第10話 それぞれの平和
王都の鐘は、以前よりも控えめに鳴るようになった。
結界の出力を抑え、負荷を分散させるためだ。
街はまだ機能している。
人々も生活している。
だが、誰もが薄々気づいていた。
――以前と同じではない。
英雄団長カイ・レオンハルトは、前線を離れた。
正式な引退ではない。
ただ、「しばらく休養」という名目だ。
剣を握ることはできる。
身体も動く。
それでも彼は知っている。
戦えば、何かを残す。
そして今の王都には、それを処理する余裕がない。
「勝つだけじゃ、足りなかったんだな」
誰もいない訓練場で、そう呟いた。
その言葉を、
かつて一番聞くべき相手は、もうここにいない。
王城では、制度の見直しが始まっていた。
評価基準の再定義。
数値化できない業務の再検討。
だが、それらはすべてこれからの話だ。
宰相バルド・グレンハルトは、
新たな書類に署名しながら、ふと手を止めた。
「正しかった。だが、足りなかった」
あの判断は、合理的だった。
だからこそ、修正が遅れた。
失策とは、
間違った判断ではなく、前提を疑わなかったことなのだと、
今になって理解する。
歴史書には、こう記されるだろう。
戦後、王国は緩やかな不安定期に入った。
原因は複合的であり、特定は困難である。
そこに、
一人の名が大きく書かれることはない。
フォルン辺境領。
朝の空気は澄み、畑には霧がかかっている。
アレイン・クロウは、いつも通り巡回を終えていた。
「今日も問題なし、ですね」
リシェルが笑う。
「はい。
問題が起きないようにしてますから」
彼はそれ以上、何も言わない。
評価も、称賛も、必要ない。
ただ、必要なことを続ける。
それだけで、ここは平和だ。
遠く離れた王都で、
結界が小さく揺れた。
だが、フォルン領では何も起きない。
同じ世界で、
違う選択をしただけの結果だった。
その日の夕方。
リシェルが、不意に尋ねる。
「王国に戻りたいと思ったことは?」
アレインは少し考え、首を振った。
「ありません」
「……どうしてですか」
「必要とされた場所で、
必要なことをしているからです」
それが、彼の答えだった。
王国は、立て直すだろう。
時間をかけて。
多くの犠牲と、試行錯誤の末に。
だが、
あの何も起きなかった日々は、
二度と戻らない。
それでいい。
誰かが影で支えていた平和は、
いつか必ず問い直されるものだから。
夕暮れの中、
アレインは報告書を書き終え、ペンを置いた。
結界:安定
地脈:正常
異常兆候:なし
いつも通りの一文。
だが、それは――
最も尊い成果だった。




