七、医官のその後
猫猫が書いた文は男衆に頼んですぐ届けてもらった。壬氏に直接届けるとなれば、段階を踏まないといけないので、大体、高順か馬閃に頼む。しかし、馬閃はけっこう抜けている部分が多いので、高順宛がほとんどだ。
早いもので翌朝には文の返事がきた。そして、すぐさま猫猫を迎えにくる馬車が来た。翠苓がいる場所、そこに向かうためだ。たしか、元四夫人である阿多の元にいると聞いた。
猫猫はやってきた従者に図録をすべて預けると、薬屋の戸を閉めた。
「いいなー、出かけるのか?」
興味津々で猫猫の袖を引っ張るのは趙迂だった。猫猫は顔をしかめる。
「連れてってくれよー」
「だめだ」
阿多の元には翠苓だけでなく、子の一族の子どもたちがいる。せっかく離して育てているのに連れて行っては元も子もない。
「なんだよ、けち!」
「仕事で行くんだ。お前は、店先の掃除でもしてろ」
頭をぽんぽん叩いて近くにいた右叫に引き渡す。子ども好きな右叫は趙迂を肩車するとそのまま馬車から離れて行った。
もし、半身に麻痺が残っていなかったら男衆として育てる手もあっただろう。しかし、娼館の護衛にはそれなりの腕っぷしが必要だ。
(薬屋にしようか)
だが、今のところ興味すら示さない。猫猫があの年頃なら生薬の調合を百は覚えていたはずだ。
(おもしろいのに)
猫猫は少し不貞腐れた顔をして、馬車に乗った。
阿多の屋敷は、皇帝の離宮ともあって大層立派なものであった。そのためか、猫猫は馬車を降りる前に、服を着替えさせられた。阿多ならそんなもの気にしそうにもないが、それが礼儀というのだろう。
猫猫は長い裳をつかみ、汚さないように歩いていく。立派な門構えをくぐり、砂利が敷き詰められた庭を歩く。庭石と砂利と苔で一枚の絵を描いたような庭は、庭師の誇りを感じさせる美しさがあった。
しばし歩いたのち、着いた部屋には、家主である阿多ともう一人いた。どちらも殿方のような恰好をしている。もう一人は、翠苓だった。
「いらっしゃい」
凛とした口調は変わらず、むしろ前よりいきいきしている。格好といい、今の生活があっているのだろう。
翠苓もまた、それにならってか、それとも別の理由か男装をしている。相変わらず無表情で、阿多の一歩後ろにたっていた。
「前口上は特に必要ないだろう。私は同席するが、話は気にせず進めてくれ」
といって、阿多はゆったりと長椅子に座った。
座れと手で合図されたので、次に客人である猫猫が座り、最後に翠苓が座った。
(気にせずと言われても)
気になってしまうのが普通だろう。やりにくさを感じながら猫猫は従者が持ってきた図録を卓子の上にのせる。
とりあえず、知られてまずいことなら壬氏あたりがもっと考慮してくれるはずだ、そのまま話を進めるしかない。
「これに見覚えはありませんか?」
「師が使っていたものです」
阿多の前だからだろうか、翠苓の物言いはいつもより慇懃だった。
「これで全部ですか?」
その質問に、翠苓は首を傾げながら、図録を見る。
「……一冊足りません。たしか十五冊あったはずです」
「残り一冊はどこにあるかわかりますか?」
「わかりません」
静かな声で言う翠苓は嘘を言っているようには見えなかった。なにより嘘をいう理由がなかろう。
彼女はすでに子の一族との関係はなくなっている。今更表にでるわけにもいかぬ彼女は、飼い殺しの人生しか残されていない。
これからどうするのか、帝が何を考えているのかわからないが、猫猫はそれが勿体ないと思う。
本を知らないというなら、次にこの質問をぶつけるしかない。
「では、貴方の師というのは、今どこにいるんでしょうか?」
びくりと翠苓がはねたのを見逃さなかった。阿多は茶を飲みながら、その様子を見ている。
「やはり、生きているのですね」
猫猫は確認するように言った。
「蘇りの薬、その師は自ら試されたのですね?」
翠苓の視線が下がる。ゆっくり目をつむり、そして観念したように頷いた。
