四、眠り
それから三日後、薬屋に覆面の貴人がようやく現れたのは太陽が南中する頃だった。
「いらっしゃいませ!」
猫猫の元気な迎えに、おののくのは壬氏だった。その後ろでは、なにがあったといわんばかりにあんぐりと口を開けた高順がいた。
「おっ、おい、どうした?」
「小猫、今いるのは壬氏さまですが人違いではありませんか?」
猫猫はむっとなる。なんだろうか、その反応は。高順はつい口が滑ったとちらりと壬氏を見、壬氏は覆面の隙間から胡乱な目で高順を見かえしていた。
壬氏は薬屋の中に入ると、煎餅座布団の上に座った。中はとても狭いので、高順はいつも緑青館の玄関で待っている。引き戸を閉めると、ようやく覆面をとった。
そこには変わらずの美貌と、それに不似合な頬の傷が一本ある。抜糸を終えて痛々しさはだいぶ薄れたが、それでも見る者が思わずため息をついてしまう。勿体ないという意味で。
市井では昨年あった子の一族の反乱を面白おかしくかきたてていた。その中で主役を務めるのが、美貌の皇弟と敵役の楼蘭だった。ここで本来出てくるのは、子の一族の長である子昌かと思うが、それを食い楼蘭が出る。理由は、壬氏の傷だろう。
この世の者とは思えぬ美貌に大きな傷をつけた悪女は、今後もずっと語り継がれるはずだ。
陽気に笑う虫好きの女官を思い出し、猫猫は遠い目をした。
「なにか用があったんじゃないのか?」
壬氏の問いかけに、猫猫はぴくりと動く。
(そうだった)
猫猫は戸棚から、本屋で買った図録を取り出す。
「これは?」
「どこぞの火事場泥棒が砦から盗んで売り払ったもののようです」
砦から逃げてきた男のことは伏せておく。男衆頭の右叫に任せたからには、勝手に引き渡すと面倒見のいいあの男を怒らすことになる。
砦から逃げてきた男は名前を左膳と名乗ることにした。悪餓鬼こと趙迂が昔のことを思い出すかもしれないので、念のために偽名を使わせる。男も前の名前に未練はないらしく、右叫に仕事を習っていた。
(本屋に売った分は回収できた)
右叫が迅速に集めてくれた。ちょうど馴染みの女衒が図録を売ったという街に行ったのでよかった。話をして買ってきてくれたらしい。
ならば残る問題は。
「この図録の残りが砦にあると思います。それを集めてもらいたいのです」
壬氏は片目を細めて猫猫を見る。
「なぜ、それを集める?」
その質問の答えに、現物をとりだして見せる。
どんっと、壬氏の前に置いた丼には、気色の悪い虫の山が煮つけになって乗っている。
壬氏が顔を引きつらせて、後ずさる。
「なんだこれは?」
「蝗の煮つけです。もっとも、ほとんど飛蝗ですけど」
猫猫は箸でそれをつまむと、ずいっと壬氏に向ける。壬氏はさらに後ずさる。
「食わんぞ!」
「そんなこと言っておりません」
猫猫は皿の上に飛蝗をのせると、虫の絵が描かれた紙を取り出した。飛蝗と蝗の絵を描いている。煮つけをもとに描いたが特徴はとらえていると思う。
「飛蝗が昨年、大量発生したそうです。蝗害として、農村から話は聞いていませんか?」
「……」
壬氏の表情が曇る。頭を掻きながら、ふうっと息を吐く。
「その報告は受けている。北部の農村に被害が大きい」
だが、餓死者がでるほどでもない。幸か不幸か、今年の秋は寒かったようで蝗も退治しやすかったらしい。
「蝗の被害は数年続くことがあります。今年はどうでしょうか?」
壬氏の顔が歪む。
彼もまた、その事態を予測していたのだろうか。
北部ということは、子の一族の直轄地がほとんどだろう。彼らがいなくなった以上、それをおさめるのは帝ということになるのだろうか。
「昨年の不作分に至っては、南部の備蓄を回す手配はしている」
その先についてはまだ手が回らないのだろう。
「今年また起きてしまえば、多少、苦しいことになりますね」
蝗害が起こるのは、帝が国をちゃんと統治しないのが原因だと言われる。たかが虫というが、それで実際、滅びる原因となることは歴史上にあるらしい。
そして、それが子の一族を滅ぼした翌年となれば、民はどう思うだろうか。
(ばかばかしい迷信)
そんな言葉で終わらせられる者ばかりではない。
そして、そんな者たちも民としておさめていくのが帝であり、その血筋の者たちだ。
