十九、出会い 前編
壬氏と里樹妃。
なるほどと猫猫は思った。
年齢的にはちょうどいい。壬氏は数え二十歳、里樹妃は十六歳だ。見た目的には壬氏がやや老け……、いや大人びているが十分許容範囲内だ。
壬氏は皇弟、今は玉葉后の皇子が東宮とはいえ、皇位継承権はまだまだ高い。
加えて競争率の激しい主上の後宮にいるより、一人も妻帯していない壬氏のほうがまだいいかもしれない。
将来、国母になれずとも、宰相の妻になれるだろう。
もちろん国中の女、くわえて一部の男を敵にすることになろうが。
安全牌というには十分出来過ぎた相手である。
権力者というものは、結婚を割り切らねばならない。白鈴小姐が推奨する自由恋愛なるものは幻想に等しい。
猫猫は隣にいる人物をじっと見る。
壬氏の乳兄弟である馬閃もそんなことはわかっているだろう。しかし、その心中にはなんとも言えないもどかしい気持ちがあるらしい。
端的に言ってしまえば。
(小姑根性)
美しく有能なお仕えする貴人にふさわしいかどうか、この目で確かめたいらしい。
「父上は、あまりいい顔をしなかった」
それで不安になったようだ。
(まあねえ)
皇帝からしてみれば、娘のような里樹妃に手を出すこともなく、阿多からすると後宮より安全な場所へと移せる。里樹妃にいたっては、憧れの貴人が宦官ではなかった上に、夫となるのだ、手放しで喜ぶはずである。
壬氏からしてみると、里樹妃自体は可も不可もなかろう。顔は愛らしいし、あと数年すればもう少し大人びてくる。有能とはいえないが、下手にでしゃばることもしないだろう。ただ、その縁戚関係がちと面倒くさくなるだけだが、それはどこから嫁をもらっても多少あることだ。
「もしかしたら、なにか欠陥があるかもしれない」
馬閃が鼻息を荒くして言った。
(欠陥とかいうなよ)
聞く人が聞けば、袋叩きにあう台詞だ。
「そういえば」
猫猫は思い出したように、馬閃を見た。
「そんなに気になるなら、直接見にいけばいいじゃないですか?」
馬閃は不機嫌そうに猫猫を見返す。
「私は宦官ではない」
「いえ、そういう意味ではなく」
阿多の元に一時的に里樹妃がいることを話すと、馬閃の顔がみるみる変わった。
激しく拳をあばら家に打ち付けた。
(壊れるがな)
こんなぼろ家でも、猫猫なりに愛着がある。今壊れると、採取した薬草をすべて取り直しだ。
「ふざけるな! そう簡単にほいほい後宮からでていいと思っているのか!」
「といいましても、主上の許可はとっているそうですし」
とはいえ、基本、後宮はほいほい出入り自由な場所ではない。上級妃とあれば、なおのことだ。それは、楼蘭妃の一件を思い出せばわかるはずだ。
その上、今日あたり目抜き通りに買い物に行くといっていた。正直、それは猫猫も奔放すぎやしないかと思ったが、これもまた主上の許可ありで、護衛もちゃんとついているそうだ。
(甘やかしすぎだろうに)
ゆえに、里樹妃の父親が調子にのっているのだろう。
(これは黙っておこう)
と思ったら、すぐ目の前にじっとりとした馬閃の目があった。
「何か隠しているだろう?」
「何のことでしょう?」
猫猫がしらばっくれると、馬閃はむむっと口を歪めて、手のひらで目をおさえた。
「いた、いたた」
わざとらしい棒読みだ。
「先ほどの毒薬のせいで、目が、目がおかしいぞ」
そういってちらちら猫猫を見る。
見ていて苛々する。
「いえ、毒じゃありませんよ」
「いや、目がつぶれる。このままだと失明してしまう」
んなわけない。ちょっと苦味の成分が目に入っただけだ。あくまで牽制のために作ったそれは基本無害だ。失明させるつもりなら、猫猫はもっとえげつない調合をする。
大根芝居を続けつつ、ちらりと猫猫を見る。
(この男……)
堅物なりに茶目っ気を持っているようだ。しかし、まだまだ父親の高順の域には達していない。随分、恥じらいがある。むしろ見ているほうが恥ずかしい。
猫猫は面倒くさそうに、つま先でふくらはぎをぽりぽりかいた。
一応、間違って目に薬草を押し付けたのもあるので、素直に白状することにした。というより、あまりに三文芝居すぎてだんだん見ている猫猫が恥ずかしくなってくる。
そういうわけで、買い物に出かけることを口にしたわけだが、言うまでもなく面倒事に巻き込まれることとなった。
「なんて妃だ! まったく」
どすどすと足音をたてながら、目抜き通りを歩く馬閃。
猫猫は「はやくおわらねーかな」という表情をありありにして、三歩後ろからついてきている。
