第032話「高い方が正解」
根道は優秀だが、一本しかない。
昨日辿ったルートは霧の境界を横断する唯一の安全通路だった。だがそれは、敵もこの根道を使うということだ。霧沼蛙は根道の上に陣取っていた。泥沈み蟹は根道の脇に潜んでいた。一本道に乗り続ける限り、こちらの動線は読まれる。
別のルートが要る。泥を避けるなら、上だ。
◇ ◇ ◇
根道の起点から周囲を確認した。壁走りで岩壁に取りつく。
この層の岩壁は湿っている。第1層より滑りやすい。壁走りのグリップが甘くなる場所と、苔がかかって逆に摩擦が出る場所がある。苔のある岩を繋いで移動すれば、泥に触れずに横移動ができる。
三メートルほど登ったところで、苔の質が変わった。
普通の苔ではない。糸を引いている。苔に見える繊維が岩の表面に薄く広がっていて、触れた瞬間に鱗の端を引っ張った。
吊り苔蛇だった。
苔に擬態した細い蛇が、岩壁に張りついた糸の中に体を溶け込ませていた。体長は四十センチほど。こちらより細いが、糸を使って壁面を自在に動く。引っ張られた方向を見ると、頭がこちらを向いていた。
糸が二本目、三本目と飛んでくる。速い。壁面での機動力はこちらより上だ。糸の一本が首の鱗に引っかかった。引かれる。壁走りの足場を変えて踏ん張る。糸自体の強度はそこまでではないが、壁面でバランスを崩されると落ちる。落ちた先は泥だ。
粘着無効が糸に効くか試す。——効かない。粘着無効は泥や粘液に対するもので、糸の繊維は別の仕組みらしい。
力で引きちぎる。鱗硬化で首を固めて、そのまま前進した。糸が鱗の表面を滑り、一本ずつ切れていく。吊り苔蛇は体を丸めて岩の窪みへ逃げようとした。逃がさない。窪みに頭が入る前に追いついて尾を噛んだ。
細い体だが暴れ方が厄介だ。糸を壁面に貼りつけてアンカーにし、体を引き離そうとする。締め付けを入れる。細い分だけすぐに動きが止まった。毒を入れて終わらせた。
食う。糸まで食った。繊維が喉を通る感触は良くないが、量はない。すぐ終わる。
通知は来なかった。
◇ ◇ ◇
吊り苔蛇を倒した位置から、さらに上を見る。
岩壁を登り切ると、天井近くに横方向の棚が走っていた。幅は二十センチ程度。蛇の体なら通れる。棚は苔に覆われていて、吊り苔蛇の糸が一部に残っている。あいつのテリトリーだったらしい。
棚を辿ってみる。霧が下に溜まっているため、この高さまで来ると視界———正確に言えば熱感知の解像度が改善された。下で動いている熱源の位置が、棚の上からだと泥底にいた時よりずっとはっきり見える。
……これは使える。
高所から索敵して、有利な場所へ降りて仕掛ける。この動き方ができるなら、根道一本に頼る必要がなくなる。
棚を東へ進んだ。途中で棚が途切れる場所があったが、壁走りで繋いで越えた。その先に、別の岩棚が合流していた。
合流地点に、先客がいた。
六本脚。体長五十センチ。だが脚の形が今までの蟲と違う。脚の先端が枝分かれしていて、岩壁に複数の接地点を同時に持つ構造になっている。枝脚蟲だ。体色が岩と同系色で、動かなければ岩の突起にしか見えない。
枝脚蟲は棚の幅いっぱいに体を広げていた。正面から抜けるには、相手を退かすか倒すしかない。
先に動いたのは向こうだった。枝分かれした脚の一本がこちらに伸びてくる。打撃ではない。脚先が岩に食い込み、そのまま体をこちらへ引き寄せた。接近が速い。脚を岩に固定しながら体を投げ出すように進む動き方で、一気に間合いを潰された。
