過去を叩きのめすパン
風の強いとある冬の日。
男は足を止めた。
近所の公園の一角に、パンの販売車が停まっていた。
『過去を叩きのめすパン、100円』
陳列棚の端っこの商品札に書かれたその一文に目を引かれたのだ。
パンはきれいに並べられ、陽気な音楽が流れている。
「いらっしゃい」
車の背後から店主が現れた。
「税抜きですか」
男が訊ねると、小柄な店主はニコニコと答えた。
「税込みですよ」
「安いですね」
「安いですよ」
パンは一つ一つがビニール袋に入れられている。
男は『過去を叩きのめす』と表示されて売られているパンを手に取った。驚くほど軽い。
「チョココロネにチョコが入っていないパン。ですね」
「いやいや。それだけじゃないですよ。覗くと過去が見えますし、叩きのめすこともできますよ」
店主の小さい目が優しげに、ニッコリと笑う。男は100円を店主に渡した。公園のベンチに座ってガサガサと袋を開けた。巻き貝のような形のパンはこんがりと焼けている。中身はない。
(空っぽだ)
パンに誘われるまま男が中を覗き込むと、ふと、向こう側が明るくなった。
男は息を飲んだ。
そこに見えたのは中学の制服を着た女だった。2つに結んだくせのある髪に、見覚えがある。こちらを見て、顔をしかめた。
ーーこっち見んなデブ。
男は思わず目をそらす。自分を嘲る声が、脳裏に蘇ったのだ。あいつは自分を口汚く罵って仲間外れにした女だ。
その時、肩に手を置かれて振り返った。
店主の男が立っている。
「さあ、これを」
差し出されたのは、黒い金槌だった。受け取って、店主をみる。
「叩きのめしてください」
その時、コロコロとボールが転がってきた。公園で遊んでいた子どもが投げ損じたのだろう。顔をあげると、目の前にそこには、小さな子どもと母親らしき中年女性がいた。
その女性と目が合った瞬間、心臓が飛び出るかと思った。やや老けたけれど、コロネの先に映った同級生だったのだ。トレーナーに細身のデニムという普通の出で立ちなのに清潔感があった。ちゃんと美容院に通い、定期的に新しい服を買っているのだろう。育児にかまけて、女を捨てないオシャレママだ。
ボールを投げ返すと、女性と子どもは頭を下げた。
「ありがとうございます!」
大きな声で例を言って、砂場にできた友だちの輪に戻っていく。
人を傷つけおいて子どもがいるのか。友だちもいるのか。幸せに暮らしているのか。
「まあ、それでもいい。どうでもいい」
そう言いながら、男は立ち上がって女性に近づくと、ハンマーを振り上げていた。
「過去を叩きのめすんだよ」
悲鳴を聞いた気がする。意識の遠くで。振り下ろしたときの鈍い感触が、柄を握りしめた手の平から、肩から、腹の底へとつたわっていく。どさりと倒れた女性を見て、ふつふつと笑いがこみ上げた。
(人を傷つけたんだから、このくらい仕方ない)
どうせ今も人を見下して生きているんだろう。夫も子どももいて、豊かで幸せであるという優越感から。
ふと、子どもの泣き声が耳を貫いた。母親が倒れたことに泣いたのだろうか。
「ごめんね。君には罪はないんだ」
優しく、諭すように言ったとき、また、肩に手を置かれた。
「さあ、もう一度覗いてください」
パン屋の店主が立っている。チョコなしチョココロネを持って。
見てはいけない気がした。でも、店主は無理矢理に目の前にパンを押し出してきた。空っぽのパンの中身が視界に入ると、男は映し出された「それ」から目を離せなくなった。
パンの真奥、遠くにいたのはコンビニの店員だった。初出勤らしく、レジにまごついている。
それはいつだったかは定かではない。でも、確かに覚えている。急いでいた男は、わざとらしく舌打ちした。
「ブス。使えねぇな」
そう言い残して、男はコンビニを出ていく。
耐えられずにパンから視線をそらす。
足元が震えていた。あれは自分が誰かを傷つけた瞬間じゃないか。視界の先で、誰かが近づいてきた。砂場に集まっていたママ友の集団の中の一人だ。
その顔に見覚えがあった。
(まさか)
コンビニの、あの店員だった。
「自分は誰も傷つけたことがないとでも思ってんのかよ」
女の手には男のと同じハンマーが握られている。
泣き止まない子どもしゃくり声がうるさい。砂場の他のママ友が電話をしている。救急車を、警察を呼んでいるのか。
「過去を叩きのめすんじゃない。わたしはこの子を守るんだ」
女の腕が振り上げられ、自分のこめかみにハンマーが落ちてくるのが見えた。
そこからは、もう、何も覚えていない。
★
店主は店じまいをして運転席に乗り込んでいた。
「人は弱いねぇ」
嬉しそうに呟いて、ニタニタと笑った。バックミラーには、いつもどおりの公園が映っている。変わっていることといえば、ベンチに中年の男が横たわっているくらいだ。どうせ酔っ払いだろうと、誰も見向きもしなかった。
その公園に二度とパン販売車は来ない。