猫猫としては、話すだけ話したらお役御免かと思いきや、そうはいかなかった。
猫猫は阿多も里樹妃のことも顔見知りだが、馬閃はそうじゃない。阿多は園遊会で遠くから見たことあるが、里樹妃は全然面識がないという。里樹妃の毒殺未遂事件のときは、たまたま遠出をしていて見ていなかったらしい。
また、阿多が男装している姿も見たことがないので、探すのに一苦労するからと連れだされた。
「おい、あそこにいる二人組はどうだ?」
「人を指さすものではありません」
違います、と首を横に振ると、馬閃は次の人間を探す。
昼間の大通りは、市がたっており人ごみになっている。この中で、阿多たちを探すのは骨が折れるし、何より猫猫はやる気がない。
(むしろ本当に出かけているのだろうか)
出かけていると聞いたから、猫猫はこうして馬閃に話した。相手が馬閃だからというのもあるが、普通、こういうのはほいほい話していいものじゃない。
それは猫猫にも、阿多にも言える。
なんだかんだいって後宮は市井に比べると安全だ。女同士の妬みや、妃間の諍いなどあるかもしれないが、殺傷沙汰になるまで発展しない。もし、喧嘩でもあれば、宦官たちがすぐに駆けつけて止める。
あるとすれば、嫌がらせや毒の混入だが、それも対策はしてあるのでほとんど大事にいたらない。市場の屋台で食中毒になるほうが、可能性としては高い。
(護衛はつけているだろうけど)
どこに目や耳があるかわからない。
「あまり足音をたてては、向こうに感づかれますよ」
猫猫が言うと、足音を小さくするだけの落ち着きはあるらしい。馬閃は、目だけきょろきょろと周りを見ている。
これで身なりが悪かったら、へたくそな掏児が獲物を探しているように見えるだろう。
「市場で何も買わないと、変に思われますよ」
そう言って、猫猫が串焼き屋を指すと、馬閃は「わかった」と屋台に並ぶ。
「一つですか?」
「……」
馬閃は二つ買って、一つ猫猫にくれた。
「ここの美味しいんですよ」
「……」
一口食べたところで、馬閃はもう一度屋台に並んでもう一本買う。本当にわかりやすい性格だ。
歩きながら食べることに抵抗があるようで、店の横の樽でできた椅子もどきに座って食べる。
「のど乾きませんか?」
猫猫は、次は果実水を売っている店を指した。
「……」
図星だったが、このまま猫猫の言うとおりに従うのが嫌だったらしく、その店を通り過ぎてもう一軒の飲み物屋で果実水を買う。
(あーあ)
しかし、それを口にした瞬間、馬閃の顔がひどく歪み、青ざめ、足早に路地裏に入っていく。
猫猫は、最初に示した飲み物屋で果実水と水を買って、路地裏に入る。
馬閃は、壁に手をつけ、今飲んだものを吐きだしている。
「背中さすりますか?」
「いらん!」
「水飲みますか?」
「……くれ」
馬閃は口の端から水をこぼしながら、一気飲みした。
「あれ、何だったんだ?」
ようやく落ち着いた馬閃が聞いた。
「あの屋台の主人は、けちで腐りかけた果実ばかり安く引き取って果実水を作っているんです。しかも、前日、前々日の売れ残りも混ぜてるんでしょうね」
しぼり汁が発酵しかかって、なかば酒のようになっている。物好きはそれが美味いというが、馬閃のような上流階級の舌には合わないだろう。
「そんな店潰れちまえ」
「つぶれたら場所を変えるだけですよ」
馬閃はどっと疲れたらしく、ふうっと息を吐いた。
「お帰りになられますか?」
「何を言うか!」
まだまだやる気なので、仕方なく猫猫はもう一つ口直し用の果実水を渡す。
馬閃は受け取りながらも、目を細めてくんくん鼻で匂いを嗅いでからゆっくり口につけた。今度は、大丈夫だったようでごくんごくんと喉が動く。
全部、飲んだところで、猫猫は馬閃から空の器を受け取る。
「それはどうするんだ?」
「飲み物代に、器も含まれています。戻すと銭を返してくれるんですよ」
馬閃は市井の金銭感覚がわからないので、果実水が高いことに気づかなかったらしい。
馬閃は、「これも」と不味いほうの器もくれる。金を返せ、というよりそのまま捨てるのが嫌なのでくれたのだろう。
儲けたな、と猫猫がそれを持って換金しようとしたとき、がしっと馬閃から手首を掴まれた。
「どうしたんですか?」
「……音がきこえる」
「音?」
耳を澄ませてみるが、聞こえない。空耳ではないかと馬閃を見るが、すでにそこにいなかった。
「様子を見てくる!」
それだけ言って、路地裏の奥へと走っていった。