思っている。しかし、皇弟の名を馬閃が口にすることはできず、主もまたこの名前を気に入っているようなので、近しいものはこれを使っている。
主こと壬氏はゆっくり顔をあげる。そこに、よく父である高順と同じ眉間の皺があった。
馬閃は懐から持っていた文書を差し出す。馬閃あてに送られてきた文であり、送り主は花街に住む薬屋からだった。
大抵、急ぎの場合は、高順に来る。しかし、壬氏宛とわかっているものを遅く渡す理由にはならない。
壬氏は文を手にする。文にはなにか小さなものが挟まれてあった。何かの種子のようだが、とくに危険はないとのことでそのまま渡す。
壬氏は文を読み、そして種を観察する。
「どんなことが書かれてありますか?」
思わず聞いてしまう。大体、あの薬屋がやることはいつもふざけたことばかりだ。今回もそうなのだろうか。
「香煙の種だそうだ。残念なことに栽培方法については書かれていない」
「香煙といえば、今は渡来のものしか出回っていませんよね」
種は数粒、上手く栽培できるものかわからない。それを見越して薬屋が送ってきた可能性が高い。種を手に入れたことを報告するが、それを育てることは別料金といわんばかりだ。
あの薬屋といい、娼館にいるやり手婆といい、花街には守銭奴ばかりだと馬閃は思う。
「香煙の栽培が可能になれば、今までより安く煙草が手に入りますが、それが?」
国内で安く作れたら嗜好品として高い税をかけることはできよう、それが目的だろうか。
「害虫駆除に効果があるそうだ」
「それは!」
「だが、今から育てたところで間に合わない」
だから、高順ではなく馬閃に文が来たという事か。
「殺虫剤の材料に香煙の燃えかすを入れてもいいそうだ」
それは微々たるものだろう。だが、ないよりはましだ。
そして、たとえ今年蝗害が出なくてもそれで来年、再来年といつ来るかわからないものだ。
そのために香煙の活用法は知っておいたほうがいいという考えだろう。
「本当に抜け目がない」
悪態をつきながら、壬氏の口が柔らかく弧を描いていた。
文と種を文箱にしまうと、壬氏は表情を元に戻す。
その表情は至って真面目なものだったが、机の上にあるのは恋愛小説である。
それに目線を落として壬氏は複雑な表情を浮かべる。
「馬閃、ひとつ聞きたい」
「なんでしょうか?」
主がこのように馬閃にたずねることは珍しい。どうしたことだろうか。
「こいつにだけは勝ちたい、そう思う相手はいるか?」
ずいぶん、曖昧なものだった。そう言われるといるといえばいる、いないといえばいない。
稽古で幼いころからいわれてきたのは、己を律することだった。そのため、勝ちたいと思う相手は過去の自分であると昔から教わってきた。壬氏もまた、同じもの、つまり高順から体術を学んだはずである。それなのに、今更こんなことを言い出した。
壬氏は馬閃より優秀だと高順に言われていた。それは、馬閃もまたよく理解している。馬閃は己が未熟なことはわかっているし、そのため過ちを犯したこともある。
自分ならともかく壬氏がそうなるとなれば、それほど無視できない相手だろうか。
ごくりと馬閃は唾を飲みこむ。
「壬氏さま。相手はそんな手練れですか?」
「手練れといえば手練れだ。柳のようで、まるで暖簾に腕押しするようにいくらぶつかっても堪えた様子はない」
馬閃と壬氏、総合的なものはともかく技術的に見れば壬氏のほうがかなり上手である。そんな壬氏の攻撃をかわす相手となると、どんな武人だろうか。
少なくとも今宮廷内にそんな人物はいるだろうか。
馬閃が知らないだけで、誰か手練れがいるのかもしれない。
馬閃はぎゅっと拳を掴む。
乳兄弟と思っていた。たとえ身分差があろうとも、主従の関係があろうとも、壬氏と一番近しい部下は高順をのぞいて馬閃だと思っていた。
馬閃は壬氏にそんな相手がいることに、その相手のことを知らずにいたことにひどく憤りを感じた。
気づかなかった自分を恥じた。
「……僭越ながら、私ではその修練相手とするのは、不足でしょうか?」
馬閃の申し入れに壬氏は目を見開いた。
「それは……お前には無理だろう」
どこか気まずそうにそっぽを向く壬氏に対して、馬閃はかっと全身が熱くなるのを感じた。
「確かに私は父ほど壬氏さまに信頼はされていないと思います。しかし、最初から決めつけて言われるほど、私は頼りない者でしょうか?」
「馬閃……、そこまで言うなら」
壬氏はゆっくりと立ち上がり馬閃の前に立った。壬氏より馬閃のほうが、三寸ほど背が低い。馬閃が低いのではなく壬氏が高いのだ。これで、女性と見まごうのだから、その容姿の造作は天が与えたものだと思うしかない。
「少し屈んでくれないか」
「こうですか?」
壬氏に言われるがまま中腰になる。背丈の差はこれで一尺近くになる。
「よし、そのまま上を向け」
なかなか苦しい姿勢だがそのまま上を向く。
そして、壬氏の顔がゆっくり近づいてくる。
あまりに整い過ぎた顔がおりてくるものだからそのまま呆けそうになったところで正気に戻る。
思わず近づいてきた顔を両手で遮ってしまった。
「なんのつもりだ?」
「それはこちらの台詞です。一体何を?」
混乱しつつそれを返すので精いっぱいだった。
しかし、壬氏は妙に納得したように見る。
「確かに、そういう反応をしそうだ。さすがだな」
「あ、あの。何を言っているのでしょうか?」
中腰のまま肩をがしりとつかまれ、馬閃はうろたえるばかりだ。これは馬閃の知らない組み手の方法だろうか。いや、それなのになぜ顔が間近に迫る理由がある。
「これは意外に役に立つかもしれんな」
「ええっと、本当に何を言っているのでしょうか?」
わけがわからないまま奇妙な組み手をとろうとする壬氏に、馬閃は動きづらい姿勢のままかわすことしかできない。下手に力が出せず防戦一方だ。
そして、気が付けば壁に追い込まれていた。
「これ以上逃げられまい。しかし、それでもあいつはすりぬける」
「……え。ええっと、壬氏さま、壬氏さまーー!」
くいっと顎を持ち上げられ、ただ顔を赤くしてしまうしかない。
どう返せばいいのかわからず慌てた顔でいると、その瞬間を見計らったかのように執務室の入口が開いた。
音を鳴らさずに廊下を歩いてくる人物は限られており、もちろんやってきた人物は馬閃がよく知るものだった。
「……私はなにも見ておりませんので」
そういって、高順はぱたんと戸を閉めた。