頭部に硬い突起がある。それで押し込んでくる。体当たりに近い。鱗弾きで横へ逸らしたが、棚の幅が足りない。片側の壁に押されて体勢が崩れた。
壁走りで壁面へ逃げる。枝脚蟲は壁面でも追ってきた。脚の接地点が多い分、壁面での安定がこちらより上だ。正面から力比べをする相手ではない。
弱点は関節だろう。枝分かれの分岐部分に負荷が集中するはずだ。
壁面を横に移動して、枝脚蟲の側面へ回る。脚が六本あっても、同時に全方向へ向けられるわけではない。左側の後脚二本が壁に張りついたまま向きを変えられずにいる。その付け根へ頭を突っ込んだ。
——硬い。
外殻が厚い。牙が表面で滑った。角度を変える。脚の分岐部分と胴体の接合面に、わずかに隙間がある。外殻粉砕の感触を乗せて、二度目を押し込んだ。今度は入った。毒を流す。
枝脚蟲は残りの脚で壁面を蹴って、体ごと棚へ戻ろうとした。毒が脚に回る前に一気に引き離されそうになる。追いかける。棚に戻った枝脚蟲は脚の動きがもう鈍り始めていた。分岐した脚先が岩から一本ずつ剥がれていく。最後の脚が外れた瞬間、棚から転がり落ちた。
泥底に落ちた音が響いた。
降りて回収する。棚から降りて、落下地点まで泥を渡った。枝脚蟲は泥の上でまだ微かに脚を動かしていたが、毒がもう全身に回っていた。止まるのを待ってから食った。
硬い。殻が厚い分、外殻粉砕で砕きながら食べる形になった。顎が疲れるが、経験値は出る。
通知が来た。
『Lv4になりました』
全回復。進化は46%。
高所ルートでの戦闘は消耗が大きかった。壁面で体勢を崩された時、落ちていたら泥底で仕切り直しだった。棚の上は便利だが安全ではない。高所には高所の住人がいる。それが分かっただけでも、今日の意味はある。
◇ ◇ ◇
壁走りで棚に戻り、高所ルートの探索を続けた。
枝脚蟲がいた合流地点から先、棚はさらに奥へ伸びていた。ところどころ崩れている場所を壁走りで繋ぎながら進む。霧の下に泥底が見える。根道が一本、泥の中を横切っているのが上から確認できた。昨日辿った道だ。上と下でルートが繋がった。
棚が広がる場所に出た。岩が自然にえぐれた窪地になっていて、泥が届いていない。乾いている。
窪地の隅に、黒い痕があった。
岩の表面が焦げている。泥や苔の汚れではない。何かが高温で焼かれた跡だ。焦げの範囲は手のひら大くらいで、岩が変色している。蟲の酸や毒でこうはならない。
……火か。
この層に火を使えるものがいるのか。切断面に続いて、二つ目の不自然な痕跡だ。切るものと焼くもの。別々かもしれないし、同じかもしれない。
焦げ跡に鼻先を近づけた。匂いがある。岩の焦げだけではない、何か別の素材が一緒に焼けた時の匂いだ。泥や蟲の匂いとは系統が違う。
焦げ跡のすぐ横に、奇妙な変化があった。毒霧の濃度が薄い。棚の上だから薄いのは当然だが、このあたりだけさらにもう一段薄い。焦げ跡が原因なのか、別の理由があるのか。今は判断できない。
ただ、これだけは分かる。焼け跡を残せるものは、泥底の蟲ではない。
高所ルートを辿って引き返す。頭の中の地図に、棚のルート、枝脚蟲のテリトリー、合流地点、そして焦げ跡の位置を追加した。根道の下ルートと岩棚の上ルート。二本の動線が繋がった。
進化46%。数字としては順調だ。だがこの層には、数字の外にあるものが増えてきた。切断面。焦げ跡。どちらも蟲のものではない。蟲でなければ、何だ。
その答えは、まだ足場を広げた先にしかない。




