第16話 名前が呼ばれなかった日
フォルン辺境領の名もなき建物は、今日も静かだった。
出入りする人間は増えている。
だが、誰かが指揮を執っている様子はない。
それでも、作業は進む。
「……判断、早すぎませんか」
若い結界技師が、記録板を持ったまま言った。
「まだ数値は基準内です」
彼の視線の先では、地脈の流れがわずかに乱れている。
以前なら、確実に“様子見”に回されたレベルだ。
「基準内ですね」
答えたのはリシェルだった。
「でも、ここは通学路です」
一瞬の沈黙。
誰も「正解」を持っていない。
「……止めましょう」
別の若者が言った。
「出力を一段落とす。
住民は先に動かす」
「被害は?」
「出ないと思います。
でも、経済的損失は出ます」
それでも。
誰も反対しなかった。
処理は淡々と進んだ。
結界出力の調整。
地脈の局所安定化。
人の流れの変更。
結果として、何も起きなかった。
露店は閉じ、商人は文句を言い、
役人は渋い顔をした。
だが、事故はなかった。
夕方。
記録板には、こう残された。
判断理由:
数値よりも、人の動線を優先したため
結果:
異常なし
成果は書かれていない。
ただ、理由だけがある。
少し離れた丘の上で、
アレインはその様子を見ていた。
直接関与はしていない。
声もかけていない。
それでも、判断は下された。
「……十分だな」
誰にも聞かれない独り言。
リシェルが、丘を登ってくる。
「見てました?」
「ええ」
「何か、言うことはありますか」
アレインは、首を振った。
「ありません。
今の判断は、私のものではない」
それが、何より重要だった。
夜。
遠方の国で、小さな事故が起きたという報が届く。
対応が遅れ、数名が負傷した。
だが、街は機能している。
壊れなかった。
「全部は救えませんね」
リシェルが言う。
「ええ」
アレインは否定しない。
「でも、
全部が壊れなくなりました」
それが、到達点だった。
その日、フォルン領では、
アレイン・クロウの名前は呼ばれなかった。
誰も助けを求めず、
誰も指示を仰がず、
それでも、正しい判断が行われた。
それは、彼にとって――
最高の成果だった。




