五、火鼠の皮衣
壬氏が帰ったのは夕暮れ、日が沈む前だった。眠ったおかげだろうか、顔色はよく寝起きに粥を三杯も食べた。
帰って夕餉が食べられず、水蓮に怒られやしないかと思うのは、お節介だろうか。
覆面をしっかりつけて、猫猫は馬車を見送る。すると、なんだか視線を感じた。振り返ってみると、蓮っ葉な格好をした妓女が二階の欄干によりかかって煙管をふいていた。三姫の一人、白鈴だ。豊かな肢体が着物の隙間からはみ出ている。
「そろそろ観念したらどーなの?」
「なんのこと?」
猫猫はにやにや笑う小姐を無視して、薬屋に戻った。
薬屋は緑青館の行燈の火がつくとともに閉店だ。夜中に仕事をしたってろくな客は来ないし、灯の油代だって勿体ない。
店の売り上げは数えたのち、やり手婆に預ける。猫猫が住むあばら家では大金を持っていたら、強盗に狙われる。いくらか金を払って、ちゃんと保管してもらったほうがいい。火種と薬草をまとめて、狭い店に鍵をかける。
「おい、帰るぞー」
「ええー、もうかよー」
渋る趙迂の首根っこをつかまえて猫猫は、あばら家に戻る。緑青館のすぐ裏手にある家は、隙間風が通り、とても寒い。
火種を竈の焚きつけの紙につける。火が大きくなったところで薪を足す。
趙迂は寒いらしく、布団にくるまって寝藁の上で丸くなっている。
猫猫は竈の鍋をかき混ぜながら汁を温める。干し肉を出汁に、庭で採れた野菜と葛を混ぜている。寒いので、さらに生姜を削って入れる。
「おい、食わないのか?」
「喰うよー」
芋虫のような格好で動き回ろうとする趙迂に拳骨を落とし、布団を奪う代わりに綿入れを投げつける。
(冬物、もう一着欲しいな)
金は十分貰っていたが、それを無駄遣いする気はない。趙迂はぶつくさ言うが、猫猫に預けられた以上、働かざる者食うべからずの教育を施していくつもりだ。
欠けた椀に汁を入れて趙迂に渡す。趙迂は椅子の上で膝を立てて汁をすすった。
「肉増やせー」
「なら、稼いでこい」
猫猫は、ずずっと汁を口にした。粥はなく、かわりに麺麭をいただく。買い置きの麺麭を鍋の横に引っかけて温め、それを真ん中から割って中に野菜の煮つけを入れる。
「そばかすー、おまえけっこう稼いでるんだから、もっといいもん食ったらどうだー?」
文句を言いつつも、二個目の麺麭に手を出す趙迂。
「ばーか、あの婆から店を借りてんだぞ。家賃いくらすると思ってる?」
「なら、別の場所に移動しろよー」
「あのなあ。他でやっていくにも、いろいろあんだよ」
そういって猫猫は汁の残りを麺麭に染み込ませて口に放り込んだ。
もう少し贅沢しようと思えばできるだろう。でも、そうしない理由位ある。
「……明日、着物買いに行くからついて来い。そのままだと寒いだろう」
猫猫はそれだけ言うと食器を片づけ始めた。
趙迂は「やった」と大きく手足を広げたが、そのまま椅子から転げ落ちた。半身にしびれがあるためか、上手く受け身が取れず、ごろごろとのたうちまわっている。
(……)
猫猫は冷めた目でそれを見ながら、茶碗を水桶につけた。
翌日、猫猫たちは市に出かけた。都を東西に分断する大通り、そこには毎日、市がたつ。北に行くほど立派な店舗が並び、南へ行くほどその階級は下がる。花街は都の南にあるので、市の始まりは天幕もなく筵に商品が並んだだけの粗末なものから始まる。
さらに脇道に入ると、怪しげな屋台も多い。花街が近いこともあってか、妙な薬を売る店も少なくない。もちろん、薬師の猫猫がそんなものに引っかかるわけもなく、商売人たちも客とは思わず声をかけない。
動き回る趙迂の首根っこを毎回ひっつかみながら、猫猫は都の中央へと向かう。安物買いの銭失いという言葉がある。露店の綿入れは確かに安いが、生地が粗末だ。あれでは悪餓鬼が走り回ったらすぐ破れてしまうだろう。
多少高くても、店舗をしっかり持った店の商品は安心できる。その土地に根付いた商売をしているので、信用を大切にしているからだ。
猫猫は連なった店舗の中から行きつけの店に入る。庶民向けの服屋だが、古着も扱っている。
日よけをくぐり、店内に入ると天井から服がぶら下がっている。奥には、店の主人が欠伸をしながら衣の繕いをしている。隣に置いてある火鉢からぱちぱちと炭が爆ぜる音がする。衣に火花が散らないように囲いがしてある。
「えー、古着かよー」
「贅沢いうな」
趙迂はまだ小さい。これからどんどん大きくなる。さっさと買い替えられる服のほうが都合がいい。
