ハロルド様、キレましたわ
ローエン家から送られてきた書状に触れた瞬間、視界がふっとセピア色に染まった。
──過去視。
『自分は父の政略のコマでしかない。
入り婿として一生働くだけの人生だと思っていた。
そんな俺が、唯一心を許せたのがマリアンヌ。
マリアンヌは子どもの頃から純真で可愛くて、家庭教師をしていて楽しかった。
今は立派な淑女になり、まぶしい存在。
そんなマリアンヌが俺に思いを寄せていると知って、婚約者がいることをどれほど悔やんだか。
マリアンヌの泣き顔がどれほどつらかったことか。
俺はいったい何をしているんだ。
一番大切な女性を傷つけて、自分だけが入り婿で幸せになろうなんて……』
あらあら。
ハロルド様、相当お悩みのようね。
ローエン家から送られてきた書状に触れた途端に見えた、ハロルド様の日記。
この書状を書いた直後に、日記を書いていたのね。
急がないと本当に駆け落ちしてしまいかねないわね。
ちょうどタイミングよく明日は王宮の夜会で、ハロルド様とご一緒することになっている。
ちょっとおふたりを刺激してあげるといいかもしれないわ。
王宮の夜会には貴族なら全員参加しているもの。
マリアンヌ様にも会えるわね。
楽しみだわ。
一度はやってみたかったのよ……夜会での悪役令嬢劇場!
◇
王宮の夜会に一歩足を踏み入れた瞬間、シャンデリアの光に目がくらむ。
ああ、今宵もまたきらびやかなお芝居の幕が上がるのね。
金糸銀糸で飾られたドレスがひらひらと舞い、まるで人形たちが社交という名の舞踏を踊っているみたい。
ワルツの調べが甘く響き、グラスに注がれる薔薇のような香りが鼻をくすぐる……
ああ……なんて優雅な夜のひととき……
……なわけないでしょ!
今日はまた一段と拷問レベルのコルセットだわ。
それというのも! ハロルド様が!
誰のサイズに合わせたの?って言いたいぐらい、細身のドレスを送ってきたからよ!
明らかに、私に似合うドレスじゃないわよ、これ。
気を抜いたら、気絶しそうだわ。
王宮の夜会には、夫婦か婚約者と出席するのが常識。
婚約者がいない令嬢たちは、父親か兄に連れられてくる。
そんなわけで、見つけたわ。マリアンヌ嬢。
父親のダルモン男爵と一緒ね。
女嫌いのクレメンスは今日も欠席かしら。
出席していたら直接お話してみたかったのだけど。
ハロルド様は私をエスコートしてはいるけれど、定番の仏頂面だわ。
これまでは何が気に入らないのかしらって思っていたけれど……今ならわかる。
ちらちらとマリアンヌ嬢を目で追ってるわ。
それがバレないように、難しい顔をしているのね。
そんなにマリアンヌ嬢が気になるなら、連れていって差し上げましてよ?
「あら、ごきげんよう」
驚いて目を思い切り見開いている、マリアンヌ嬢。
可愛いじゃない。素直そうで。
ちょっと怖がってる感じだけど、こういうときは、身分の高い方から声をかけるのがルールなのよ。
ごめんあそばせ。
ちらりとハロルド様を見ると、驚きすぎて固まっているわ。
まさか私が声をかけるとは思っていなかったでしょうね。
男爵が声をかけられて、商談相手と向こうに行ってしまったのは確認ずみよ。
さあ、ここからがわたくしの名演技の見せ所ね!
「まぁ、あなたがダルモン男爵令嬢ね。お噂はかねがね」
「あ、はい。ダルモン男爵家の……マリアンヌと申します。お⽬にかかれて光栄です」
「うふふ。てっきりどこかの侍⼥の⽅かと思いましたわ。お召し物がその……あまりにも実用的で」
口元を扇で隠しながら、アルカイックスマイル攻撃!
「あの……わたくし、こういう華やかな場所があまり得意ではなくて。でも、こうしてお声かけいただけただけで、うれしいです」
……なにこのいたいけな小動物のような愛くるしさ。
ハロルド様ったら、意外に女を見る目あるんじゃない?
これは、間違いなくいい子だわ!
こんな純粋な子をいじめるのはちょっと心が痛いけど、ここは婚約解消のために全力で演じきらなくては。
ちょうど、周囲の視線も集まってきたことですし。
「領地経営に⼿を出されるご令嬢なんて、まあ、奇特ですこと。手にインクの染みがついていましてよ?」
「ヴィヴィアン、それ以上はやめた⽅がいい。彼⼥は、君がけなすような⼈物じゃない!」
よし、引っかかりましたわね? ハロルド様。
わたくしのことは庇ったこともないくせに。
マリアンヌ嬢のことになると、そんな風に感情をむき出しにして。
「まぁ、ハロルド様に庇っていただけるなんて、羨ましいですわね? わたくしなんてどうせ、完璧すぎてかばう必要もない女ですもの」
「そんな……わたくしモンテローズ伯爵令嬢のこと、尊敬しています」
ああ、やっぱり……この子、根っから良い子だわ。
男の人が守りたくなるタイプよね。
「そうね、あなたのように何も持たない人にとっては、私がうらやましくうつることでしょうね? せめて、あなたが男爵家の後継者であれば、欲しいものが手に入ったかもしれないのに。とっても気の毒だわ」
「ヴィヴィアン! やめるんだ! なんの権利があってマリアンヌを傷つける!」
「あら? 傷ついていらっしゃるの? どうして? わたくし、本当のことしか申し上げていませんのよ?」
「もう、いい!! きみのような人間の側にはもういられない!」
あら、ハロルド様、キレてしまったわ。
ごめんなさいね、マリアンヌ嬢。
でも、あなたのためでもあるのよ?
ハロルド様は頭から湯気を出しながら、テラスの方へ走り去ったわね。
その後を追いかけていく男の人……あれはご友人のレイモンド子爵令息かしら。
さっきからずっとこちらを見ていたものね。あの人。
放置しておくのもアレだし、ちょっと様子を見にいってみましょうか。
「おい、ハロルド!どうした、いきなり婚約者を置き去りにして……入り婿であの態度はまずいだろ!」
「……もう、限界なんだ。どうしてあんな人が、俺の婚約者なんだ。あの笑い方、あの目……」
「限界って、お前本気で……」
「あんなのと一生過ごすなんて、冗談じゃない!!」
駆けつけてみれば……まあ、やっぱりこうなってたのね。
今度はハロルド様劇場の開幕。
いつもは仏頂面のくせに、今日はやけに感情豊かじゃなくて?
なだめているレイモンド様も、困惑している表情だわ。
「お前、マジで⾔ってるのか? モンテローズ家の⼀⼈娘だぞ?」
「わかってるさ。でも……さっきのあの子への悪態で目がさめた。もう無理だと思ったんだ」
「あの⼦って 、ダルモン家のマリアンヌ嬢のことか?」
「……あの子は、ずっと変わらない。昔から、あのままなんだ。優しくて、素直で……」
「いいか、モンテローズの令嬢を敵に回すってのは、政治的にも命取りになりかねないんだぞ?」
「……あの⼈にだけは、勝てる気がしない。完璧すぎて、息が詰まるんだ」
……ずいぶんと嫌われてしまったみたいね。
まあ、狙い通りですけど。
私ってハロルド様にそんな風に思われていたのね。
息がつまるような女で申し訳なかったわ。
でも……そう思ってもらえたなら、私のお芝居は成功ね。