四十三、息
すみません、もう一話続きそうです。
目を覚ますと目の前に麗しき貴人がいた。なぜか猫猫にのしかかるような姿勢で襟に手をかけていた。
「こ、これは」
猫猫が半眼で見返すと、壬氏はしどろもどろな口調で両手をばたばたさせた。普段ならもう少し睨み続けるところだが、猫猫は壬氏の顔にさらしが巻かれていることに気づく。
「……壬氏さま、それはどうしたのですか?」
猫猫は襟を正しながら聞いた。
「大したことない、かすり傷だ」
隠すように手で遮った。
猫猫はむすっとなる。
「見せてください」
「見せるほどのものじゃない」
そんな風にされると気になるものである。ずずっと前に進んで壬氏に詰め寄る。壬氏は後ろへ下がっていく。
壁際に追いやり、ゆっくり手を伸ばした。
「……」
至宝ともいうべき顔、その右頬に斜めに傷が走っていた。表皮だけでなく肉も裂き、それを糸で縫われていた。
きれいに処置されていたが、傷痕は一生消えないだろう。
「前線に出たのですか」
「俺だけ安全なところで見物ともいかんだろう」
「見物していればよろしいじゃないですか。そういう立場なんですから」
猫猫はすこし苛立たしげに言った。
「わざわざ危ないところに行かないでください。壬氏さまが怪我をされると周りが迷惑するんですよ」
猫猫の言葉に壬氏は、頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「ああ、馬閃に申し訳ないことをした。高順の拳骨はあれでけっこうきく」
そう言って、さらしを不器用にまた巻きつけはじめる。猫猫は壬氏からさらしを奪うと、顔に巻きつけてやる。
「怪我をするつもりはなかったんだが」
「誰だってそうでしょう」
「妙なお願いを聞いてしまったからな」
壬氏はまつ毛を伏せた。黒曜の瞳には、憂いがあふれていた。
「……お前は、楼蘭と仲が良かったのか?」
壬氏がふと猫猫に聞いた。
「比較的」
「友人だったのか?」
「よくわかりません」
本当によくわからなかった。
おそらくそれに近い関係だったと思う。少なくとも猫猫はそう感じていた。だが、相手はどうなのかよくわからない。
「本当によくわからない人だったので」
「……俺にもな」
壬氏の顔がさらに悲痛になる。
「わからないままで終わってしまった」
その言葉の意味がわからない猫猫ではなかった。
「そうですか」
わかっていたことだ。あのとき、部屋を出て行くとき楼蘭は猫猫にあることを託した。そして、覚悟を決めて出て行った。
猫猫にできるのは、彼女が託したことを全うするだけだが――。
「壬氏さま、お休みになられてはどうですか?」
「ああ、すごく眠い」
壬氏の顔色は悪かった。おそらく、捕まっていた猫猫よりずっと体調が悪いだろう。目の下にくまがうっすら見え、唇が渇いて艶がなかった。
さっさと自分の馬車に戻って眠るべきだろうに、壬氏はあろうことか猫猫が眠っていた毛皮の上に横になった。
猫猫はあからさまに顔を歪めた。
「壬氏さま、ここで眠らないでください」
「なぜだ、疲れた」
「なぜだと言われても」
猫猫は周りを見る。馬車の中には五つのおくるみがある。子の一族の子どもたちだ。
「ここは忌む場所です」
「……それはわかる」
「なら――」
言い終わる前に手首を掴まれ、引っ張られた。掴んできた手はとても冷たかった。
重ねられた毛皮の上に向かい合うように横になった。
「なら、なんでお前はここにいる?」
「私とて、子どもを憐れむ心がないとでも」
あらかじめ考えておいた口上を言った。
「そうだろうかな。俺はちと不思議だったんだが」
壬氏が横になったまま、少し顔を傾ける。
「お前、薬の師に死体には触れるなと言われてたんじゃなかったのか?」
(覚えてやがったか!)
