十一、白蛇仙女 後編
どういうことだろうかと思いつつ、猫猫は席へと戻った。
周りには歓声が起こっている。皆、ほろ酔いなのか、声が陽気だ。
ただ、壬氏たちだけはじっと猫猫が戻ってくるのを待っていた。
「なあ、あれはなんだったんだ?」
「なんだと言われましても」
興味津々で聞いてきたのは、馬閃だった。
「おまえ、もしかして何か銭でも掴まされたのではないか?」
失礼なことを抜かすと猫猫は思った。すぐさま、高順の拳骨が落ちてきたので馬閃は黙る。
「何も持たされていませんよ」
猫猫は手のひらを開き、袖も裏返して見せる。
「誰かに見られたか?」
「いえ」
檀上には白娘々と手伝いの男しかいなかった。文字も見られていないだろうし、どの筒にいれたかは上から布をかぶせていたのでわからないはずだ。
(もしかして……)
猫猫はふと檀上を見る。天井には提灯がぶら下がっており、赤い房が揺れていた。
もしかして鏡があれば、猫猫の書いた文字も見られるのではと思ったが違う。天井にはそれらしきものを張り付けるのは難しそうだし、なによりそれに見合う鏡が必要だ。あれだけ靄がかかり、視界も薄暗い中では鏡も曇ってしまう。たとえ、銅鏡でなく渡来品の高級鏡を使っても、見えないだろう。
なにより、あの白娘々は目が悪そうだった。
一尺先もぼやけてしか見えないだろう。
ならばどうやってと思っていると、次の催しが始まっていた。
檀上には新しい机とその上にいろいろな器具がのっている。
白娘々はその中で小さな薄い金属片を箸で掴む。それとは別に皿も用意する。
手伝いの男は金属片と皿を受け取り、盆にのせて劇場内を回っていく。金属片は磨き抜かれたただの銅片にしか見えない。皿の中は液体でこぼれないように深くなっていた。
さすがに二階まで回る暇はないようで、上から不満の声がちらほら聞こえる。これは席代の違いなので諦めてもらおう。
戻ってきた男から金属片と皿を白娘々が受け取る。そして、金属片は皿の中へ、皿はいつのまにか用意されていた火にかけられた。
白娘々はそれを入れると、まじないのようなものを唱えはじめ、舞を踊り始める。靄がかかった薄暗い室内では、彼女の全身が輝いて見えた。
舞が終わると娘々は箸をとり、中の金属片を取って見せる。
(色が変わってる)
銅の赤みがかった色から銀色になっている。
近くにいたものたちが「おおっ!」と歓声を上げている。
「銅から銀に変わったぞ!」
「本当か!?」
遠くにいるものは見えず、それでも他の者たちの反応を見て前に前にと近づきはじめる。舞台の上に上がるのだけは、護衛のものたちに止められるがそこまで近づけばわかるだろう。
それを娘々は液体で洗って布でふき取る。そして、今度はそれを直接火に当てる。
歓声がさらに大きくなる。
「銀が金になった!」
銀色が今度は輝くばかりの金色に変わった。
娘々はそれを箸でふり、熱を飛ばしながら皿の上にのせる。金色に輝く板を男が皆によく見えるように見せて回る。
「……これは説明できるか?」
壬氏が腕を組みながら言った。
「後程。今は余興を楽しみませんか?」
猫猫は目をきらきらさせながら言った。正直、目を離すのはもったいないと思ったからだ。
たとえ彼女が仙女でなくとも、それだけ価値があるものだった。
その後、いくつか白娘々は面白い見せ物をやってくれた。
濡れた石を紙の上にのせる。それにまじないをかけておくと、しばしのち火が起こる。
どこからともなく蝶を出したかと思えば、それが飛んでいき、そして燃え上がり灰になって消える。
どれも観客の歓声を受けた。そして、最後にと。
娘々は輝く銀色の液体を持ってくる。
不思議なその液体に皆が注目する中、娘はそれを小さな盃に入れてそれをこくんと飲み干した。
「!?」
思わず猫猫は立ち上がりそうになる。
しかし、半分腰を上げたところで、おしとどめそれを見る。
「今宵も楽しんでいただけましたか?」
娘々は笑顔のまま、檀上から降りて行った。
熱気冷めやらぬ劇場内では、観客たちが今おきたことを楽しげに語っている。ある者は、目に炎を宿し、ある者は崇拝するように仙女がいた場所を見ていた。
ただ、猫猫を含めた四人だけは、そこまで興奮することはなかった。
「ただならぬ感じがするな」
壬氏が、ようやく酒杯に手を伸ばした。
「壬氏さま」
猫猫は思わず、その手を制止した。
「失礼だぞ」
不機嫌そうに馬閃が見る。
「毒見か?」
壬氏が杯を置いた。
「ええ」
猫猫は自分の前にある酒杯を手にする。匂いを嗅ぎ、一滴だけ肌にのせる。その反応をみたら、舌先で舐めるように口に入れる。
