七、取引と猫の使い道
白娘々はやはり簡単に姿を消していなかった。
猫猫は彼女のことを芸人として見ていたが、一部の人間の中ではそれとは違うものだったらしい。
崇拝、いわゆる宗教である。
そして、思い込みの激しい一部の人間はのめり込む。
卯柳の娘、名前は夜光というらしいが、それもまた同じだったようだ。
白娘々の舞台を見て感銘を受けた彼女は、娘々に接触を試みた。結果、娘々は夜光に占をしてくれたらしい。
「貴方の傍に災いを成すものがあります。それは近隣、それとも血筋でしょうか。ええ、血筋でしょうね。誰か心当たりがあることはありませんか?」
曖昧すぎるもの言い、これで顔色を窺っていたのだろう。いくつか選択権を与えて、反応した言葉を選んで話を進めていく。詐欺師にもよくある手段だ。
夜光にも元妾の子の手前、多少思うことがあったのかもしれない。家では異母妹を雑に扱っていた。万が一、里樹妃が皇帝の子を孕んだとき、それが怖かったと。
被害妄想というものはどんどん広がっていく。それをさらに広げたのは、白娘々だ。よくある話だ。
そして、自分の妹のことを口にして、こう言ったという。
「ああ、いなくなってしまえばいいのに」
そうつぶやいた夜光に、白娘々は微笑みかけ、そして、「わかりました」と答えたという。そう言って渡されたのが、紙の人形だった。
(なんとも微妙な)
占いを信じるものなら、呪いも信じよう。そのあと、里樹妃が襲われたことを知ったら、自分の呪いが効いたと思う。
そして、壬氏から自分への疑いをかけられたとしたら。異母妹とはいえ、妃に手を下そうとしたと思われていたら。
(阿呆か)
白娘々は姿を現さなくなったが、何かあれば伝言ができたという。そして、疑われたことをしっかり白娘々に知らせた夜光の元に、文が届いた。
どうやって、逃げ出すか、それを事細かに書かれたものが。
泣き女として出ていったあとの面倒はみてくれると書いてあったそうだ。
事の詳細を聞いて一番ぐったりしていたのは、夜光の兄だった。
「……おまえ、自分で破落戸をやとったのではないのか?」
里樹妃を襲ったことで妹のみならず一家に罰が下ると思った兄は、妹の言うとおり協力した。泣き女を手配したのも兄だ。
卯柳に至っては、終始無言である。夜光とその兄の言を信じるなら、共犯者は一家では二人だけなのだが、まったく違う遺体を娘と判断したのは、ただの間違いか、それとも勘付いてのことだろうか。
猫猫は怪我の手当が終わった卯柳たちから隠れるようにまた、部屋の隅に戻っていた。ちらちらと娘が見ているが気にしない。
さて、呪いが罰になるようであれば、夜光は重罪だが、それも裁きの側による。生憎、主上も壬氏も呪いの類はそこまで信じていない。ただ、そこに悪意があったことだけは読めるが、実行したと扱うのは難しい。
問題があるとすれば――。
「妃のことを洗いざらいか」
守秘義務の問題といまだに白娘々とつながりがあったことだろう。
その点について壬氏が問う前に、口を開いたのは卯柳だった。
「それはどうやって連絡をとっていた?」
娘に父は問いかけた。歯が折られて少し発音が不明瞭だ。
「それは、……誰にも言うなって」
「じゃあ、私たちは皆、処刑されてしまうな」
処刑という言葉を聞いて、夜光は震えあがる。
「でも、仙女さまは絶対に話すなと」
「子の一族の出来事を忘れたか?」
ひいっと、夜光が震えあがる。その兄もまた顔を青ざめる。
壬氏は苦い顔をしている。斜め後ろには馬閃とは別の従者がいて、無表情のまま立っていた。馬閃はきっとあとで高順にしっかりお叱りを受けるのだろう。
さて、卯柳という男は商才が長けた人物だと聞いたことがあるが、そこでその本領が発揮された。
卯柳は歪んだ自分の頬を撫でた。
子の一族の名を引き合いにだして、どうするつもりだろうか。
「白娘々とやらの情報は、まだわかっていないことが多いようですね」
