十七、政治の道具
そろそろ新芽が裸の枝から伸びてくるころ、神妙な表情の使者がやってきた。
(また、面倒事だろうか)
猫猫がけだるげに応対をしていると、それがいつもの麗しの貴人からのものでないと気づいた。いや、麗しい貴人には違いないが……。
「阿多さまですか?」
それは、元上級妃からだった。
何事かと思い、馬車に揺られるとついたのは阿多の離宮ではなく、外廷だった。後宮を内包する内廷、その境目に位置する外廷の宮に置かれている。
一体、なにをするのだろうと猫猫は、椅子の上で童子のように足をぶらぶらさせた。
広い部屋には、入口に武官がいる。武官だと思うのだが、その官は後宮内で見たことがあった。つまり宦官だ。
(なんで宦官が?)
後宮の外なら、普通に武官を使うものだ。
その疑問はすぐさま解決される。
「待たせたようだな」
まるで男のような口調で、部屋に入ってきたのは阿多だった。胡服を着、すらりとした長身の阿多だった。そして、その後ろに隠れて小さな影が見える。
「阿多さま、それに……」
泣きべそをかいた里樹妃がいた。
「今回は特別でな。しばし後宮の花を借りることにしたわけだ」
劇役者のように凛とした佇まいで阿多は言い放った。
そういうわけで猫猫は特別に外出を許された里樹妃とともに、阿多の離宮にいる。四阿にて茶会を開く雰囲気に猫猫は気おされていた。
(この匂いは薔薇茶だな)
薔薇の実を使った茶で、香りも味も甘酸っぱい。薔薇茶というが、その赤い色は薔薇由来ではなく、南国の赤い花だそうだ。美肌効果があり健康にもいいが、なにせその花が珍しいものだから猫猫も後宮以外では飲めない代物だ。
(小姐たち好きそうだな)
あとでわけてくれないかなと、いつものように考える。
しかし、せっかくの高級品もここでは少し場違いに思える。
「あー、それ俺のー」
「知らない、あたしが先に取ったからあたしのよー」
きゃらきゃらと周りで笑うのは、離宮に住まう子どもたちだ。子一族の生き残りとは違う、物好きな離宮の主は孤児を引き取っているらしい。子一族の子どもたちは見当たらず、翠苓もいなかったが、たぶん別の場所にいるだろう。里樹妃は知らないだろうが、念のため顔を合わせないにこしたことはない。
というわけで、高級茶も卓布を汚す絵具扱いだ。皿に盛られた焼き菓子の粉で卓は散らかっている。
泥だらけの手で菓子を掴むものだから、育ちのいい里樹妃は完全に引いており、阿多は少しだけ困った顔でたしなめていた。
(こいつら、殴って言い聞かせようか?)
残念ながら、男装を得意とする阿多だが、その心根は優しいようで猫猫が鉄拳で教育しようとしても受け入れてくれないだろう。
子ども嫌いな猫猫よりさらにこの場で浮いているのは、里樹妃だった。自分より小さな子どもたちに囲まれて、小動物のようにびくびくしている。
「こらこら、あちらで遊んでおいで」
ようやく阿多が口を出し、下女たちが子どもたちの手を引っ張っていった。
阿多と里樹妃、この二人は前々から知ったる仲だ。
しかし、どうして阿多は里樹妃をこうして後宮から連れだし、なおかつ猫猫を呼んだのか。
その理由といったら。
「以前、後宮教室を開いたそうだが、それを今回、この子のためにやってくれないか?」
「はあ?」
呆けたように答える猫猫に対し、里樹妃だけはやはり子鼠のように震えていた。
里樹妃は今年で数え十六、皇帝の食指が動かなくても、御手付きにしなければならぬ年齢だ。
四人いた上級妃のうち、楼蘭はいなくなり玉葉妃、いや后と梨花妃はそれぞれ皇子を産んだばかりだった。ここでなにがあろうとも里樹妃は皇帝と閨をともにしなくてはいけないし、皇帝の立場も悪かろう。
その心がそこにあろうとなかろうと。
ふむ、と猫猫は頷く。阿多のことだから、ちゃんと皇帝には許可を取っているのだろう。それは、元上級妃であるというより、里樹妃のことを思ってのことだ。
しかし、それは一方でいらぬこじれを産んでいる気がする。
震える里樹妃の目には怯えとともに、悔いるような憂いが混じっていた。
残念なことに、それを阿多は気づいていない。
(ああ、これは)
猫猫も他人のことはいえないが、阿多はその手の人間なのだろう。おそらく人としての能力の割り振りが偏っているため、感情が本来気づくべきところに気づけない人間なのだ。
というわけで、第三者として冷静に見ている猫猫がまず言ったのが……。
「では、里樹妃と二人きりにさせていただけませんか?」
その猫猫の声に、里樹妃は震えあがり、阿多はやる気があるのだなと「うんうん」頷いていた。