「……はっきりとわかりませんが、少し興奮する作用が強い気がします」
酒精は少ない。果実水に近い形で飲みやすいが、それとは別にかすかに他の複雑な味がした。何種類か混ぜ物をしている。塩が少し含まれているのがわかる。
「毒ではないと思います」
ただ、酒精の濃さの割に、効きが強くなるようにしている。ただそれだけだ。
それに……。
ゆらゆらと揺れる灯篭。
薄暗い室内。
不思議な靄と幻想的な仙女。
目の前で起こる不可思議な現象。
(これはこれは)
誰かに盲信する理由としては十分ではなかろうか。
そして、この劇場内の何割がそうなっているだろうか。
はてはてと思いながら、猫猫は酒をちびりと口にした。
(やっぱ少ししょっぱいな)
塩、入れないほうがうまいな、と思った瞬間だった。
「!?」
猫猫はふと酒の杯に指を突っ込んだ。そして、果実酒を墨のように卓の上に滑らす。
「何やってる?」
「こういう事でしたか」
壬氏の疑問に答える間もなく、猫猫は周りを見渡す。
(あれがこうなら、それもなにか種がある)
できれば舞台に立ったときもっと周りを見ていればよかったと後悔した。あそこには何があっただろうか。
靄が他より濃くかかっていて、暑くて、頭が痛くて、それで妙に集中力が途切れた。
(靄……)
多分、あれは湯気だろうか。舞台裏から蒸気をだしているのだろうか。
それなら暑さの理由もわかる。
では、頭が痛いのは。
まるで、蚊が鳴くような感覚だった。
あれはなんだったのだろうか。
(ん?)
もしかして、と思ったとき、舞台の奥にちらりと白娘々が見えた。
猫猫は口に指をあて、唇をすぼめると息を吹いた。
「なに、口笛など吹いてる」
馬閃が目を細めて猫猫を見る。
音はそれほど大きくない。周りはがやがやと五月蠅く、それほど遠くまで聞こえるものではないはずだった。
なのに、白娘々はびくりと肩を揺らして周りを見たようだった。
(ああ。そういうことか)
猫猫はにやりと笑うと、壬氏たちに外に出ませんか、と提案した。
外は寒い。できれば、近くの飯屋にでも入って話したいところだが、覆面のままでは入りにくい。仕方なく、馬車の中で話をすることにした。
緑青館に戻ってからそこで話してもいいが、壬氏たち三人はなにがなんだかすぐ知りたいようだった。
猫猫はまず銅を銀や金に変えた方法について説明することにした。
「あれは黄白術というものによく似ています」
錬丹術といえばもっとわかりやすいだろうか。火薬もまたそれによってできた代物である。
黄白術はその中で、卑金属を金属に変えるものをいう。
錬丹術は人の命を長らえるための術であるが、実際は眉唾なものが多い。古い時代の皇帝が、不老長寿を求めるあまり、間違った方法で命を落としているのは記録に残っている。
たしかに似ているが、でも、どちらかといえば。
「西方にある錬金術というものにもっと近い気がします」
「西方のか?」
「はい」
壬氏の質問に猫猫は頷く。
「私は養父の話を聞いただけで、実際に目にするのは初めてです。ただ、養父は何度かそれを直に見て、その仕組みを理解していました。あれは銀になったわけでも、金になったわけでもありません。周りを鍍金して、火を炙ることで違うものに変化させただけに過ぎないそうです」
猫猫も試したかったが、おやじが肝心の材料を教えてくれなかった。たとえ、教えてもらっても薬屋でそろう材料ではなかっただろう。
「詳しく知りたいのであれば、羅門にたずねてください。ついでに、それを私に教えていただけるとうれしいです」
と、きらんと目を光らせる。
他に紙が自然に燃えたのも、その過程でできる副産物を利用すれば可能であるし、蝶がでてきたのもあれがよくできた紙だとすれば納得がいく。
あの場にいた者たちは、靄で視界が悪く、なおかつ悪酔いする酒を飲んでいた。酒を飲んでいない壬氏たちですら、騙されていたので気づく者はいないだろう。
ちなみに紙で作った蝶は、東方の島国に伝わる奇術の一種に似たようなものがあったはずだ。
「では、おまえが心を見透かされた理由はなんだ?」
「それについても」
猫猫は高順に頼んで、懐紙を二枚と携帯用の筆記用具を貸してもらう。そして、二枚の紙を重ねて、そこに墨をたっぷりつけた筆で『七』と書く。書いた紙のうち、後ろに置いたものを壬氏たちに見せる。
「どうですか?」
「どうもこうも、裏うつりしてるだろ」
そこにはとぎれとぎれだが、『七』としっかりうつっている。
「はい、そういうことです」
「そういうことと言われても、お前の書いたのに裏うつりするような紙があったらばればれだろう」
「ええ、そうですね」