「蝗害は自然に起きるものだ。どうしようというのだ。かがり火をたいて、虫をおびき寄せるか、それとも一匹一匹潰していくか?」
もっともだ。そんなものらちがあかない。
「だから、これを探しているんです」
猫猫は図録を壬氏の前に差し出す。
砦から逃げてきた男、左膳の持っていたそれ、その虫の図録だ。中には書き込みがびっしり入っている。
「砦で、私はもう一冊、虫の図録を見ました。そこに蝗について事細かに書かれていました」
たしかに書かれていたような気がするが、正直あてずっぽうだ。他の記述に目を通していて、虫の図録はぱらぱらとしか読んでいない。でも、左膳を出さずに話すなら、こういうしかない。
「前にあの砦にいた薬師は、蝗害の研究をしていたようです」
「本当か?」
「どこまで進んでいたかわかりませんが」
ただ、調べる必要はありそうだと伝える。
ふむ、と壬氏は顎を撫でる。そして、戸を開けると、高順を呼び寄せる。高順は即座に緑青館の外に待機している従者を呼びつけていた。
「数日中には手に入るだろう」
「ありがとうございます」
ふうっと猫猫は息を吐く。
これで終わったわけではないが、ここ数日、頭の中にぐるぐる回っていたことを口にしてすっきりした。
かわりに壬氏の顔色が悪くなっている。宦官の立場が変わった壬氏は、ただでさえ疲れ気味である。
猫猫の言ったことは、結局、壬氏の仕事を増やすことになった。
「お疲れですか?」
「それなりにな。だが大丈夫だ」
目の下のくまが濃い。しかし、周りの官や官女たちは、それを疲れと認識せずに、憂いと思うだろう。
顔に傷があろうとも、この男の人外じみた美貌は健在で、ゆえに人はその中身を読み違えてしまう。
(このままなら、倒れるな)
疲れて感覚が麻痺した人は、疲れさえわからなくなる。高順とて、壬氏が大丈夫だと言ったら、止めることはできない。
(眠ればいいのに)
わざわざこんなとこまで来るなら、部屋でゆっくり休んでいた方がいいだろうに。
猫猫は呆れた顔を壬氏に向ける。
「壬氏さま、お休みになられませんか?」
「なんだいきなり?」
「すぐに寝所を用意します、眠ってください」
猫猫は壬氏をじっと見る。右頬の傷が目に入る。綺麗な縫い目を観察しそうになり、思わず目を伏せる。
おやじの縫った傷に、その上に塗った軟膏、それをじっと見ていたくなる。壬氏の傷は残るだろうが、その治りは早く経過を見ていたくなる。
「こんなところで、眠れというのか?」
「一人では眠れませんか?」
猫猫はちょっと冗談めかして言ってみた。しかし、さすがに子どもあつかいしすぎた。
「冗談で――」
「ああ、一人では駄目だ」
訂正しようとしたが、途中で遮られた。
一人寝は寂しいとのことらしい。
(なるほど)
猫猫は薬屋の戸から顔を出すと、近くにいた禿を呼ぶ。禿にやり手婆を呼んできてもらう。
「なんだい?」
やる気なさげなやり手婆に用件を伝えると、その皺にまみれた目蓋の奥の目が光った。
「四半時待ちな」
(それで準備できるのかよ)
やたら張り切るやり手婆を後目に、猫猫は壬氏に疲れにきく茶を差し出した。
「こちらです」
と、猫猫は壬氏を違う場所へと案内する。
連れてきた場所は緑青館の最上階。最高級の調度に囲まれたその部屋には、一式の褥が敷かれている。香を焚き締めているので、甘い香りが充満している。
「お休みになられてください、仕事も大切ですが、休養も必要です」
やり手婆にまた吹っかけられるかと思ったが、婆にも思ったことがあったらしく、一番良い部屋をただで貸してくれた。やり手婆はこの部屋を四半時で準備してくれたのだ、たいしたものだ。
貴人にいい印象を与えたほうが得策と思ったのかもしれない。
「湯あみなさるなら、薬湯を用意しています。寝間着は合うかわかりませんが、こちらをお使いください」
猫猫は、柔らかい木綿の寝間着を渡す。
壬氏は驚きの表情から、しだいに緩やかな笑みに変わっていく。天女の笑みではなくなったが、男女問わず蕩けさせる効用は変わりない。
「湯あみしてくる」
隣接した湯殿に向かう壬氏。男衆に何度も往復させ湯を溜めた風呂は、ちょうどよい温度のはずだ。
猫猫はほっと胸を撫で下ろす。
部屋の隅にいる高順も、眉間のしわが緩んだように見える。
