日本に着いて 1
千早と初めて会ったのは、僕が日本という国に着いて三日目のことだった。
一八七二年。この国では、明治五年。
季節は春から夏になりかけていた。
「数学って、楽しいですね」
千早はハキハキとよく通る、きれいな声をしていた。
寺の縁の下にいた僕は、その声が誰なのか気になって、縁側に上って、こっそり部屋をのぞいてみたんだ。
部屋には床の間があって、古そうな掛け軸がかけてあった。その床の間の前に、黒い着物を着た寺の住職と、十二歳ぐらいの少女が、低い机をはさんで向かいあって座っている。
少女は黒髪をきれいに結って、背筋をしゃんと伸ばして正座していた。質素な部屋に、彼女の明るい色の着物が鮮やかに映えて、僕には一輪の花のように思えた。
「数学って不思議。いつのまにか、解くのに夢中になっているんです」
少女は黒い目をきらきらと輝かせて話していた。
「私、この前から解くだけじゃなくて、問題も作りはじめてて。先生、一度、私の作った問題を見ていただけますか?」
「もちろん、いいですよ」
住職は大きな肩を揺らし、おもしろそうに笑った。
「私、いつか自分が作った問題と解を、湯島天満宮に奉納できたらいいなって思ってるんです」
「ああ。算額ですか」
「はい!」
迷いのない、凛とした返事。
この国の少女はまっすぐ相手を見るんだなあ。障子の後ろから、僕はそう観察した。
「千早さんなら今にそう言い出すと思っていましたよ。これからは、どんどん前へ進んでいくべき時代だ。問題、ぜひ見せてください」
「はい! では、次に来るときに持ってきます」
千早は、口元に嬉しそうな笑みを浮かべた。
その笑顔を見ながら、住職はおだやかな口調でたずねた。
「しかし、千早さんはかなり向学心を持っている。いつのまにか夢中になっているのは、数学だけではないでしょう? 私は読み書きそろばんと数学しか教えられないが、あなたはもっと、あらゆる知識を増やしたいのではありませんか?」
「あらゆる、ですか?」
「そうです。たとえば、外国の言葉を学んだり、外国の書物から新しい思想を知ったり……」
「……そうですね。興味はありますけど……でも、先生の教えてくださる数学はとてもおもしろいですから。もう満足してます。女子の私にも手加減せず指導してくださって、有難いと思っています」
住職は「それはどうも」と苦笑いして、
「手加減する必要がないからなあ」
と小声で言った。
それから、小さくため息をついたようだった。
「ま、じゃあ今日はここまでにしましょう。沙恵が菓子をもってきますよ」
千早はていねいに頭を下げた。
住職が机の上の書物を片付けてゆっくり立ち上がり、縁側にいる僕のすぐそばを通って、娘の沙恵を呼びに行く。その後ろ姿を見ながら、僕はとても空腹なことを思い出した。
前日、仏像の前に置いてあった干した魚を食べたけど、それだけでは全く足りていなかったのだ。
沙恵は、千早と同じくらいの歳だと思う。
まもなく盆に茶菓子と白湯を乗せて、部屋の前までやってきた。しとやかそうに廊下で正座をして、盆を静かにわきへ置く。着物の衿をから、そっと懐紙を取り出す。
だけど沙恵は仕草がしとやかに見えるだけで、ホントはそうではない。両手の指をそろえてお辞儀をした後、大きな口で千早に笑いかけた。
「千早さん、今日は蜜団子を作ってみたのよ。大好きって言ってたでしょ?」
「ほんと? 私が好きだって覚えててくれたのね」
千早は、沙恵の前までやってきて笑った。
「おいしそう。いつも上手ねえ!」
まるく柔らかそうな団子は四つずつ串に通してあり、上から飴色の蜜がたっぷりとかかっている。
甘い匂いが辺りにふわっと広がって、僕の目は蜜団子に釘付けになった。
「まず一本食べてみて。おいしくてビックリするわよ。ちょっと焦げてしまったけどーー」
そこまで言いかけて、沙恵は何気なく、視線を縁側の方に向けた。
縁側の、僕の方に。だから、僕と目が合う。
その途端、沙恵は真顔になり、スッと立ち上がった。
「沙恵さん?」
「猫がいるわ!」
わわっ!
僕はあわてて縁側から飛び降りた。すぐさま、目の前の庭を横切って走る。
「仏様のお供えを盗ったのは、お前ね!」
後ろから、威勢の良い声と、ジャリジャリッと砂利の上を走る足音が聞こえた。
沙恵は足が速いみたいだ。だけど、猫の逃げ足の方がずっと速い。
僕は寺の正面まで全力で走って、追手を振り切ると、紫陽花の花の後ろにするりと隠れた。