猫猫が書いた紙の下には黒い下敷きがあった。あれでは裏うつりしても見えないだろう。
「でもうつったんです」
猫猫は筆を貰ったときたっぷり墨をつけられていた。妙に安っぽい墨でじゃりじゃりしていたのを覚えている。
「もし、それに墨以外のものが含まれていたとしたら」
たとえば塩だろうか。それが墨に溶かされていた。それを紙に書いたとする。薄い柔らかい紙からにじみ出た墨が黒い下敷きに染み込む。それを乾かすとどうなるのか。
墨に溶けていた塩が乾燥して浮き出てくる。
もちろん、それが塩というのは例えだが、それなら何を書いたかわかるだろう。
「では、どの筒に紙が入っていたのかわかったのはなんだ?」
「あれは、音ですね」
「音?」
あの劇場内では鈴や銅鑼の音が鳴り響いていた。
しかし、それに隠れてもう一つ大切な音があった。
「私は、あの場にいてとても頭が痛くなりました。おそらく気づかない域の高い音がでていたのかと思われます」
高い音は耳が痛くなる。音として認識していなくても、猫猫は無意識に不快感を持っていたらしい。
「高い音?」
「ええ」
猫猫は口笛を吹く。
「これは皆さまに聞こえますよね」
「耳は悪くないぞ」
「では、これは」
音をもっとできるかぎり高いように調整する。壬氏と馬閃は普通の顔をしているが、高順は一瞬首を傾げた。
「聞こえるぞ」
「聞こえます」
「……聞こえますとも」
高順の返事が少し遅かった。
「それはよかった。齢を経るごとに聞こえにくくなるものなので」
高順がかたまった。
まだまだ若いつもりでいるが、それでも身体は老いてくる。
「人は、それぞれ聞こえる音の高さは違うものです」
それは同じ年代でも違ってくる。目の良さに善し悪しがあるように、耳にも良し悪しがある。
あと、断定することはできないが、目が悪いものはそれを補うように耳がいい場合もあると。
「あの仙女の耳はとても敏感にできているでしょう」
遠くから、あの雑音が響く中で、猫猫の口笛に反応した。
笛の音を常日頃、聞き分ける訓練をしているのでは。
故に、あの劇場にある楽器に笛の類がなかったのでは、と。
縦笛も横笛も筒に穴が開いたもので、それをおさえることで、音の高さを変える。もし、あの箱に刺さった百本の筒が笛の穴の代わりをしていたとしよう。猫猫がぎゅうぎゅうに筒の中に紙を詰め込んだのであれば、笛の穴をおさえているのと同じだろう。
「つまり、百通りの音を聞き分けて、何番目かわかったと? それにどうやって、吹くんだ、あの箱が笛の代わりだとして」
「その可能性もありますけど、それよりも確実な方法があります」
銅鑼と鈴の音。それが合図として、十回、笛を吹いたとしたらどうだろう。上から布が被せられてあるので、近くに手伝いの男がいても問題なかった。男が箱の横で、空気を入れる箇所を操作していたら。
百通りの音を覚えずとも、十の音が聞き分けられたら問題ない。
「そして、どうやって吹いたかについては、あの靄で説明がつきます」
靄は湯気、どこからか湯を沸かしてつくっているとする。
その蒸気を机の下から入るようにすればどうだろう。皆、机の上ばかり注目して、その下にある机の構造まで見ていない。
「これで納得できますか?」
「ああ」
壬氏たちが頷いている。
高順だけは、自分の耳を擦りながら遠い目をしている。
「最後に……」
猫猫は、白娘々が最後に飲んでみせた銀色の液体について説明する。
「あれは猛毒です。誰も真似をしないように、高官たちに説明する機会を作ってはいただけませんか?」
猫猫は真剣なまなざしで壬氏に言った。
一言ったら十と言わずとも、二か三はできる程度に壬氏は有能だ。
それでも、相手は何枚か上手だったようだ。
白娘々の舞台はその数日後、あとかたもなく消えてしまった。
代わりに残ったのは、都の商人たちの中で謎の食中毒で死ぬ事件だった。
何がやりたかったのだろうか。
あの白蛇のような仙女は。
その謎を残して消えてしまった。
その昔、時の権力者たちはこぞって不老不死の薬を求めた。その際、金属でありながら液体であるという水のような銀をその薬として服薬した。
結果、命を縮めることになるとは思いもせずに。
その水のような銀は、そのまま水銀と呼ばれている。
あの時、水銀をそのまま飲んだ白娘々はどうなっただろうかと猫猫は思う。水銀はあの液体のままで身体から排出されれば猛毒にはならない。蒸気となって吸ったり、他のものとくっついて形を変えれば重い毒になる。
時にそれは薬としても使われる。毒も薬も使い方次第。
猫猫は丹砂の鮮やかな朱色を見ながら、それをそっと薬棚に片付けた。