しかし、壬氏が湯殿に続く扉を開けた瞬間、固まって動かなくなった。幾何かして、扉を勢いよく閉めると速足で猫猫の前に詰め寄ってくる。
「なんで、薄着の女たちが湯殿にいるんだ?」
「玄人なので問題ありません」
蜜柑の皮をばあやに剥いてもらうような坊ちゃんなので、湯あみも一人で入るとは思わなかった。皇帝が湯あみするときと同じように更衣を用意し、ついでだからと按摩を受けてもらおうと頼んだのだ。
「……按摩はお嫌いですか?」
「按摩だけで終わるのか?」
「終わらない場合が多いです」
奉仕業なので、客に頼まれれば口に出しにくい追加奉仕を行う者もいれば、そうでないものもいる。花街では常識だ。
壬氏が湯殿を無視して戻ってくる。
「湯あみは?」
「やっぱ遠慮しておく」
「着替えは?」
「自分でやる」
と、壬氏は衣を脱ぎ捨てると寝間着を羽織る。
(筋肉質だよな)
ありのままの感想にこれといった感情はない。
猫猫は落ちた衣を丁寧に拾い上げ、きれいにたたむと行李にしまう。
猫猫は、寝床のそばに置いてある器と急須を持つ。急須から液体を注ぐと壬氏に渡す。
「睡眠薬かなにかか?」
壬氏が口に含んで言った。妙な味がしたのだろう。
「滋養強壮剤です」
猫猫の言葉に、壬氏の口から茶が噴き出る。
「なんで、滋養強壮なんだ?」
「殿方の疲れたときは、それが一番と聞きましたので」
「……意味がわかって言っているのか?」
「他になにがあるかと」
猫猫が言うと、壬氏は気まずいような、はにかんだような表情を浮かべた。
(率直に言うのは、難があったか)
いくら殿方とはいえ、そういう生理的なことを口に出されると恥ずかしいものがあるのだろう。壬氏はまだ若い、そういうのは見た目ほど成熟していないのだろうか。
それにしては、壬氏の反応は少し違ったようにも思えるのだが、気にすることはなかろう。
伏せ眼がちな壬氏に、猫猫は言葉を続ける。
「それで、どのような娘が好みですか?」
猫猫は手のひらを二回叩くと、奥からきらびやかな娘たちが総勢五名現れた。
どれも可愛らしくあどけなさが残る。
また、以前から貞操観念云々語ることが多いので、生娘で揃えてみた。病気もないのでそのほうが好ましい。
全員を緑青館で揃えるのは難しかったので、よその妓楼からも話を通してかり出してきた。
やり手婆は眉をひそめたが、短時間でこれだけ揃えるのは難しい。
娘たちは、相手が貴人という話だけ聞いているので、なかなか乗り気だ。壬氏の覆面の隙間からこぼれる美貌にため息をついている。
そのもてもての貴人といえば、あんぐりと口を開いたまま呆気にとられている。覆面の奥からでもわかる、その間抜けな動きで猫猫を見る。
部屋の隅で高順が頭を抱えているだけでなく、壁に額を突っ伏している。
「好みがいませんでしたか?」
猫猫の問いかけに反応するのは、壬氏ではなく妓女たちのほうだ。各々、自分が魅力的だと思う仕草を壬氏に向けている。
「全員、未通娘ですよ。ちゃんとやり手婆が調べましたから」
どうやって調べたのかは、推してはかるべし。
壬氏は人形のようなぎこちない動きのままで、猫猫を見る。
「……とりあえず、ただ眠たいんだ。寝かせてくれ」
「そうでしたか」
猫猫は残念そうに肩を落とし、不満げな妓女たちに退室を願う。
それ以上に肩を落としている高順のもとに行き、
「代わりにいかがですか?」
と、たずねたら、
「うちは恐妻家なんです」
と、言われた。なるほど、妻帯者に妓女をすすめるのはいささか難がある。
寡黙な従者には、立ったままでは悪いので、すわり心地のよい長椅子に座ってもらうことにした。布団はもう一式あり、部屋も空いているが丁重に断られた。
猫猫は、壬氏が横たわったところに、上掛けを丁寧にかける。
自分も退室しようとしたら、腕を掴まれていた。
「子守唄を歌ってくれ」
断りたいところだが、たまに見せる子犬のような目がちらちらと猫猫を見る。それに、今のところ空回りばかりしていて壬氏の疲れはとれていないようだった。
「下手ですよ」
「かまわない」
上掛けをゆっくり叩き拍子をとりながら、猫猫は歌い始めた。妓女が歌うわらべ歌である。
壬氏の寝息が聞こえるのにそれほど時間を要さなかった。