それがどうした、と壬氏は涼しい顔をしているが、内心は苦笑いを浮かべたいところだろう。
「夜光。話せるね?」
「で、でも、お父さま」
「話せるね」
父親の断言する口調に、夜光はこくりと首を縦に振るしかなかった。
壬氏は袖に手を入れて、やや高圧的な目線を卯柳に送る。
「その娘の情報ですべて無しにはできんぞ」
つまり、司法取引というやつを持ちかけていたようだ。
卯柳は、歪んだ顔に底の知れない笑みをのせる。官というより商人の顔だ。
「ええ、わかっております。ただ、一つ確認させていただきたいのですが」
「なんだ」
「昨年、梨花妃の侍女頭が後宮を出たと話に聞きましたが、どのような理由で?」
痛いところをついてくる。あの件は内密に処理されたが、やはり目ざとい者はなにがあったかと勘繰るものだろう。梨花妃の頼みということで、本来、重罪にあるべき人間が罷免で終わったのだから。
里樹妃が異母姉に対して、罰を求めるならともかくあの性格を考えると、そうなるとは思えない。
壬氏の目がすうっと冷たくなる。
「それが何の関係があるというのか?」
「いえ、申し訳ありません。出過ぎました」
卯柳はそっと引き、息子娘は壬氏の冷たい顔に肝を冷やしている。
なんだかんだで宮廷内で言われている卯柳という男だが、言われるだけの食えなさも持ち合わせているようだ。
「白い女の件については、包み隠さず話せ。何か隠し立てをしようものなら、困ることになるぞ」
「御意」
卯柳は礼をする。その子たちは、震えながら父親の真似をして、部屋を退出した。
「お前たちも出ろ」
壬氏は残っていた従者たちに言うと、従者たちは渋い顔をしながら出ていった。
「おい。出てこい」
部屋に誰もいなくなったところで、ようやく猫猫が呼び出された。こそこそと部屋の隅から出てくる。
「猫というより鼠だな」
「猫でも鼠でもありません」
壬氏は疲れた顔を見せると卓の上にうつ伏せになった。足は投げ出し、だらしない格好である。
「そんな格好では示しがつきませんので、高順さまをお呼びしないといけません」
「高順ならそのうち馬閃を殴りに来る」
そう言って、壬氏は猫猫に座れ、と卓の向かい側の椅子を指した。猫猫は言われた通りに座る。先ほどまでと違い、だらけた空気が流れる。誰もいないと思うが、その声の大きさは抑えられている。
「高順さまには悪いのですが、今回は助かったのではないですか?」
なにが助かったというのかといえば、卯の一族の件である。ああやって、馬閃が暴走したのは、それだけを見たら愚行としか思えない。だが、今回の件の収支の調整をするにはちょうどよかったように思える。
なんだかんだで、壬氏が卯の一族に下す判断は甘いものになるのだから。
「元々、主上は罰することなど望んではいない。なにより、母上が許さないだろう」
壬氏が母上というのを初めて聞いた気がする。皇太后のことを言っていると思うが、なんだが変な感じがした。
「子の一族の件では、心を痛めていた。最後まで、主上に減刑を求めていたからな」
いくら皇太后の言であろうと、それは無理な話だ。下手な情けをかけると、また別のところから火種が起こり、被害が拡大することもある。
もっとも、火種などというものは防ごうと思って防げるものではないのだが。
卯の一族は、表向き大きな処分は受けないだろう。ただ、あれだけ大きく葬式をしたものだから、今更娘は生きていましたとはできない。
(どうするんだろうか)
里樹妃と違い、ずいぶん甘やかされて育てられた娘のようだが、今後、どう生きていくかについてはわからない。
(自業自得なんだけど)
屋敷で一生隠され続けて暮らすのか、それとも遠い地でひっそり生きていくのか猫猫には関係ない話である。
弛緩した空気の中で、猫猫は思わず欠伸をしそうになった。外はよく晴れているので、庭で昼寝をしたら気持ちがよさそうである。というわけで、さっさと退室したいのだが、壬氏が卓にうつ伏せになったままなので、動けない。
(もしかしてねてるのか?)
