九、絵姿
その後、壬氏は夕餉を食べて帰ることになった。
さすがに薬屋の中では狭いので、使われていない客室を用意した。
いうまでもなく、猫猫はまだ残っている飛蝗の煮つけを出した。もちろん、食べさせるつもりはない。ちょっと悪戯をしてやろうという軽い気持ちだった。
壬氏の機嫌が少しでも悪くなったと思ったらすぐ下げるつもりだった。やり手婆もなにか言いたげな顔でにらんでいたのだし。
しかし――。
冗談めかして猫猫が差し出した飛蝗を壬氏は一瞬躊躇いながらも口にした。
思わず猫猫は自分の顔を歪めてしまった。
眉間にしわを寄せながら、もぐもぐと飛蝗を口にする壬氏を見て、なにか見てはいけないものを見てしまった気がした。
それは周りも同じようで、皆が皆、背後に雷でも落ちたような顔をしている。
わなわなと手を震わせる高順。
夕餉を持ってきた禿は、おきにいりの人形を泥で汚されたような泣きべそ顔である。
夕餉をつまみにきた趙迂は、顔を引きつらせて「それはいかんわ」と首を振っている。
やり手婆まで、顔を引きつらせていた。
壬氏はそんな面々を無視して、咀嚼してのみこんだ。嫌な顔は変わらないが、なにか言いたげに猫猫を見る。
「粥」
「あっ、はい」
粥の器を差し出すが、壬氏は受け取ろうとしない。粥と猫猫を交互に見ている。
(冷めるぞ?)
何が言いたいのだろうか、と猫猫は蓮華をとる。具が気にいらないのか、と粥をすくって観察する。
すると、ぱくっと壬氏が食らいついてきた。
「……」
赤子じゃあるまいし。
もう一度、蓮華に粥をすくうとまた近づいてくる。こぼれそうなので、口まで運んでやる。
ぱくりと粥を食べる。
猫猫は半眼になりながら、今度は飛蝗を箸でつまむ。
壬氏はまた顔をしかめながらも、飛蝗に食らいついた。
ひいっ、と高順の叫びが聞こえた。
がたっと音がすると思ったら、禿がべそをかいて床にうずくまり、それを趙迂が宥めていた。
そんなに衝撃映像なのかと、猫猫は思う。子どもには刺激が強かったのかもしれない。
「そばかす、ちょっと連れていくぜ。あとにいちゃん、自分のやってることに責任持ちな」
「……」
壬氏は口をもごもごさせて、飛蝗をのみこむことで精いっぱいである。どうみてもおいしそうに食べているようには見えない。しかし、食らう。
泣く禿を連れていく趙迂。
(悪いことをしたなあ)
壬氏はその顔立ちから、緑青館でもできるだけ顔を見せないようにしている。妓女たちの仕事にならぬとやり手婆も見せたがらない。
ゆえに食事を持ってきた禿は、口がきけない娘だ。親から虐待を受けて挙句売り飛ばされてきた娘らしく、喉を潰され喋ることができない。かなり臆病な性格だが、親元に戻るくらいならとしっかり働いている。
餓鬼大将気質がある趙迂は、そんな気弱な禿を何かと庇うことが多い。「子分だからな」と言い張っているがどうだろうか。
飛蝗を嚥下し終わった壬氏はまた猫猫を見る。
(はいはい)
猫猫はもう一度蓮華を壬氏の口に運んだ。
「おい、そばかす」
壬氏が帰ったあと禿のお守りを終えた趙迂がやってきた。なぜか手には筆と紙を持っている。
「その紙どうした?」
「ああ、婆から貰ったよ」
「けちな婆がくれるのか?」
よく言えば倹約家のやり手婆だ。紙なんて高級品を易々とくれるとは思えない。
「でもくれたんだから、いいだろ。それより、そこ座れ」
「何でだよ」
猫猫としては、さっさと夕餉で遅くなった分、薬屋を片付けて帰りたいところだ。なのに我儘をいう餓鬼がいる。
面倒くさそうに追い払おうとすると、後ろからしわがれた声が聞こえる。
「ほら、趙迂の話を聞いておやり。今日はこっちで眠りな。帰ってから火を焚くのも大変だろうさ。寝間着も用意してある」
「婆、どうかした? 変なもの見て、おかしくなった?」
親切な婆に対して、思わずそう口を滑らせてしまった。婆の婆とも思えぬ速さの拳が頭に落ちる。このくそ婆、年よりだが背は猫猫よりも高く、振り落される威力は思わずのたうちそうになるほどだ。
「いいから。さっきの部屋に布団敷いてる。寝る前に風呂はいっときな、まだあったかいはずだから」
(胡散臭いなあ)
そう思いつつ、せっかくなのでと部屋に入る。趙迂が紙を広げる中、やり手婆もせっせと墨の準備をする。
(胡散臭すぎる)
なぜか野次馬に白鈴小姐と女華小姐がいる。今日はお茶ひきらしい。他の妓女たちは、客の相手をしている。
