57:神秘の鹿と、不穏なフラグ
朝の港町を抜け、ソーマたちは町外れの丘を越えて森の手前に広がる牧場へと足を運んだ。
海風の香りが遠ざかり、代わりに濃厚な土と緑の匂いが鼻を満たしていく。
視界いっぱいに広がる柵の中では、巨大な影がゆったりと動いていた。
「……あれが、フォレストエルク」
クリスが小さく息をのんだ。
柵の向こうに立っていたのは、馬よりも一回り大きな鹿。
体毛は苔のように深緑がかり、光を吸い込んで艶めいている。
角は枝分かれして天へと伸び、その表面には小さな光苔や草花が絡みついて揺れていた。
わずかに風に撫でられるだけで、それらは淡く光を散らし、まるで森そのものが形を変えて立っているかのような神秘を纏っている。
そして、黄金とも翠ともつかぬ瞳。
深い森の精霊の眼差しを宿すその視線に、クリスは思わず後ずさった。
「……綺麗だな」
粗野な言葉しか知らぬジョッシュですら、しばし言葉を失って見とれていた。
牧場の入り口で待っていたのは、背の高いエルフの男だった。
陽に透ける銀緑の髪。
鋭く伸びた耳は噂に聞いていたとおりで、森で生きる者の威厳を自然に纏っている。
「よく来たな、旅人たち」
男は静かに告げる。
声は風が葉を鳴らすように落ち着き、聞く者を自然と背筋正しくさせた。
「俺はこの牧場を任されている管理人だ」
ソーマたちは順に名を告げ、アスエリスに向かうためフォレストエルクを借りたい旨を伝える。
管理人は短く頷き、柵の中に視線を投じた。
「……フォレストエルクはただの獣ではない。森の精霊に守護された存在だ。速く、静かに、木々の間を縫うように駆け抜け、夜には角が淡く光って旅人を導く。……だが」
管理人は一拍置き、ソーマたちを見渡した。
「背を許すかどうかは、あいつらが決める。俺たちは橋渡しをするに過ぎん」
「背を……許すかどうか……」
クリスが喉を鳴らし、拳をぎゅっと握りしめる。
「心が濁っていれば、決して受け入れない」
その言葉にジョッシュも顔をしかめる。
「……ったく、獣相手に品定めされるってのも妙な気分だな」
やがて柵が開かれ、一頭のフォレストエルクがゆるりと歩み出てきた。
角の苔が陽光を浴びてほのかに輝き、舞う小花がひとつ、ソーマの足元へ落ちる。
――その瞬間、金色の瞳がまっすぐに彼を射抜いた。
ソーマは息を止めた。
胸の奥を鷲掴みにされるような感覚。
森の奥から何かに見透かされ、試されている。
「……来たぞ。試しの時だ」
管理人の声が低く響いた。
フォレストエルクはまずクリスの前に立った。
クリスは慌てて姿勢を正し、額に汗を浮かべながら必死に言葉を絞り出す。
「わ、私は……敵じゃないよ。君を傷つけたりなんて絶対しない。もし……もし、君が背を貸してくれるなら……一生、忘れない」
鹿はしばし彼を見つめ、ふっと鼻息を吐いた。
そして、その鼻先を軽くクリスの頬に触れさせる。
「……!」
クリスの目が潤む。
「こ、これって……」
「嫌われちゃいねえな」
ジョッシュが肩をすくめる。
次に、鹿はジョッシュの前へ。
「おいおい……俺を試すってのか? 悪いが、睨み合いなら負けねえぞ」
わざと挑発めいた笑みを浮かべるが、鹿はじっと瞳を細めて動かない。
まるで心の奥底を覗き込むかのように。
「……ちっ、見透かされてるみてえで気味悪ぃな」
そう悪態をつきながらも、ジョッシュは視線を逸らさなかった。
やがて鹿は鼻を鳴らし、仕方ないとでも言うように踵を返した。
最後に、ソーマの前へ。
黄金の瞳が深淵のように彼を映し出し、角が淡く光を帯びる。
鹿は大きな頭をぐっと近づけ、鼻先をソーマの胸へ押し当てた。
心臓の鼓動が、強く、響く。
「……」
ソーマは目を閉じた。
言葉は要らない。
ただ、自分がここにいる理由を胸に刻む。
仲間を守り、道を切り開く。
どんな困難であっても前へ進む。
鹿の角に絡む苔がひときわ強く光り――次の瞬間、満足したように鼻を鳴らし、その背を低くした。
「……認めたようだな」
管理人が静かに頷いた。
「フォレストエルクが自ら背を差し出す。それは心を許した証だ。……お前たち、幸運に感謝するがいい」
クリスが両手を胸の前で組み、震える声を上げる。
「す、すごい……本当に……」
「やるじゃねえか、ソーマ!」
ジョッシュは照れ隠しのように笑いながらも、目の奥には誇らしさが滲んでいた。
ソーマは小さく笑い返すと、胸の奥に確かな手応えを覚えていた。
管理人から扱い方を教わる。
「森では無理に手綱を引くな。あいつらは枝葉を避ける術を心得ている。夜に角が光っても驚くな。そして――敬意を忘れるな」
三人は深く頭を下げた。
フォレストエルクの背にまたがると、視界が一段高くなる。
森から吹き抜ける風が頬を撫で、未知の旅路の幕開けを全身で感じさせた。
「よし……アスエリスへ向かおう」
ソーマの声に、クリスもジョッシュも強く頷く。
フォレストエルクが軽やかに地を蹴った。
枝葉をするりと避け、音もなく森の中を滑るように進んでいく。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
【???視点】
森の奥深く、薄暗い湖畔の倒木に、ひとりの女が腰を掛けていた。
腰まで流れる黒髪。
月光のように白い肌。
布でゆるく覆われた肢体は艶めき、その腕に巻き付くのは巨大な蛇だった。
鱗が湿ったように輝き、舌をちらつかせながら女の肩に顔を寄せる。
「ふふ……よしよし。今日も元気ね」
女は蛇の頭を撫でる。
そのとき、闇から別の蛇が音もなく現れた。
口には、羽をもつ異形の虫――かつてソーマたちが対峙したものと酷似した存在を咥えている。
女がそれを受け取ると、虫の体から声が滴り落ちた。
『――ソーマという冒険者に気をつけろ』
女は目を細め、口元を吊り上げる。
「……ソーマ? ……ふぅん……」
蛇が彼女の頬を舐め、さらに倒木かと思われた大蛇が胴体を揺らす。
彼女はその背に身を預け、うっとりと目を細めた。
「大丈夫よ。あなたたちがいれば、どんな脅威も怖くないわ」
湖畔の水面が静かに揺れる。
女と蛇の姿は、闇の中へと溶けていった。
移動手段どうしようか色々考えました。
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