子ども用の綿入れはないか、商品を見ていると、ふと目についたものがあった。
「なんだこれ?」
目ざとく趙迂がやってくる。それは壁にかけられた衣だった。長襖裙であり、上下とも白く、ゆえに味気なく見える。どこか異民族の衣装に似ており、不思議な雰囲気が漂っていた。袖に蔦のような刺繍が施してあり、それが目についた。
「なんかみすぼらしいな」
正直者の糞餓鬼は思ったことを口にする。店の親爺がきいてるだろうがと、頭をこつんと叩くが、聞こえてきたのは笑い声だった。
「ははっ、それがみすぼらしいと思うかい?」
「だってそうだろ? 娘衣装ならもっと華やかな色使うもんじゃないか」
「そうだろうねえ」
店の主人は針山に針を刺し、こった肩をほぐしながらこちらにやってきた。
そして、目を細めながらその衣装を見る。
「これはね、天女が着ていた衣なのさ」
「天女?」
趙迂は興味津々で身を乗り出す。身体に麻痺が残るため、ずっと立ちっぱなしはきついのか、いつのまに箪笥の上に座っていた。
猫猫は呆れながら店内の物色を続ける。ここの主人はそうやって客に話しかけ、時間を潰すのだ。それがどこからどこまで本当なのかわからない。ただ、よく養父の羅門がつかまって半日仕事を潰す羽目になっていたのを覚えている。
(さっさと決めて、さっさと帰ろう)
趙迂が話に夢中になっているのはちょうどいい、そのあいだに決めてしまおう。しかし、狭い店内では主人の話は否応なく聞こえてきた。
〇●〇
そうだねえ、この衣装は西方から持ち込まれた品なんだよ。
西方のとある村で、村人が道に迷う娘を助けたそうだ。娘は美しく、村人はその娘に惚れちまった。
娘は不思議な娘で、娘がつむぐ糸はほかのどんな糸とも違い、それで何枚も衣を織って助けてくれた村人に恩返しをした。不思議な紋様が刺繍されたその衣は、他の織物の何倍もの値段で売れた。
娘は何度も故郷に帰りたがっていたが、どこに住んでいるのかさえわからない。村人は娘に何度も求婚し、娘はとうとう受け入れることにしたのさ。
でもね、時機が悪かったようでね。ちょうどそのころ、娘を探しに来た娘の家族が村を訪れた。村人はせっかく手に入れた娘を手放したくない。娘を隠し、村人総勢で知らぬ存ぜぬを突き通したのさ。
一度は帰った娘の家族だったけど、怪しんでいるようだった。だから、村人は婚儀をさっさとすませて娘を嫁にしてしまうことにした。一度、結婚しちまえば、家族はもう家族じゃなくなるからねえ。
娘は拒むがそんなこと村人には知ったことではない。村の泉で沐浴をさせて身を清めさせ、さっさと婚礼の儀を行うことにした。
娘は泣きながら沐浴をした。せめてもと、その身に着ける花嫁衣装は、娘が作った故郷のものを身につけた。
娘の悲しみはいかほどだったろうか。花嫁衣装に着替えても、その涙は涸れることなく全身を濡らし続けた。
周りが祝う中、娘は村人と誓の儀をするために祭壇へと向かう。しかし、娘はやはり家族のことを忘れきれなかったらしい。
家族のもとに返してほしいと懇願した。
それでだめだというのなら、と娘はその場にあった油をかぶった。そして、松明の火を身体につけたのだった。
燃え上がる娘は惑う村人たちの間を駆け抜けた。そして、泉の中に消えてしまった。
そこに残ったのは一枚の布、娘が頭にかぶっていた紗だけだった。
火だるまになった娘はおらず、それはもしかしたら天へと帰ったのだと村人は思った。
娘の家族も消えており、娘とともに空へと消えたのだと、皆納得したのさ。
〇●〇
「そして、これは天女が織った衣なんだよ」
「へええ」
感心する趙迂。
猫猫はこんなものかな、と手に取った数着の綿入れを趙迂の背中に合わせる。
「なあ、そばかす。これ、すごい。すごいよ、買ったらどうだ?」
目をきらきらさせて趙迂が言った。
「そうだねえ、嬢ちゃんなら天女とさほど年齢も変わらないくらいだろう。そのよしみでお安くしとくよ」
そんなこというが、はじいた算盤は桁が一つ違う。猫猫はつい鼻で笑いそうになった。
「おいおい、天女の伝説が信じられないのかい? 浪漫がないねえ」
両手を広げ「やれやれ」と首を振る店の主人。猫猫は、目を細めてその天女が織った衣とやらを見てみる。
「ちょっとさわっていいかい?」
「ああ、汚すなよ」
手触りを確かめて袖の紋様を凝視する、そして、にやりと笑う。
「主人、これ、この値段で売れそうかい?」