「婆、線香見とかなくていいのか?」
「右叫に任せてあるさ。適当にやるだろ」
仕事があるのになんでまた、ここに集まるのかと思っていたら、筆の準備を終えた趙迂が猫猫を見ている。
「なんだ?」
「そばかす、好みの男を言ってみろ」
「はあ?」
何を言い出すのか、莫迦莫迦しいとかごに入った寝間着を取り、湯浴みの準備をする。しかし、やり手婆に袖を引っ張られ止められる。
「ほら、真面目にやんな」
「猫猫、お婆に逆らっちゃだめよー」
白鈴まで言ってくれる。
女華はつんとした表情で煙管を吸っている。客が出入りする時間だが、この部屋はあまり周りに知られたくない人専用の部屋なので、そうそう誰かがやってくることはない。なので、多少行儀が悪くても婆は文句を言ったりしない。
「とりあえずどんなのが好みなんだよ、背が高いとか、筋肉質とかあるだろ」
(面倒くせえ)
「でかいより、あんまり大きくないほうがいい」
「ふむふむ」
大人しく答えるのが一番だと、仕方なく猫猫は褥の上に座る。寒いので、足は布団の中にいれておく。
「痩せているよりふくよかな方がいい」
背が高いと小さな猫猫にとって首が痛い。
痩せていたら食わせていないように見られるのが困る。
「髭は?」
「あってもいいけど、濃いのはどうも」
男らしいと言われるが、どちらかといえば汚らしさのほうが強い。大体、手入れを怠った奴のをみると、飯粒がついていて頭にくる。
「じゃあ顔は?」
「鋭いより、柔らかいほうがいい」
狐目とかだめだ、本当に最悪だ。
「眉も下がってるくらいか」
「ああ、そこは任せる」
「ふーん、じゃあこんなものか」
ぺらっと趙迂が描いた紙をはためかせる。
「あらー、なんか地味ねえ」
と、筋肉質な男前を好む白鈴が言う。
「世間知らずっぽい顔だねえ」
やり手婆もあまりいい評価ではない。
「なにこれ、却下」
まったくぶった切ってくれるのは、女華である。三姫の一人であるこの妓女は、妓女でありながら大の男嫌いという難儀な性格をしている。大抵の雄は却下だ。
そして、猫猫もそれを目にする。
「……」
「どうしたんだい?」
無言の猫猫にやり手婆が聞く。
「いえ、あまりに似ていたものですから」
「ええー、猫猫もしかして、好きな殿方いたのー」
はしゃぐ白鈴に対して、やり手婆の表情は浮かない。
確かに嫌いではなかろう。
「どんな男だい?」
「いや、男という以前に」
宦官だから……。
そこにはやぶ医者そっくりの男が描かれていた。
拍子抜けした答えののち、皆、さっさと部屋を出て行った。
「なーんだつまらない」
恋話で花を咲かせようとしていた白鈴は、興味を失うと一番最初に出て行った。ちらりと猫猫を見たが、気が付かなかったことにしておこう。
やり手婆もつまらない顔ででていき、趙迂は風呂へと向かう。
最後に残ったのは、煙管を吸っている女華だけだ。
女華はそっと窓を開ける。開けた隙間から冷たい風が吹き込んでくる。墨を溶いたような空に半月とまばらな星、それから男女の影をうつした窓が見える。
今宵もこの娼館ではいくつもの恋が生まれ、そして夜明けとともに消えていく。
紫煙を吐きながら、女華は猫猫を見る。
「私は賛成だね。男なんてもの、いつ気が変わるかわかりゃしない。それが力を持つ男ならなおさらだ」
女華は煙管を置く。その仕草が気だるげだが、それでいてうつくしい。三姫の最年少は、才女としてその教養を客人から尊ばれる。女華の話についていけたら、科挙に受かるとまで言われる。
「白鈴姐みたいな性格なら止めやしないよ。白鈴姐もやきもきしているけど、性格が違うってわかってほしいもんだよ。猫猫、あんたはどっちかといえばあたしよりだからね」
何を言っているのかわかる。
多分、それはきっとあのことだろう。
「心が変わらぬ御仁はいない。ここにいたら嫌というほどわかるから。信じたところでなんになる」
女華はもう一度煙管を取ると、中の灰を静かに落とす。そして、葉煙草を詰めて火鉢から火種をとる。
白い煙が彼女を包む。
「所詮、私は女郎で、あんたは女郎の子」
それが現実だ。
猫猫は火鉢に落とした灰を見て、少し眉間にしわを寄せる。
「小姐、ちょっと吸い過ぎだろ?」
「いいさ、たまには。真面目な面した文官どもは、女が煙管吸うのを嫌うからね」
客がいないときくらい、好きなようにさせろと、ふうっと空にめがけて煙をふいた。