六、最後の一冊
数冊の図録を持って薬屋の戸を叩いたのは、高順の息子、馬閃だった。
猫猫は、あいも変わらず不機嫌そうな青年に潰れた座布団を差出し、茶を注いだ。
「壬氏さまは忙しい」
つまり、ここに来る暇はないと言いたいらしい。
未だ壬氏の宦官名を使うのは、偽名という意味もあるが、なにより本名を口にできないからだろう。やんごとなきお名前は市井の民の前で軽々しく口にしてはならない。
いつもの美丈夫とそのお付以外の客に、緑青館の妓女たちは目をぎらぎらさせている。特にやり手婆は、さりげないふりをして頭で算盤をはじいているのがわかる。
壬氏のときと違い、薬屋の戸は開かれたままでその様子がありありとわかる。
「言っていたものだ」
馬閃は、布包みから分厚い本を差し出す。中から、見覚えがある図録が出てくる。
鳥、魚、虫、植物と並ぶ中、虫の図録を取る。
猫猫が基本興味あるのは、生薬の材料になるものだ。植物の図録は舐めるように読んだが、虫の図録はぱらぱらのぞいただけに過ぎない。
(あったかなあ)
しかし、蝗の研究をしていたと左膳がいっていた。あるはずだ。
だが、見つからない。何度見直しても見つからない。挙句、馬閃までぱらぱら見始める。
「……ないのか?」
「ないですね」
「あると言っただろう?」
そう言われてもないといったらない。
なんだ、これは。左膳にだまされたのだろうか。
いや、あの男がそんなことをしても利点はない。
「これは保管中、誰かが持っていったということはありませんか?」
「誰がこんなものに興味を持つ」
「好きな人は好きですから」
しかし、それも考えづらいだろう。わざわざあの場で盗むのならもっとわかりやすく高価なものがあったはずだ。
唸っていると、薬屋のほうへと近づいてくる影に気が付いた。
しゃなりしゃなりと柳のようにゆるやかに、それでいて豊満な身を持った主は、白鈴小姐だった。
(……)
猫猫は顔を歪めた。白鈴の後ろにはそれを止める様子もないやり手婆が見える。馬閃の値踏みはとうに終えたらしい。
白鈴小姐はとても快い妓女だ。緑青館で最年長の妓女であるが、その美しさに衰えもなく、いまだ多くの殿方を魅了している。駄犬こと武官の李白がいい例だ。
舞踏ではこの都で一番といわれる踊り手でもある。
若い妓女や禿たちにも優しく、良い姐御だが……。
そんな彼女にも欠点くらいある。
ゆらりとあらわれた白鈴は、馬閃の後ろに立った。そして、その整えられた美しい指先を馬閃の頬に滑らせる。
「!?」
ぞくっとした馬閃は思わず座ったまま飛んだ。よくわからないかもしれないが、座ったまま飛び跳ねるという器用なことをやってくれた。
「小姐」
「あっ、ごめんなさい。肩に埃がついていたもので」
嘘だ、絶対嘘だ。
なぜ、頬に触れる必要がある。
そのしゃなりとした動き、その一つ一つに女らしさが漂っている。
その目はたおやかに微笑んでいるようだが、猫猫はそれを肉食獣の狩りの目と思う。
ここ数日、小姐は茶ひき、つまり客がいない状況だ。それは彼女が売れないわけじゃなく、毎日客をとる真似は高級妓女にはむしろみっともないからである。
つまり、なんというのだろうか。
この妓女はそれが不満らしい。
欲求不満ということである。
「な、なんだ。一体!?」
「あら、まだ取れていませんよ。ほら、とってさしあげますのでそのままじっとして」
狭い薬屋の中を馬閃が後ずさり、それを白鈴が追う。
猫猫は物がひっくり返されないように、馬閃が来る前に薬研やすり鉢を棚の上に置く。湯飲みと茶菓子は盆において、手に持つ。
(初回は奉仕してくれるよ)
いや、そんな余裕はなく、馬閃の顔は赤いのか青いのかわからない。ここで李白が来たら面白いことになるだろうな、と猫猫は履をはき、確保した茶菓子を口にする。壬氏が来るときより、一段低い菓子を出すのがいかにもやり手婆らしい。それでも十分上等品であり、ほのかに海老の香りがする煎餅は猫猫の好みにあう。
(ありゃ、初物だわ)
なんとなくそれは察知していたけど、確信した。なるほどと思いながら、壁によりかかり、煎餅をもう一枚つまみ、茶で流し込む。
羨ましそうに禿たちが見ているが、やり手婆の前でやるわけにはいかない。仕方なく、もう一枚つまむのをやめて残しておくことにする。
「ああ! もう、帰る。とりあえず渡すものは渡したからな!」
ほどけかけた帯を引きずりながら、馬閃が薬屋を出て行った。
「ああん」
名残惜しそうに白鈴が座り込む。
「せっかくの初物なのに……」
やっぱり初物らしい。
こういうところがなければ、本当にいい姐御なのだが。年々ひどくなっている気がする。
「一度はまれば極楽だっていうのにねえ」
やり手婆も悔しそうに言った。
(いや、駄目だろ?)