阿多が出ていったあと、猫猫はため息をつきながら里樹妃を見た。
里樹妃の目がどんよりと曇っている。
「他の妃たちが子を産んでしまった。私も産まないといけない」
猫猫はぼそぼそと言った。
「后の座は、仕方ない。今はなにより男子を早く産むことだ」
子どもは弱い、いつ死ぬかわからない。
「早く産むのだ。なんのために後宮に入れたと思う?」
猫猫の台詞を聞きたくないのか、里樹妃は耳を塞いでいる。でも、その声は聞こえているだろう。
生娘が男を怖がるのは、別に珍しくもない。それを付加価値にして、商売をやっている店にずっといた猫猫にはよくわかっている。年端もいかず娼館に売られ、そのために躾をされて、綺麗なべべと飯の代わりに、客を取る。はじめて客をとった妓女は、翌日上等の肉料理を食わせてもらう。守銭奴のやり手婆とてそれくらいの優しさはある。
相手としては申し分ないだろう。年の差はあるが、相手は皇帝。美髯の偉丈夫だ。少々、夜の元気があり過ぎる点はあるが、さすがに無体はしないはずだ。
でも、里樹妃が皇帝との初夜を恐れるのには、そんな面倒くさい生娘としての理由以外も見て取れた。
何人が気づいているだろうか。
おそらく皇帝もまた気づいていると思う。だからこそ、今まで先延ばしにしてきたのだ。
そして、もう一人、重要人物がそれに気づかず、現在お節介真っ最中である。
猫猫は、椅子に座りとうに冷えた茶をすすった。
「阿多さまはお母さまのようなら、主上はお父さまみたいなものでしょうか?」
不敬として扱われかねない言葉だが、ここには猫猫と里樹妃しかいない。
里樹妃の母はとうに亡くなったと聞いた。父親は、娘を政治の道具としか考えず、幼いうちに後宮に入れた。
その当時、東宮妃であった阿多は里樹妃の心のよりどころであったに違いない。
里樹妃の口と眉が歪み、今にも泣き出しそうになる。なりながらもなんとか鼻をすすりながら猫猫を見る。
「……私、本当は……また後宮に戻るはずではなかったの」
とぎれとぎれに言葉をつむぐ里樹妃。
先帝が身罷られ、尼寺に入れられた娘をその父はまた利用しようとした。最初、南の太守の妻として送られるはずだったが、その男は祖父といってもいい年齢で、しかも、正妻はいないが妾を十人も囲っている好色だったという。
里樹妃は卯の一族、皇族より名をいただいた家系であった。しかし、女帝の時代から能力主義になり名の効力も薄くなったという。ゆえにどんな手を使っても出世したいというのが、落ちぶれかけた一族の総意だった。
「それを止めてくれたのが阿多さまで、主上なの」
風の噂で里樹妃の婚約を聞いた阿多が、皇帝に申し出たという。今思えば、それも策だったかもしれない。婚約はほぼ正式なもので、いまから覆すとなればそれ相応の理由が必要だった。
(道理でねえ)
他の上級妃に比べ、里樹妃が落ちるわけだ。落ちるといっても、それは姿かたちという意味ではない。上級妃としての知性、そして心意気が足りないと思っていた。
年端もいかない娘が、どこぞのくそ爺の嫁になるか、それとも後宮の花としてたとえ数年でも平穏な時を得るか。
阿多の選択は後者だったろうに。
「私も昔は、主上の膝にのせてもらうくらい懐いていたからでしょう」
「それはそれは」
幼いころはそれで平気だが、今やったらこの蚤の心臓の持ち主は、そのまま息を止めてしまうだろう。
ふむ、世の中には年の差婚なんていくらでもある。女が年上ならともかく、男が上ならそう珍しくもない。背中におぶっている子どもを「娘さんですか?」と聞いたら、「いえ、妻です」と返されることだってある。
そういう意味で、阿多は数年たてば里樹妃が大人になると思ったらしい。先にも言ったように、国の頂に立つ御方の妻の一人となれば、待遇が悪いわけがない。
(こりゃ大変だわ)
阿多の目論見は外れている。
里樹妃はいまだ子どものままだ。そして、子どもでありたいと思う理由が、阿多にある。
今は上級妃ではない阿多だが、里樹妃の中ではいまだ主上の隣にいる人なのだろう。
「割り切れないのはわかりますけど、お仕事ですよ」
後宮にいる者は皆、禄を貰っている。それは妃も一緒だ。
「……」
しかし、里樹妃は衣をぎゅっとつかんで、目を潤ませている。
こんな妃を相手にするとあれば、皇帝は大変だろうにと思わなくもない。里樹妃ほどではないにしろ、こうして夜伽を後回しにしていた皇帝もまた同じ心境だろうに。
せめて阿多がその気持ちに気づいていれば、よいのに……。
(あーあ)
どうしようか、と猫猫は頭を抱えた。