幸せは影に隠れて過ごす
幸せとはなんだろうか。
幸せの定義のひとつに、国別の幸福度指数いうもの存在する。人々の生活に対する満足感や幸福感を客観的・主観的なデータから数値化し、測定する指標のことだ。
こう聞くと、日本の幸福度指数は高い方かもと思うかも知れないが、日本の幸福度指数は2026年版で61位。一方でニュージーランドは11位。これを見ると日本は幸せだとは言えない。ただ、ここで私が疑問に思ったことがある。日本ではフリーターのような人が路上に座ることも、路上で人々にお金を恵んでくれないかと頼む人も、見たことがないのだ。
私がオークランドを旅すると、容器の中に恵みを乞うように、人々の目に映り込むよう路上に座り込んでいる人が沢山いる。彼らが悪いとは言えないが、彼らが幸せだとは私は思わない。
幸福度指数は一般に次のように図られる。主にアンケートで「主観的評価(生活満足度や感情)」と、経済・社会的な「客観的要因」。だが今回はどうだろうか。幸福度指数の順位の50位差。日本はニュージーランドよりも、幸福度指数が圧倒的に低いというのだ。幸福度指数はあくまで主観と他人を客観視したもので、ある程度のミスはあるかもしれない。けれども日本人の個々の主観は圧倒的に不幸せ。他人を見ても不幸せ。
ではニュージーランドの路上にいたあの彼らは、幸せだと思っているのか。そうでも、そうでなかったでも、幸福度指数の差を含めて、次のように考えられる。
ニュージーランドで幸せな層と、不幸せな層が完璧に二極化している線。それか、日本人は海外における不幸せといえる基準を知らない線。いわゆる自国のことしか知らない、まるで坊っちゃんのような国である可能性。
どちらにせよ私たちは他者と比べない限り、本当の幸せは掴めない。当たり前の幸せも失ってから気づくように、幸せは自分の目ではわからない。
ただわかるのは、自分が不幸せかもしれないという勘。それが自己を追い詰めて、今の幸せを理解させようとしない。その逆もまた然り。幸せと不幸せは共存出来ない。
では幸せとはなんだろうか。不幸せなことが起きても幸せだと思い込むことか、当たり前の幸せの日常を過ごしながら、不幸せだと自分を思い込むことか。
まるで、幸せは影に隠れて過ごすかのように。