「……その通りです。でなければあの砦から、出ることはできなかったでしょう」
実験も兼ねて、翠苓の師は蘇りの薬を飲んだ。そして、その口ぶりからまだ生きていることが察せられる。ただ――。
「けれど、知りたいことは聞き出せないでしょう?」
「どういうことですか?」
猫猫の問に翠苓は目をうっすらあけて答える。
「趙迂ですね、今の名前は。あの子を見ていて想像がつきませんか?」
趙迂は、薬を飲んで死に、蘇った。しかし、その結果、半身の自由を奪われた。過去の記憶もなくなってしまった。
「古い記憶をなくしたとでも?」
「少し違いますが、そんなところです。むしろ、知らずにすれ違っているかもしれませんが」
「どういうことでしょうか?」
翠苓は悲しそうにまつ毛を伏せる。
「子どもたちの療養に使った温泉郷は覚えていますか?」
「ええ」
「そこにいた寝たきりの老人の一人が私の師です」
温泉郷の一か所にそれらしき場所があったのは覚えている。すでに痴呆が始まったものが多く徘徊していたのもいた。
「すでに自分が何者であるかも忘れているでしょう。もし師が健在であれば、あの子もあなたをあの事件に巻き込もうなんて考えなかったはずです」
『あの子』といって、また翠苓の顔が暗くなる。
翠苓と子翠、その二人が異母姉妹としてどんな関係を築いていたのか、猫猫にはわからない。ただ、子翠が事を起こした理由に自分も関係しているのだろうと、賢い翠苓なら気づいているはずだ。
「……そういうことですか」
がっくりと猫猫は全身から力が抜けた気がした。
せっかく手に入れた情報だと思ったのに。いや、まだ望みはある。
「では、その師が研究していたという蝗のことについて知りたいのですが」
猫猫は虫の図録を翠苓の前に置く。
しかし、翠苓はまたも首を振る。
「私はその件について関与していません。虫のことについては、あの子の領分だったので」
そして『あの子』はもういない。
猫猫はもう一度、肩をがっくりと落とす。
「不死の薬を作れと命じられた際、師がそれまで調べていた資料はほぼ処分されました。持ってこられたのはあの部屋にあったものくらいです」
不死の薬を作るのに集中するため、それまでの研究を無しにしようとした。それでも続けたかった翠苓の師は、左膳を使っていろいろ調べていた。
「なるほどねえ」
ふと、ずっと静かに聞いていた阿多が動いた。湯飲みを卓子に置き、翠苓を見る。
「『あの子』というのはとても聡い子だったように聞こえるね」
「いくら聡い子でももういません」
いないものは仕方ない。どうしようもない。
「では、その聡い子がなにか残さずにいなくなったと?」
『!?』
ばたんと音がした。猫猫が卓子に手をついて、翠苓が勢いよく立ち上がった。
「……いや、申し訳ありません」
「いいよ、もっと気楽にして」
謝る翠苓に、阿多が言った。
「私は堅苦しいのが嫌いだ。もっと気楽にしてもらいたい。こっちなんて、そんなこと気にすることもなく、考え込んでいるじゃないか」
いや、謝罪を入れるべきだと猫猫も思っている。しかし、さっきの阿多の言葉でなにかが引っ掛かっていることに気づく。
なんだっただろうか。
一体なにが……。
記憶をたどる。砦でなにかあったか。それともその前に……。
その前、後宮、医局か、いや違う。
たしかそこは……。
猫猫はまたばんっと卓子を叩いた。
「診療所だ! 診療所です、診療所は今どうなっていますか?」
猫猫が後宮からさらわれる前、診療所にいた。そこで見つけたもの。本棚の中に入れられる書物。それは図録、それも虫のではなかっただろうか。
(抜け目がないやつ)
もう会えることがない娘を思い出し、猫猫は笑った。そのぎりぎりを狙って、猫猫に見せていたのかもしれないと思うと悔しさを通り越して、笑いがこみ上げてくる。
楽しそうに笑いながら悪戯をしかけてくる子翠の顔を思い出しながら、猫猫は何度も卓子を叩いた。