第17話 問題が起きなかった理由
その日は、記録に残らなかった。
戦争もなく、
結界事故もなく、
英雄の名が呼ばれることもない。
どこにでもある一日だった。
フォルン辺境領では、朝から小雨が降っていた。
道はぬかるみ、
商人は舌打ちをし、
役人は書類を抱えて走り回る。
いつも通りだ。
――何も起きていない。
名もなき建物の中で、
若者たちは各地から届いた報告を整理していた。
「南部自治領、地脈変動あり。
ただし、すでに処理済み」
「処理判断者は?」
「現地担当。
名前は……特に」
誰かが首をかしげる。
「責任者、書かなくていいんですか」
リシェルは、首を横に振った。
「判断理由が書いてあれば、それで十分です」
別の記録が回ってくる。
判断理由:
地形的に崩落の余地あり
住民の移動が可能な時間帯であったため、
出力を落とす判断を選択
結果欄には、短くこうある。
異常なし
それだけだ。
その頃、遠方の国では小さな混乱が起きていた。
判断が遅れ、
数名が負傷し、
街は一時的に混乱した。
だが、壊れなかった。
応急処置は間に合い、
被害は拡大しなかった。
記録には、こう残る。
対応遅延
原因:観測値への過信
次回改善点あり
誰かが処罰されることはなかった。
丘の上。
アレインは、遠くの空を見ていた。
何かを待っているわけではない。
ただ、確認しているだけだ。
「今日は、静かですね」
隣に立つリシェルが言う。
「ええ」
「……成功、ですね」
アレインは、少しだけ考えた。
「成功かどうかは、
たぶん誰にも分かりません」
「でも――」
「ええ」
彼は、続きを否定しなかった。
その日、世界ではいくつもの判断が行われた。
止める判断。
進める判断。
待つ判断。
どれも完璧ではない。
どれも迷いを含んでいる。
それでも。
致命的な失敗は、起きなかった。
歴史書に、この日は載らない。
年代記にも、英雄譚にもならない。
ただ、後の研究者が
ぽつりと書き残すだけだ。
この時期以降、
大規模な結界事故は減少傾向にある。
明確な要因は不明。
名前は、どこにもない。
夕暮れ。
名もなき建物の灯りが、一つ、また一つと消えていく。
仕事は終わった。
だが役割は、終わっていない。
誰かが続ける限り。
アレインは、最後に記録簿を閉じた。
異常兆候:なし
いつもと同じ一文。
だが今回は、
それを書いたのは彼ではなかった。
その日、世界では何も起きなかった。
だから誰も、
それが成功だったとは気づかなかった。