「……な、なにを言ってるんだい。売れるにきまってるだろう」
その割には、猫猫に売りつけようとしていた。本当に天女の衣なら、もう一桁額が違ってもいいはずだ。
猫猫は持ってきた衣を手にした。
「なあ、主人、これをこの値段の十倍で売ったらどうする?」
「十倍だって? はは、そうなりゃ嬉しいねえ。その持っている衣、ただにしてやるよ」
冗談めかしていった。
「ほうほう、そうかい? 趙迂、今の聞いたか?」
「聞いたけど、十倍なんて売れるわけないだろ? 何言ってんだよ、そばかす」
趙迂まで莫迦にしたように言った。
猫猫は唇をゆがめると、火鉢の炭を鉄箸でつかんだ。
「主人、この衣と炭をちょっと借りるよ」
「おい! 何すんだい!」
猫猫は懐から、銭袋を取り出して箪笥の上にどんと置いた。ありったけの金だが、この衣一枚分にはなるはずだ。
黙った店の親爺を後目に、衣と炭を持って店の外に出る。
そして、猫猫は衣を道に投げた。
「お、おい!」
店の主人が顔をゆがめるが知ったことではない。
そして、箸で掴んだ炭をその衣の上に落とした。
「そばかすー、ちょっとあついよー」
綿入れを何枚も着こんだ趙迂が言った。重ね着しすぎて、まるで達磨のような体型になっている。
「なら、脱げ」
持つのが嫌だからって着込んだのは趙迂である。猫猫は、右手に新しい着物を手にしていた。
もう少し色合いが落ち着いたほうが猫猫の好みだがただでもらったものにけちをつけるつもりはない。
「なあ、そばかす。なんで、あの衣、燃えなかったんだ?」
首を傾げて趙迂が言った。
店の主人が天女の衣といった品、猫猫は思わず鼻で笑ってしまった。そんなものより、もっといい名前があるというのに。
火鼠の皮衣と、猫猫は口上を述べた。もっとも、それは店の主人に耳打ちして猫猫が言わせたものであったが――。
衣は、焼けた炭をのせても火がうつることはなかった。それどころか、焦げひとつなかった。
「趙迂、お前は着物がなにからできてるか知ってるか?」
「綿とか麻のことかぁ? だいたい、草からできるって聞いたことあるぞ」
「さっきのあれは、石でできてるんだ」
趙迂の表情が面白いほど変わった。
「石って、石ころのことか! そんなんでできるのか?」
「石にだっていろんな形がある」
繊維状の石を布にすることができる。珍しいが古い時代からあるもので、火浣布と呼ばれている。それでは少し味気ないので、東方の島国で使われる名前を借用させてもらった。
「石だから燃えない」
しかし、それを目の当たりにした者たちは、どう思うだろうか。火浣布の存在を知っていたとしても、初めて見るものがほとんどだろう。その珍しさも手伝い、多少ふっかけた値段でも買おうとする物好きはいるものだ。
こうして、猫猫はただで着物を手に入れることができた。
「へえ、そうなのか。じゃあ、天女の話っていうのは?」
「あれは――」
半分本当で、半分嘘だろう。
衣の袖口の刺繍、猫猫には見覚えがあった。おやじこと羅門がよく書いていた西方の文字である。それを崩したものはまるで蔦の紋様に見えるだろう。
天女と言われた娘は、西方の異民族、もしくは旅人だったと推測される。地方の村では、近親婚が続くと子が弱くなるので、余所の血が欲しくなる。本当に迷ったのか、それともさらってきたのかわからない、そんな娘がいたら手放そうとは思うまい。
娘は親元に帰りたい一心で、衣を作った。その素材に、珍しい石綿を使い、村人が読めぬ文字を紋様として刺繍することで、ひそかに同郷の者に助けを呼んでいたのだ。
婚礼の儀の際、娘は石綿の衣の下に濡れた下着をつけていたのだろう。髪も濡らし、紗で包むことで誤魔化した。
「知ってるか。木の器を火にかけても、燃えない方法がある」
器の中に水を入れておく。すると、水が完全に乾ききるまでその木の器は燃えないのだ。水がある限り、一定の温度以上に上がらず、その温度では木は燃えない。
濡れた下着の上に石綿の衣、その上に燃えやすい衣装をさらに重ね着する。
そのまま火傷に至る前に、湖に飛び込めばいい。
衣の紋様に逃げ出す方法を記しておけば、娘はその後助け出されるだろう。勿論、それがうまくいく保証はない、でも店の主人の話を聞く限りそれは成功したとみえる。
「ほええ」
趙迂は間抜けな顔のまま感心した。
「それ、なんで店のおいちゃんに言わなかった?」
「浪漫が大切なんだろ」
そこまで崩す必要はないと猫猫が言うと、趙迂は呆れた顔で笑った。