十六、積み重なる問題
空には月がぽっかりと浮かんでいる。雪が降り積もることはなくなったが、雲がない夜は冷える。部屋には火鉢と、温まるようにと生姜湯を侍女の水蓮から渡された。
壬氏は、少しぬるくなったそれを寝台に座り、ごくんと飲んだ。
いつまで子ども扱いするのだろう。
たっぷり蜂蜜が入っている。生姜が辛いといって駄々をこねたのは、七つの時が最後だというのに。
正直、眠気覚ましの飲み物が欲しいところだが、これを渡すところは、水蓮なりの無言の圧力だとわかった。ここ最近、まともに寝ていないことがばれているのだろう。幼い頃から知っている乳母は、壬氏のごまかしなどばればれなのである。
しかし、やらねばならぬことがある以上、働き続けるしかないのも現状だ。
「難儀なものだ」
上に立つものはその権力の代わりに責任を持つことが必要である。
いっそ、そんな面倒なものを捨て去り、愚鈍な生き物へと堕ちてしまえば楽だろう。
好きなものを食らい、好きなときに眠り、好きなことをする。
それで愛でるものがあればなおよい。
そう思いながら、それは叶わぬだろうな、とため息をつく。
世の中、ままならぬことばかり。
愚鈍になれば楽になると思いつつ、愚鈍になることを拒む自分がいる。
壬氏は明かりが揺れる中、鍵付の引きだしから一枚の紙を取り出す。折り曲げられ、皺の入ったその紙を広げる。
楼蘭、子の一族の長の娘が残したものだ。
一度死んだ者は見逃してくれ、か。
彼女は壬氏とそう約束をした。その礼代わりにとこれを渡した。
どこまで本気で書かれているのだろうか。もしかして、楼蘭はそのいなくなった後も、壬氏たちを翻弄し続けようとしているのか。
そう疑いたくなる内容だった。
「蝗害か」
時に国を傾けることもある自然災害だ。楼蘭はその研究の手伝いをしていた。生憎、それを行っていた男は、すでに廃人のようになっている。蘇りの薬、その副作用で。
紙に描かれているのは、地図だった。そこに矢印が描かれている。西方から流れる風の動き、それを表していた。
廃人になった元医官は、昔、西方へと留学経験がある男だった。あちらの地理を知っているだけあって、その発想は壬氏が考えつかない突飛なものだった。
蝗害、それは多くの場合、西から流れてくる風にのって飛蝗がやってくることから始まる。何百里、ときに千里以上先の場所から飛蝗がやってくる。その飛蝗は、この国の地で繁殖し、まず小さな蝗害を引き起こす。それをそのまま放置すると、翌年さらなる被害を巻き起こす。
これは、薬屋の娘、猫猫が壬氏に指摘したことと一致した。その対策は、すでに今年、蝗害が少なそうな地域への増税や雀猟の一時禁止、加えて農村への農薬製法の伝授他、行動に移している。
蝗害が起こるかどうかわからないが、なかったとしても作物の収量を増やす手立てとしては悪くないと踏み切った。
猫猫とて、これ以上なにかやるといった考えは思いつかないようで、悪手ではないと壬氏なりに思っている。
だが、楼蘭の記述にはもう一つ頭が痛いことが書かれてあった。
蝗が他の地方、いや他国よりやってきた場合とある。
この国以外にも蝗害はある。
そして、歴史上、国が餓えることが原因で戦が起きることは皆無ではない。
壬氏はもう一枚、紙を取り出す。昨年、増えすぎた飛蝗がどういうものか絵に描いたものだった。
それと楼蘭のものと照らし合わせる。
地図の横には飛蝗の絵が数種類描かれてある。
それは、どの地域にどんな飛蝗が多いのか表したものだった。
「……」
思わず髪を掻きむしってしまった。
なんとも嫌な可能性ばかり高くなるものだ。
これが間違いだったらどんなにうれしいことだろうに。
元医官の研究が未熟で、所詮、これは机上の空論であればうれしいのに。
昨年、大量発生した飛蝗、それがどの地域の飛蝗と一番似ていたかといえば……。
茘の国、その北西にある国。広大な穀倉地帯と森林資源を持つその国は、北亜連と壬氏たちは呼んでいる。
たびたび異民族がこの国にちょっかいをかける理由、それはこの北亜に原因がある。
国と国との間柄としては、それほど仲が良いわけではないといえよう。
最後にこの国と大きな戦をしたのは、先々帝の時代である。この戦の後、先々帝は倒れ、その後、先帝が即位した。
そして、その戦が始まった年、我が国でも北亜連でも蝗害があったと記録に残っている。
貧しくなればよそから奪うしかない。それが更なる餓えを呼び、数万の餓死者を出している。もっともそれは記録上の数値であり、実際はその何倍もあったのではないかと言われている。
これについては餓死者と戦死者の数がはっきりしないこと、当時、政治が今よりずっと腐敗していたことが関係する。