つついて確かめようとしたら、顔がぬっと上がってきた。
「今、つつこうとしなかったか」
「何のことでしょうか。それより、そろそろ戻ってもよろしいですか?」
猫猫の質問に、壬氏は半眼で返す。
「もう少しいてもよかろう」
「特に話すこともありませんし」
(なぜ、そんな目で見る)
面倒くさい餓鬼のような表情をする壬氏。
「なにかないのか?」
「具体的にどんなことを話せばよろしいのですか?」
面白い話をしろという無茶ぶりならやめてほしい。毎回、花街冗句がすべっている猫猫には難易度が高すぎる。
「あるだろ、天気の話とか。最近、なにをやっているのかとか」
「今日の天気は、晴天です。空気もからっとしていて、洗濯にはもってこいかと思われます。最近やっていることは、留守中に足りなくなった薬の材料調達と調合、あと趙迂の躾です。趙迂の悪戯が過ぎるので養育費の増額を希望します。できれば、緑青館経由ではなく、私に直通で。可能であれば、銭ではなく渡来の薬といったものでお願いしたいかと」
「業務連絡だろ、それは。あと養育費については、ずいぶんふっかけられたと高順が言っていたぞ」
(そうなのか)
大体、猫猫の元に来る前にやり手婆が奪っているのでいくらもらっているか詳しい金額は知らなかった。いつも猫猫にくれる分の三倍くらいかなと思っていたが、それ以上に貰っているらしい。強欲婆だ。
「……」
壬氏がうつ伏せのまま、ちらちらと猫猫を見る。
「なんで普通に接することができる?」
「なんでと言われましても」
そう言えば、壬氏とまともに話すのは久しぶりである。先ほどまで、卯の一族のごたごたがあって、その件について説明などは受けたが。
西へと向かう前に薬屋で話した以来だ。
そのとき、何があったかといえば――。
「私は気にしておりませぬので、壬氏さまもお気遣いなく」
「……気にして」
壬氏の目が濁る。
「いや、そこはもっと、なにかあるだろう?」
「別に。あっ。鹿茸をありがとうございます」
猫猫は、思い出してとってつけたかのように礼をする。
「削ってさっそく調合させていただいております。やはり霊薬といわれるだけあって、効用がものすごいですね。上客の数人に、ひと包みずつだけ渡したのですが、そこから話が広がったのかよく売れております。値段もかなり高めにしたのですが、それでも元気になりたいという殿方は多いようで、いくらでも払うと言ってくれるかたもいたのですよ。できれば、鹿茸を手に入れた経路を教えていただきたいのですが、可能でしょうか?」
「いや、何の効能だ。っていうか、さっきよりずいぶん饒舌に話しているな!」
効能も知らないのに珍しいから取り寄せたのか。なら、壬氏用にとっていた分は、いらないだろうと判断して売ってしまおう。
「いや、そういう話ではなくて!」
壬氏が顔を上げる。ほのかに耳が赤い。
「おまえは、せ、接吻した相手を前に、照れというものはないのか?」
壬氏が少しどもりながら言った。
「そんなことを言われましても、いちいち気にしていたら仕事になりません」
花街では見慣れた光景だ。
むしろ、虫の交尾より人のそれが行われる場所なのだから。
「仕事って……」
「梨花妃に照れていては仕事にならなかったでしょう」
「どうして梨花妃が関係してくる?」
壬氏が心底不思議そうな顔で見てくる。
「梨花妃は病でまともに食事もできなかったじゃないですか」
しかも、自分で食事を口にしようともしなかった。そんな彼女には強硬手段をとるしかない。
どんな方法をとったか、想像がついた壬氏はばんっと卓を叩いた。
「お、おい! 梨花妃は女性だぞ!」
「妃ですからね。殿方だったら問題でしょう」
「いや、そうじゃない!」
言わんとすることはわかるが、あのときは猫猫も必死だった。もし、梨花妃が亡くなられてしまえば、猫猫もまた首と胴体が離れるものだと思っていた。周りの侍女たちが叫ぶ中、邪魔するものは蹴りを入れて部屋から追い出してでも、食事をさせる必要があったのだ。
「そのおかげで持ち直したのですから、よかったです」
「……」
梨花妃がまた新しい皇子を抱いている。それをあのときの状況から想像できただろうか。
猫猫はやったことに間違いはないと信じている。
壬氏はまた顔をがくりと下げた。下げたまま、猫猫にこっちへ来いと手招きをした。
「接吻でもしますか?」
「まったくそういう気分じゃない!」
壬氏はそう言いながら猫猫の身体をそっと抱き寄せた。何をするわけでもなく、ただ抱擁するだけだ。
たまに糞餓鬼が甘えてくるときに似ている。昔の記憶を取り戻すことはないが、なにか大きなものが自分から無くなっていることはわかるらしい。最近では、毛毛とかいう不愉快な毛玉を抱いて寝ていることが多いのでそれで気を紛らわせているようだ。あれでも多少は使い道があるらしい。
壬氏もまた、十の子どもと同じようになにかに甘えたいのだろうか。
「すぐ終わりますか?」
「あと百だけ待て」
(けっこう長いな)
少し体重がかかって体勢がきついが我慢しよう。
「いち、に、さん……」
「数えるな」
(面倒くさいなあ)
猫猫は、毛玉を壬氏に押し付けることはできないかと考えながら、じっと待った。