第5話 何も起きていないという異常
フォルン辺境領の朝は、静かだった。
畑では農夫が鍬を振るい、
道では子どもたちが走り回り、
見張り塔の鐘は、一度も鳴らない。
――何も起きていない。
それが、この領地の日常だった。
アレインは政庁裏の小部屋で、淡々と作業をしていた。
地図に書き込まれた無数の細い線。
地脈の流れ、残滓の位置、微細な歪み。
どれも、今すぐどうこうなるものではない。
だが――
「放置すれば、必ず積み上がる」
誰に言うでもなく、アレインは呟いた。
彼の仕事は、“起きる前に終わらせる”ことだ。
だから成果は、常にゼロになる。
「アレインさん、今日の巡回記録です」
リシェルが書類を差し出す。
「結界、安定。
魔獣反応、なし。
住民の体調不良報告、ゼロ件」
「……ありがとうございます」
アレインは目を通し、うなずいた。
「問題ありませんね」
「はい。驚くくらい」
リシェルは少し首を傾げた。
「戦争が終わったばかりなのに、
こんなに落ち着いているなんて」
「だからです」
「え?」
「戦争が終わった直後だから、です」
リシェルは考え込み、やがて小さく息を呑んだ。
「……本来なら、歪みが一番出る時期」
「ええ」
勝利の裏で、世界は疲弊している。
だからこそ、調整が必要になる。
それを――
この領地では、まだやっている。
その日の午後。
アレインは一人で、かつて小規模な戦闘があった丘へ向かった。
地面に手を当てる。
「……薄いが、あるな」
魔力残滓。
だが量は少なく、広がってもいない。
なぜか。
「すぐに処理しているからだ」
アレインは静かに調整を行う。
派手な光も、報告書に残る数値もない。
ただ、歪みが消える。
同じ時間。
王都では、別の“何も起きていない”が積み上がっていた。
軽度の体調不良。
説明できない疲労感。
理由不明の判断ミス。
どれも小さく、
どれも単独では問題にならない。
だから、誰も止めない。
夕暮れ。
政庁の屋上で、ディアス領主が空を眺めていた。
「不思議だな」
「何がですか」
アレインが答える。
「王都は平和なはずなのに、
こっちの方がよほど安心できる」
アレインは少し考えてから言った。
「こちらは、問題が起きないようにしている。
王都は、問題が起きていないことにしている」
ディアスは、ゆっくりと目を細めた。
「……なるほどな」
その夜。
フォルン領では、誰一人として悪夢を見なかった。
魔獣も現れない。
地は揺れない。
結界は静かに息づいている。
それは奇跡ではない。
必要なことを、必要な時にやっているだけだ。
一方、王都の英雄団宿舎。
カイ・レオンハルトは、再び眠れずにいた。
胸の奥に残る違和感。
少しずつ、確実に重くなっている。
「……誰かが、いなくなった」
ようやく、その言葉が形になる。
だが、
もう名前を口にするには遅すぎる
ところまで来ていることを、
彼はまだ知らない。