今の時代、女帝と言われる先の皇太后を悪女の代名詞として使う。だが、その後即位した先帝を補佐し、腐敗した膿をざくざくと切り捨てていった手腕に対しては、感嘆するしかない。
ふざけた話だ。
主上が今、賢き御方として扱われているのは、女帝が残した遺産を使い、子昌という悪役がいたからだと思うと、どれだけ手の上で踊らされているかわかる。
とんだ置き土産だ。
壬氏はこれが杞憂であることを願いつつ、引き出しを閉めて鍵をかけた。
何事もなければいい。なかったらそれでいいのだ。
だが、楽観視して最悪の事態を招くわけにいかない。
戦を好むわけではない、でも、やらねばならぬこともあるのだ。
「あれも置き土産だったのだな」
思わず口にしていた。
壬氏は、子の一族が根城にしていた砦を思い出す。雪崩によって雪に埋もれたそれであるが、その下には大量の火薬と飛発が眠っている。
何度も改良を加えた飛発は、軍部が持っているそれよりも優秀なものだった。生憎、その設計図は火事によって燃えてしまったが、実物がある以上、また書きおこすことができる。
砦をそのまま利用し、火薬を製造する運びになっている。ただ、前の製造工程では、火薬に火がつく危険性が高く、その点は考慮している。
飛発本体の製造については、場所を移している。子北州の森林資源を期待していただけに、それが使えないとなると工夫が必要だった。製鉄には原料もだが、燃料が必要になる。
頭が痛い。
他にもやることはある。
明日の朝議に出てくるだろう案件に目を通しておかなくてはいけない。
子の一族の一件からしばし大人しくしていた高官たちだが、やはりすべての膿を出し切ったとは言い難い。
蜥蜴の尻尾とは言わないが、あの一件で切り取ったのはほぼ子一族のみで、それ以外に癒着があった高官はまだまだいるはずだ。
どこまで大人しくしているのか、いっそずっと静かにしてくれていれば助かる。
逆に声を大きくし始めた者たちは、子一族と関係がなかった者たちか、それともよほど肝がすわっているかのどちらかだろう。
その中に一人、気になる人物がいた。
立場としては、子昌を小物にしたような奴、その印象が強い。だが、その上位互換がいなくなったことで、一気に存在感を増している。
宦官ではなくなったものの、その仕事はまだ壬氏が請け負っているようなものだ。
今、後宮にいる上級妃は二人、一人は梨花妃。今上と壬氏の遠縁にあたり、現在、二人目の子を出産したばかりである。子は男子であるが、すでに寵妃であった玉葉が后となったこと、その男児が東宮となっている。玉葉后になにか不幸が起きない限り、正室になる可能性は低いし、今上もそのつもりだ。
血が濃くなることで、子が病弱になると現在、医官として戻ってきた羅門が言っていた。それをすでに知っていたのもある。
同時に。
玉葉后は西方、戌西州の出身だ。今後、隣国と諍いがある場合、こちらは重要な土地となる。
后の選定には壬氏はまだ早いのでは、と思ったが、こう説明されると納得するしかない。
梨花妃は聡い。それも十分頭に入れて理解している。
だが、もう一人の妃はといえば。
里樹妃、今年で数え十六、もう大人として扱っていいころだが……。
ふうっと壬氏は息を吐く。
今上の女性の好みは知っている。実に女らしいふくよかな者が好みだ。先帝の性癖を知るため、その嫌悪感からか元々の好みだかは知らない。
だが、妃というものが、職であり、同時に政治の調整を取っていることは思い出してほしい。
形だけでも渡りがあればと思うのは、男だから言える繊細さの欠片もない言葉だろうか。
今上としては、好みではない他に理由があった。
元上級妃、阿多は里樹妃を娘のように可愛がっていた。今上も東宮時代、何度か里樹妃と阿多の三人で茶会をやっていたらしい。
疑似的な家族、それを作っていた。
ふくよかな女性が好みか。
それも一つの弁明に聞こえる。
阿多は子が産めなくなる前も、すらりとした体型だった。
だが、今上は東宮時代、阿多の他に妃を置こうとしなかった。
それがどういう意味か。
壬氏もそれに気づいたのはここ数年の間で、高順はかなり前から気が付いていた。
わからなかった壬氏は、宦官壬氏となる羽目になった。己が次の帝という立場につきたくないために、兄に妻をあてがう役に名乗り出た。
今思えば、なんと残酷なことをしたと思う。
ふうっと息を吐き、朝議用の資料を閉じる。
寝台に入り、明かりを消す。最近、寝る前の鍛錬をさぼっているなと思いつつ、眠ることにした。
明日は、その件について今上に伝えよう。
形なりとも御通りを見せてしまえば、今、少しずつ顔を大きくさせている官も落ち着くかもしれない。逆もありうるが、その場合は仕方ない。
子昌の下位互換の男、それは里樹妃の父、卯柳だった。