猫猫は思わず顔をぐぐっとしかめそうになった。
「そんなお前が長い間、こういう場にいるとは思えんのだがな」
妙なところで勘が働く。
猫猫はじっと見つめてくる双眸からどう逃れようか頭を働かせる。
そんな感じで固まっている間に、壬氏の手が伸びていた。猫猫の襟を掴むと、めくった。
「お前こそどうしたんだ、それは」
壬氏が眉間に皺を寄せて言った。
めくってむき出しになった肌には、赤い刀傷が走っていた。肩や首には、他に歯型もつけられていたが、それが見えていたらさらにどうなるだろう。
多少の恥じらいはあるが、猫猫は淡々とことをすすめることにした。
「ろくでもない奴らがいまして」
「……襲われたのか」
冷たい声が聞こえる。
「未遂です」
ちゃんと付け加える。
この男は、いちいち他人の貞操について干渉するのである。
「返り討ちにして、しばし、殿方としての機能を不能にさせていただきました」
踏みつぶしたが、破裂していないだろう。
それを聞いた壬氏の顔が青くなる。
「いや、自業自得なのはわかる、わかるんだが」
同じ性別として多少わかる部分があるのだろう。壬氏の顔が苦い。その苦いままの顔で、手を伸ばした。
傷口をなぞるように指を滑らされ、思わずびくっとはねた。
「傷は残らないんだろうな」
「皮一枚切られただけです」
触れる指先の感触に居心地の悪さを感じ、後ろへ下がるがその分、壬氏の手が伸びる。猫猫はたまらなくなり身体を起こすと、襟を整えた。
「傷は残すな」
「その言葉、そのままお返ししてもよろしいでしょうか?」
猫猫の言葉に壬氏は破顔する。
「俺は男だ、問題ない」
「壬氏さまはそれを凌駕しております」
「そんなもの知るか」
「では私も知りません。傷一つで価値がなくなるようなら、それまでのことです」
「お前は、さっき散々俺に言っていたじゃないか」
壬氏は寝転がったまま、猫猫の手首を離さない。さっきまで妙に冷たかった手が、少し温かくなってきた。
「俺は、傷一つで価値がなくなるような男か?」
問いかける壬氏、猫猫の手首を掴む手に力がこもる。
「顔だけのはりぼてか?」
その問いかけに、猫猫は自然と首を横に振っていた。
「むしろもう少し傷があってもいいかもしれません」
つい本音を漏らした。
壬氏は美しすぎる、見ているだけで周りを乱してしまう。周りは壬氏の見た目ばかりに目をやりすぎている。彼の本質は見た目ほど華美ではなく、もっと実直なものだと猫猫は思う。
そして、それがわかるのは彼の周りにいるごく少数の人間だけだ。
猫猫は、ふっと息を吐くと、ほんのり唇をほころばせる。
「前より、男前になったではありませんか」
その瞬間、壬氏がぎゅっと唇をつぐむのがわかった。なにかそわそわしたように周りを見ると、目を瞑ったり開けたり、首を振ったりしていた。
「どうしたんですか?」
猫猫が問いかけると、壬氏は空いた手で首の後ろをかいた。
「……周りの状況的に、我慢しようと思ったんだが」
「我慢ですか、眠いなら早くここか……」
早くここから出て行っておやすみくださいと追い出そうとした。
しかし、寝るのを我慢しているのか、と思っていたら、もう一度手首を引っ張られた。
壬氏と向き合うように座り込み、両二の腕を押さえこまれるように掴まれた。
「さっきの傷を見るとき、平常心でいけるつもりだったんだが」
居心地の悪い顔のまま、少しずつ猫猫に近づいてくる。温かい息が猫猫の顔にかかる。
「案外というか、思った以上にいけたようだ」
「はっ?」
ゆっくり壬氏の顔が近づき、鼻が触れそうになったときだった。
がたっと、音がした。
壬氏がはねるようにびっくりした。
音がした先にあるのは、あの子どもたちを寝かせた場所である。
「!?」
猫猫は壬氏を押しのけると、音のするほうへと近づいた。
おくるみにくるまった子どもたちの手首を一人ずつ掴む。
(違う、違う)
猫猫は三人目の子どもに触れたときだった。
「……っ」
小さな口が微かに動いた。
脈が小さいながらどくんどくんと打っていた。
『この子たちが虫であれば、冬を越せたのにね』
楼蘭の言葉を思い出す。
鈴の音で鳴く虫は、雄を雌が食い殺しその後自分も死んでしまう。子だけが冬を越して生き残る。
楼蘭は自分の一族を虫にたとえていた。
そして、楼蘭は猫猫にもう一つ手がかりを与えていた。
曼荼羅華、それは毒にも薬にもなる。猫猫に見せて渡した紙にあったものだ。
ときに、異国では秘術の薬として使用される。
人を一度殺し、もう一度甦らせる薬として。
神美に監禁され、不老不死の薬を作らされていた元医官のことを思い出す。不老不死といわずとも、それに少しでも似た薬があったら調べるのではないだろうか。元医官が使っていた書物には、別紙で書かれたものが挟まっていた。その中に、魚のひれ、河豚のひれがあった。
人を一度殺すには毒を使う、しかし、毒を複数混ぜ合わせることによって、毒同士が相殺され無毒化される。無毒化されたとき、一度死んだ人間は蘇ることもあるという。
「生きているのか?」
後ろに壬氏がいる。
しかし、猫猫にはそれにかまっている暇はない。子どもの身体をさすり、どうにかして蘇生を成功させるほうが大切だった。
そのために猫猫は、楼蘭に連れてこられた。
壬氏がよみがえった子どもをどうするかわからない。だが、その言い訳をする暇はない。
「壬氏さま、お湯、お湯を用意してください。あと温かいものを! 服でも食べ物でもなんでも」
「……一度死んだものか」
くくくっと壬氏が笑っている。
「やられたな」
「壬氏さま!」
なにかぶつぶつ言っているが猫猫の知ったことではない。目を吊り上げながら、叫んだ。
「ああ、わかった」
なんだか少し明るい声で壬氏が言った気がした。その表情は、さきほどよりずいぶん緩やかに見えるが、それでいて少し残念そうだった。
猫猫はとにかく次々息を吹き返そうとする子どもを甦らせることに必死になった。毛布と湯桶を持ってきた壬氏が去り際、耳元で囁いた。
「続きはまたでいいか」
「あー、はいはい」
忙しい猫猫は深く考えずそれだけ返すと、子どもの世話に没頭した。