日本に着いて 3
紫陽花のかげに身をひそめながら、ローズメアリ号を降りてからのことを思い返して、僕はちょっとうんざりした。
横浜の路上でうっかり馬車に乗ってしまったのが、二日前の午前中。
あの馬車はたぶん、北の方に走ってきた。
ここは北半球で、僕は馬車の後ろの窓に鼻をくっつけていて、太陽は左の頬に当たっていたから。
だから、横浜に戻るにはその逆だと思って、ずっと南へ向かって歩いてきた……つもりだ。
だけど、歩き始めて翌日になっても、海が見えることはなく、波の音もしないまま。
それから、夕暮れ時になって雨が降り始めた。
この国の雨は、一粒一粒が大きい。ザアザアと音を立てて、路地はすぐに水浸しになった。
僕は濡れるのはあまり好きじゃない、ていうか嫌い。
だから、目の前にあった寺で雨宿りすることにした。
その寺の敷地に入ったら、どこかで魚のにおいがして、探してみたら仏像の前に魚が置いてあったから、こっそりもらって縁の下で食べていたけど、しばらく待っても雨は止みそうにない。
そのうち僕は眠ってしまって――そして翌日の昼、千早の声で目を覚ましたのだった。
そういうわけで一晩この寺で過ごしてしまったけど、もう三日目だ。
早く横浜に戻らないとローズメアリ号が出航してしまう。
そう思った時、砂利を踏む音と、千早と沙恵の話し声が近づいてきた。
僕は紫陽花のかげで耳をすませた。
「沙恵さん、あの猫、きっとケガをしてるわよ」
「あんなに素早かったのに?」
「でもほら、そこの砂利に血が付いてるもの」
「あ、ほんとだ」
僕のこと? でも血なんて出てないし……?
僕は首を回して背中を見てみた。ふわふわだったグレーの毛が泥で汚れてゴワゴワしていたけど、ケガはしていない。
大丈夫。
さて、さっさとこの寺から出よう!
僕は紫陽花の後ろから、外の路地をめざして飛び出した。
だけど、寺の門に向かって走りかけたその時、前足に刺すような痛みが走った。
体のバランスがくずれる。
「しまった!」と思った時には、僕は転んでいた。すぐさま起き上がろうとしたけど、後ろからひょいと両手で抱き上げられた。
「さっきの子猫ね?」
僕を抱えたのは千早だった。
「どこかケガしているの?」
千早は僕の足をそっと持ち上げて、足の裏をじいっと眺めた。そして、
「肉球にガラスが刺さってる……こっちの足と、こっちも。よくこれで走ったわねえ」
え、ガラス…?
そういえば目が覚めた時から、何だか足の裏がチクチクしていたような……。
「このへんの野良猫かなあ? まだ小さいね」
沙恵が、千早の肩越しに僕の顔をのぞき込む。
「そうねえ、こんな色の猫なんて、めずらしいわね」
千早は少し首をかしげた。
それから、僕の耳の後ろを撫でながら言った。
「ね、沙恵さん、この子猫なんだけど――」
「ん?」
「このままじゃ歩けなさそうだから、うちに連れていこうかしら?」
「千早さんの家に? 手当てするの?」
「ええ。薬もあるし」
「でも、猫の薬じゃないでしょ?」
「んー、兄さんが言ってたけど、猫に使う薬もあるみたい」
え?
僕をどこかへ連れていくってこと?
ふたりの会話を聞いて、僕はちょっとあせった。
困る困る!
足をジタバタさせないと!
抵抗しないと!
早くローズメアリ号に戻らなきゃいけないんだ、って騒がないと!
だけど、そのとき僕は、そうはしなかった。
「もう大丈夫だよ」
って声が聞こえたから。
千早が僕を両腕で抱きしめていた。
温かかった。
「こんなに泥まみれになって。きっと何か大変だったのね」
僕は、とても疲れていたことを思い出した。
――青い海。潮風。
母さんのとなりで寝転がること。
兄さん達との追いかけっこ。
船が波をかき分けて進む音。
僕の好きなものはたくさんあるけど、「大丈夫だよ」って誰かに言ってもらうのも、好きなものに追加してもいいな。
目をとじて、そんなことを思った。
「……あれ、寝ちゃったのかな?」
と、千早が言ったのが聞こえたような気がした。