これは早く李白に銭を貯めてもらって身請けしてもらわないと、と猫猫は思った。
左膳は、外で掃除をしていた。
腕っぷしがまだまだ男衆として物足りないうちは、こうして禿の仕事と変わらぬことをやらされる。それが、男衆頭の右叫のやりかただ。これで満足しているようなら、男衆として役に立たずそのうち解雇する。これに憤慨して、他の仕事を覚えようとしたものはちゃんと引き立ててやる。
左膳が鼻歌まじりで箒を持っているところを見ると、どう見ても解雇される側にしかみえない。
「おい」
「ん?」
薄汚い格好を着替えさせられ、髭もそった左膳はいくらか若く見えた。
「本がとどいた」
そういって、猫猫はさきほど馬閃が持ってきた本を見せる。どすんと、猫猫は布包みにくるまった本を置く。
「おまえの言っていたことと違うぞ」
左膳が持っていた分も合わせて全部で十四冊。しかし、蝗のことが書かれているものはない。たしか猫猫があの研究部屋にいたとき、十四冊あったので数は間違いないはずだ。
「いや、そんなはずねえぞ」
左膳は布包みをはぎ取り、中を確認する。
目を細めて、じっと見る。
「おい、これで全部じゃねえぞ」
「あの部屋にあったのはこれで全部だぞ」
さすがに猫猫も数を数え間違えたりしない。
「いや、この本」
左膳は虫の本を持つ。虫の図録は二冊、どちらも蝗に関する表記はなかった。番号が『壱』、『弐』と振ってある。
「虫の図録は三冊あるはずだ」
「……なんだよ」
それじゃあ、最初からあの部屋になかったことになる。少なくとも、猫猫が来た時点ですでに誰かに持ち出されていたということだ。
「うわー、誰だよ。あんなもん持って行くようなのは」
「おまえだろ?」
「いや、そうじゃなくて。じいさんいたときは、ちゃんとあったんだよ」
じいさんといえば、後宮を追い出された医官のことだろう。確か、不老不死の研究をしていたと聞く。
「じいさんの棺にでもいれたのかなあ」
「なんでそんな真似する?」
「俺の故郷はそういう風習あんだよ」
いや、左膳の故郷なんて興味がない。
しかし、左膳のいうじいさんには興味がある。
「そう言えば、どうして死んだんだ?」
老衰だろうか。生きていれば、おやじと同じくらいの齢なので別におかしくない。
「それがな。実験の失敗みたいだぜ」
「失敗?」
「不死の薬なんてもん作るからやはり、実験が必要だろ?」
(それって……)
猫猫は不思議に思っていたことがあった。
趙迂含めた子どもたちに使った蘇りの薬、あれについて。
趙迂は身体のしびれが残ったが、元々、一度死んでからもう一度息を吹き返す薬なんてものは、そうそう上手くできるわけがない。何度も実験を繰り返し、その成功例を上げていくしかないと猫猫は思う。
では、その実験を何で試したのか。
動物か。それも、同じ人間で試さないといけないだろう。
「おい、どうしたんだ? うっ!」
左膳の顔が引きつっている。なんでだろうと思ったが、それはすぐわかった。
自分の口角が普段ないくらい大きく歪んでいた。
にんまりと笑っていた。
「なあ、その遺体はどこで処理した?」
「知らねえよ。大体そういうのは、あの人がしてたからな」
「あの人?」
左膳はぼりぼりと頭をかく。
「翠苓さんっていったらわかるかな。じいさんの助手をやってたからな」
「よっし!」
猫猫は思わず、左膳の背中を思い切りたたいた。
「いって! なんだよ」
「わかった、掃除さぼるなよ」
猫猫は布包みに本を包み直すと、急いで薬屋へと戻り文の準備をした。